4-8「偽物のエンディング」

「山、登ります」

「はあ?」


 旅行二日目、山を登ることになった。とは言っても本格的な登山をするわけではなく、話を聞いていくと、山の頂上を目指すのにはロープウェイを利用するようだった。僕が履いてきたのは安物のスニーカーだし、必要な道具を何ひとつ持ってきていない。その状態で登山をすると言われたら帰宅も視野に入れていたところだ。


「うーん、こっちかな」

「あっちじゃない?」


 昼食を済ませた僕たちは、ふたりで地図アプリを眺めながらゆっくりとロープウェイ乗り場を目指した。昨夜彼女を愛おしいと思ってしまったのは脳がアルコールに漬けられていたせいと見て間違いない。だからいま肩が触れ合うほどの距離感で歩いているこの状況でも僕はまったく動揺していない。していないはずだ。


 時期のせいかそれとも昼食の時間が噛み合ったのか、僕たちの他に、ロープウェイの乗り場には誰もいなかった。カウンターでチケットを購入し、適当な話をしながら時間を潰す。そうしているうちに出発の時間はすぐにやってきた。


「今更だけど、無理があると思うんだよ。ロープ一本で車体と人間を支えるなんて」


 動き始めてから一分も経たないうちに、車体は昨日の吊り橋とは比べものにならない高度に到達していた。車や建物はミニチュアのようだし、地面を歩く人たちは豆粒にしか見えない。


「大丈夫だよ、落ちないから」


 シートに座って震えることしかできない僕とは対照的に、紬は窓に貼り付き、遠ざかっていく街をじっと眺めている。自殺志願者というのはやはり高いところが好きなのかもしれない。「たぶん」、彼女が余計な言葉を追加したとき、車体が音を立てて大きく揺れた。


「街のほう、見てみなよ。遠く見てると、怖いのも和らぐよ」


 彼女に促されるまま、視線を足元から車体後方の窓へ滑らせてみる。ふと目に付いた電車を追っていくと、ちょうど僕たちが泊まった旅館の最寄り駅に停車した。


 たしかに遠くを見るというのは名案だったが、到着のアナウンスが入るまで僕の心が安まることはなかった。いくら脳が発達したとしても、生物としての根源的な恐怖に抗えるわけがないのだ。車体が滑走路に着地してから、ようやく僕は席を立つことができた。


「ね? 落ちなかったでしょ」

「結果論だよ。もし落ちてたら僕が『落ちたでしょ?』って言ってた」

「あの高さから落ちたら二度と口を開けなかったから、私の勝ちだよ」

「え、これ、なんの勝負?」


 ロープウェイを降りたその先、アスファルト製の遊歩道が整備されているようだった。街にいたときの騒々しさは一切なくなり、鳥のさえずり、それから飛行機の低いエンジン音だけがそっと空気を揺らしている。遊歩道に差しかかったとき、「ちょっと待って」、靴紐を結んでいたらしい紬が後ろから駆け寄ってきた。


 僕たちが歩く道の両脇で、花や背の高い木々が堂々と列を成している。明るく照りつける太陽が葉の表面に高い彩度で反射して、鮮明で穏やかなものだけが身体に沁み込んでくるようだった。


「旅行って聞いたとき、もっとアクティブなことをするのかと思った」

「アクティブなこと?」

「うん。海で遊んだり、バーベキューしたり。自然観光が多いから、意外だなって」

「旅行ってこういうものじゃないの? わかんないけど」


 どうなの、というように紬が首を傾げている。そう言われても僕は学校の行事でしか旅行を経験していないため、彼女の質問に有意義な回答を行うことはできそうになかった。紬もきっとそれは同じはずだ。この話を終わらせるために周囲を見回してみたが、都合のいい話題はどこにも落ちていなかった。


 空は気持ち悪いくらい綺麗に澄み渡っていた。ずっと遠くに、より濃い色をした山の陰がいくつも並んでいる。死ぬ間際は自然がより繊細で美しく見えると何かの本で読んだことがあった。いま僕が見ている景色は充分綺麗なのに、彼女の目にはどう映っているのだろう。


 唐突に、紬が「死にたくない」と言っていたことを思いだした。彼女の言葉が本心から出たものなのか、確かめる必要があった。


「こうやってさ、人がいない場所で自然に囲まれてると、心が浄化される気がしない?」

「人間っていうのはちっぽけに思えてくるよね」

「詩摘くん、それ、小説みたい」

「昨日の夜、紬が言ってたよ」

「私、そんな恥ずかしいこと言ってた?」

「うん」


 ぴたり、突然立ち止まった彼女から、「あー」とひときわ大きな声が上がる。それに驚いたのか、近くの花に止まっていた蜂が慌てたように飛び立っていった。


「言ったね、たしかに。うん、恥ずかしいなあ、なんか」


 紬の足が大きく宙を滑走し、少し先の地面に着地した。一歩ぶんのスペースを開けたまま、同じスピードで彼女の背中を追う。


「恥ずかしついでにさ、手でも繋いじゃおうか」


 彼女の白い腕が、後ろへ振られた拍子にぴたりと停止する。「なにそれ」僕が笑いながら言うと、「冗談だよ」歩幅の広い声が返ってきた。紬が次の一歩を踏みだすのと同時、僕へ差しだされていた手が前方へ戻っていく。


 二、三歩駆けて彼女の横に並び、手を差しだしてやった。ふわり、その拍子に紬の白いワンピースが波を打つ。彼女は満足げな笑顔をこちらへ向けたあと、何も言わずに僕の手を握った。


「……ねえ。もし全部の項目を達成したらさ、自殺を早めるの?」

「なんで? 早めないでほしいの?」


 もちろん、彼女には生きていてほしい。しかし僕は、未だにその質問に対する正しい返答の仕方がわからなかった。判断を誤れば取り返しのつかないことになってしまう。「どうだろうね」、結局僕はどっちつかずの回答をするしかなかった。


 足元を黒い影が横切り、つい視線が引きずられた先、真っ白な鳥が地上を見下ろしている。鳥は僕たちを一瞥したあと、聞いたことのない鳴き声とともにどこかへ飛んでいってしまった。


「紬」

「んー?」


 いつの間にか遊歩道の横には小川が流れていて、僕たちが歩くその先、ちいさな池に流れ着いているようだった。池は高い解像度で空を映しだしていて、そのなかを数匹の錦鯉が飛翔するみたいに泳いでいる。葉から水滴が落ちたとき、空が歪んだみたいになった。


「最後の項目……って、元々なんだったの」

「元々?」

「消した痕があったから。詳しくは読めなかったけど」


 紬はしばらく考え込んだあと、「バレちゃったか」、笑いながら言った。それから池を覗くみたいにしゃがみこんで、ゆっくりとこちらを見上げる。僕と繋いでないほうの手の、人差し指がぴんと立って、紬の口元へ運ばれた。


「でも、最後には達成できたらいいなって、思ってます」


 明らかな照れ笑いを浮かべる紬の横に、僕は、何も言わずに腰を下ろした。簡単に想像できてしまいそうで、初めて見る表情だった。

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