4-7「形骸化している」
視線、テレビの芸人から机上のお菓子へ漂った景色がまた紬の顔で停止する。目が合ったとき、ようやくアルコールが効いてきたのか、心臓が爆発したみたいに脈を打ち始めた。
「そういう紬こそ……」
好きな人はいないの。そう訊こうとして、喉が固まった。彼女の回答を勝手に想像したせいか、その先を声に変換することができなかった。
「私はねー。秘密」
それでも僕の質問は伝わってしまったらしく、紬からはいつもどおりの得意げな笑みが返ってきた。秘密にするということは、一応好きな人がいるということだろうか。経験したことのない感情が頭のなかをぐるぐると回っている。
「クッキー、食べ過ぎ」
この話題を続けていたら、自分がどんな表情をしてしまうかわからなかった。かたちのない、空虚、みたいなものが僕の後ろで感情の順番待ちをしている。「早い者勝ちですう」、またクッキーへ手を伸ばす紬を見て、いま心の重さが増したのは彼女に好きな人がいるかもしれないせいだということに気づいてしまった。
視界が軽く揺れるようになってきたころ、机の上に広がっていたお菓子の半分ほどが抜け殻に姿を変えていた。これ以上アルコールを摂る気になれず、残り一口ぶんのチューハイを机の上に放置している。紬は机のゴミをかき集めると、ゴミ箱を求めて立ち上がり、そしてばたりと床に倒れ込んでしまった。見覚えのある光景だ。
「大丈夫?」
机を支えにして腰を上げ、一応、紬の安否を確認しておく。彼女の前に座ったとき、「起こしてー」、猫を誘うみたいな声で紬が言った。仕方なくまた立ち上がり、彼女の手を握る。
触れている部分から膨大な量の熱が流れ込んできて、それと引き替えに脳の中身が吸いだされてしまわないか心配だった。自殺を止めるという秘め事ではなく、とろけた笑顔で見上げてくる彼女へ向けてしまった不安定な感情が伝わってしまいそうだった。
「ん」
「あっ、ごめ」
身体のコントロールが上手くいかず、僕は、紬を引っ張るのに必要以上の力を使ってしまったようだった。紬は立ち上がった拍子に大きくバランスを崩し、そのまま僕にもたれかかるようになる。倒れないよう後ろへ踏みだした足に、彼女の重さがぐっとのしかかった。
身体を密着させた状態のまま、周囲からぴたりと音がなくなった。紬と触れている部分が熱を帯びて、大きく脈を打っている。酒と彼女の体温のせいで、このままでは身体が蒸発してしまいそうだった。
「だ、大丈夫?」
形骸化している、と思った。鼓動が声に滲んで、意味を失った言葉が空気へ溶け込んでいく。少しの間があって、「うん」、耳元で紬の返事が聞こえた。言葉が吐息ごと、空気を経由せずに伝わってきている。鼓膜がむず痒かった。
このまま彼女と身体を密着させていては、訳のわからない衝動に襲われ、心の中身を吐きだしてしまうかもしれない。アルコールで火照った脳がなんとか理性にしがみついている。
「……えっと、風にでも当たりに行こうか」
彼女が頷いた拍子に、柔らかい髪が僕の頬を優しく撫でていった。身体が離れたあとも浴衣のなかには紬の体温が残ったままで、その温度ぶん、身体から心が沁みだしているみたいだった。身体と外部の境界線が曖昧になっていた。
部屋を出たとき、心音の余韻が静かな廊下の空気へ溶け込んでいくような気がした。絨毯を踏む二人ぶんの足音が、一定の間隔でぴたりと重なる。フロントに鍵を預けて自動ドアをくぐるまで、僕たちは互いに口を開かなかった。
扉の先、浴衣の内側に籠もっていた熱が帳消しされるみたいに攫われていく。夜はすでに秋の風を迎えていたようだった。「寒いね」、紬の声が浮遊したみたいになっている。「うん、寒い」、歩幅の広い声が喉から引きずりだされる。
「ねえ、詩摘くん」
「ん」
「手、繋いでも?」
何も言わず、そっと紬の手を取る。彼女の手は花火大会のときよりも少し温かかった。「えへへ」、紬のゆったりした笑い声が聞こえてくる。この場合、どんな顔をするのが正解なのだろう。僕は紬のほうへ顔を向けることができなかった。
「あ、星が綺麗」
「……本当だ」
周囲に光が少ないせいか、上空の景色は普段目にしているものよりずっと美しかった。時間をかけて空を見上げる機会などなかったため、星が瞬くものであるという事実を長らく忘れていた。
「詩摘くんはさ、本当に好きな人とかいないの?」
視線を下ろした先で、紬がこちらを覗き込んでいる。彼女を好きだと思っているのはきっと、アルコールの熱と彼女の体温に浮かされているせいだった。
「いる、かもね」
心のずっと奥に秘めていたはずの言葉が、いつの間にか音に変換されていた。熱と一緒に漏れだしていた。
「もしかして、私?」
ここで肯定したら、もう後に退けなくなる気がした。「紬こそどうなの」、本能よりもっと深い、魂みたいな部分で心の流出を抑制している。
「うーん」
視界をほんの少しだけ傾けたとき、紬はちょうど僕から顔を背けるところだった。しばらく宙を漂った視線が地面に落下し、ゆっくりと僕のほうへ戻ってくる。
「詩摘くんは、私にとっての特別だよ」
「なにそれ」
「なんだろうね」
ちいさく首を傾げた紬から笑顔が零れて、つられて僕の口角も上がっている。身体が熱くて仕方がなかった。秋の風は、身体から熱を奪いきるのには不十分だった。
「こんな綺麗な星空を眺めてるとさ、人間って、なんだかちっぽけなもののように思えてくるよね」
「たしかに、そうだね」
神聖さ、みたいなものに当てられていたのは僕も同じだった。どれだけ手を伸ばしても届かないものがたしかに存在していた。
「死にたくないなあ」
ぴたり、足が止まる。身体が重力に縛られて、次の一歩を上手く踏みだせなくなっている。しかしそれは僕の思い込みだったようで、紬と手を繋いだまま、僕はしっかりと前へ進み続けているようだった。意識だけ、数メートル後ろに置き忘れていた。
「なんてね。なんだ、その顔は。あはは」
大きく笑いながら、本当に冗談だったみたいに紬が言う。形骸化していた。自分の身体がどこにあるのかわからない。形骸化して、紬と触れている部分だけが僕そのものだった。
彼女の言葉を、言葉のとおりに片付けることができなかった。都合のいい解釈かもしれないが、彼女自身が生きることを望んでいるのに、それでも自殺を選ばなくてはならないことが悔しくて仕方がなかった。視界がぐっと狭まったようになり、身を包んでいた浮遊感がどんどん失われていく。
その日、紬が死んだあとの人生を想像してしまうせいでなかなか寝付けなかった。僕は、何もできない僕を殺してしまいたかった。窓から見える夜空はやっぱり美しかった。
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