4-9「もういっそ付き合っちゃおうか」

 波紋が残る水面には、青く澄み渡った大空を背景に、肩を寄せて座る僕と紬が映しだされている。こうして見ると恋人同士みたいだね。喉元まで上昇してきた言葉をぐっと飲み込む。


「ねえ、詩摘くん」


 隣から聞こえてきた紬の声は、弾んでいるようにも、震えているようにも聞こえた。だから僕は直接ではなく、水面越しに彼女のほうへ視線を送ることにした。


「こうして見るとさ」


 僕と紬、ふたりの視線が水面の全く同じ地点に落っこちている。彼女の声が途切れてから、さきほど飲み込んだ言葉が再び上昇を始めた。


「……恋人みたい?」


 心は小池の数センチ上を浮遊していた。水面越しにすら彼女と目を合わせ続けることができず、飛び退くみたいに離れた視線をどこに着地させようかと悩んでいる。折りたたんでいる足の感覚が曖昧になって、このままではバランスを崩し、池に転落してしまいそうだった。


 風が周囲の木々を揺らし、水面に波を作り、それから僕の前髪をふわりと浮かせる。視界が拓けて、ゆっくり彼女のほうへ視線を向けてみると、ぎゅっと結ばれた唇はどこか笑いを堪えているようにも見えた。


「なんだよ」

「……同じこと考えてたんだなって」


 紬がそう言うと、堰を切ったように足元の錦鯉たちが泳ぎ始めた。「だったらさ」、紬の視線が数メートル先の対岸に乗っかっている。転落覚悟で手を伸ばせば、対岸の岩に触れられそうだった。


「うん」

「もういっそ付き合っちゃおうか」


 太陽光が水面で跳躍し、紬が光に包まれたようになった。視界が一気に広がり、一瞬、自分と紬の境界線が曖昧になる。自分がどんな表情をしているのかわからなかった。


 頷いてしまいそうなのを、必死に抑えていた。僕が肯定的な言葉を口にすれば彼女の自殺が大きく現実に近づいてしまう。それでも、彼女の言葉を無下にできるほどの勇気は持ち合わせていなかった。


「……付き合ったら、楽しそうだね」


 結局、曖昧な返事をすることしかできなかった。「そうだね」、紬が眉尻を下げてちいさく笑っている。視線を対岸へ移したあと、僕はまた彼女を見ることができなくなってしまった。繋いでいないほうの手から、紬にもらった熱がどんどん逃げだしていく。


 僕は、たしかに、彼女のことが好きだった。


 いま紬と交際しなかったことは、自殺を止めるための一歩にすらなっていなかった。現状を先延ばしにしているだけだ。それだったら死ぬまでの間紬を幸せにして、笑顔で自殺させてあげたほうがいいのではないか。思考が同じところをぐるぐると回っている。


 彼女の自殺を止めると決めてからなにも進展していない。救うってなんだっけと思った。山を下っても彼女のあの言葉が本心だったのか、どうしても訊くことができなかった。タイミングを見失ってしまった。


 その後の観光を終えてからも、やっぱり僕は彼女と目を合わせることができなかった。山での陰気は紬の明るさが払拭してくれたものの、心のなかに浮かぶ彼女の悲しげな表情が消えることは決してなかった。


 いまは互いにつらいかもしれないが、紬の自殺願望が消えれば幸せになれるはず。では、彼女が自殺を諦めるのは一体いつになるのだろう。それまで紬は苦しい思いをしなくてはならないのだろうか。家に居場所はないし、そのことを相談できるような友達もいない。僕がその拠り所になることを拒否すれば、彼女は居場所を失ってしまう。


 紬を救うためにはまず、自殺の予定をなくしてもらう必要があった。僕が堂々と彼女を助けるためには、昨夜紬が口にした「死にたくない」という言葉が本心だということを、彼女自身の口から引きださなければならない。遠回しに聞く機会を窺っていたら、またタイミングを見つけられずに終わってしまう。覚悟を決めなければならなかった。


「じゃあ、また」


 僕たちが自宅の最寄り駅に到着したのは、空が完全な夜に移り変わってからだった。改札を抜けた先で、紬がちいさく手を振っている。「話、あるんだけど」、絞りだすみたいに言ったせいか、引き留めるための言葉は大きく震えた声に変換されてしまった。

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