4-10「死にたくない」
秋らしい風がふわりと頬を撫でていった拍子に、心まで攫われてしまったのか、右、左、右と踏みだしていた身体が空っぽになっているように感じた。これまで季節なんか全く気にせず生きてきたのに、彼女の自殺に付き合うようになってから嫌でも時間の経過を感じるようになった。生きていること、そのものが認知の外側にあった。
公園に足を踏み入れると、紅葉にしては鈍い色の葉が街灯の光で輝いているのが見えた。星はいくつか目につくものの、昨夜の散歩道で見た景色にはほど遠い。彼女の手を握ってしまいそうなのを、ポケットに押し込むことによってやり過ごした。
「座ろう」
公園の端に、木製の古びたベンチが設置されていた。「うん」紬の返事が風に溶け込んでいく。
「話って?」
遠くのほうから救急車のサイレンが聞こえてくる。ついさきほどまで僕は彼女のあの言葉が本物であると信じ込んでいた。それなのに、「話がある」と口にした瞬間から、もしかしたら本当に冗談だったのではないかと余計なことを考えてしまっている。未だに一歩を踏みだす勇気が出ないから情けなかった。
『俺らがどうにかするまでの間、居場所になってくれれば充分だよ』、龍介がそう言っていたことを思いだす。僕にできることは限られている。だからこそ、できることを全うするべきだ。
「昨日の夜言ってたことって本心だったの? 死にたくないって」
肩がわずかに触れるくらいの距離で、紬が目を丸くしている。ころんと首を傾げている。
「どうしてそんなこと、聞くの?」
「いや、なんとなく」
「そんなに改まって言われたら、なんとなくじゃないって気づいちゃうよ」
「それは、そうだね」
紬は薄く目を伏せると、そのまま正面へ視線を移動させてしまった。はは。場を誤魔化すみたいに吐きだした笑いが悲しげに宙を舞っている。
「私は、死にたくないにしても自殺はするよ」
車が公園の横を通過し、そのとき、木の影が公園にめり込むようなかたちになった。街灯なんかよりずっと明るい光のせいで、周囲の暗闇がいっそう力を強めている。ヘッドライトが先の交差点に吸い込まれていくと、細長く伸びていた影は元の場所にぴたりと重なった。
「死にたくないのになんで自殺するの? 生きたいなら――」
「詩摘くん」重く滴るような声がして、僕の言葉が途中で遮られた。
「『生きたい』と『死にたくない』は違うよ」
「死にたくないのに、死ななくちゃいけないのかな。生き延びた先で――」
「詩摘くんはどうしたいの?」
久しぶりに合った紬の目は、鋭く、悲しい色をしていた。初めて見るその表情に、喉が固まったようになっている。
自殺を止めたい。それを言うかどうかずっと迷っていた。もし彼女が本心で死にたくないと考えているなら、止めたいことを伝えれば穏便に済むはずだった。
「僕は、紬の自殺を止めたい」
めくった先のページが白紙だったみたいに、紬の顔から表情が消えた。あ、と思った。
「本気で言ってる?」
わずかに身体を動かすのも重たくて、僕は彼女の言葉に頷くことができなかった。どうしようもなくて、空気を押しだすみたいに、「うん」、返事をする。前に身を乗りだすような体勢を取った紬から、大きな溜息が聞こえてきた。
「じゃあ、詩摘くんは私の自殺を止めてどうするの? そのあとのことは? 自殺を止めたとしても原因はなにもなくならないんだよ。私はまた苦しまなくちゃいけないの?」
充分な解決策を用意していたわけではない。でも、まずは彼女の自殺を止めることが最優先だ。龍介の力を借りて、彼女を救うしか今は手立てがなかった。
「うちに住むことにして、ゆっくり――」
言い訳みたいに吐きだしていた僕の言葉が、「誘拐」、紬の低い声に遮られた。封殺された言葉たちが頭のなかで輪郭を失っていく。
「児相とか警察もダメだからね? もちろん大人の人も。まさか何も考えないで止めようとしてたの?」
「でも、人生どうにもならないことはないと思う。生きてさえいればやり直すことはできる。紬のことを思って、救おうとしてる人もいる」
「それ、誰? 先生は何もしてくれないよ? それどころか無駄なことして、いつも私が酷い目に遭わされる」
「でも――」
「死ぬ前に結末が決まってるっていうことがあるの!」
紬の声が静かな公園に響き、僕の鼓膜を何度も何度も揺らした。その声に当てられて、身体が空中に固定されている。紬はベンチから立ち上がると、飛び跳ねるみたいにリュックを背負い直した。
「詩摘くんはなんでわざわざ私を止めようとするの?」
「………紬が、大切だから」
「嘘」
「嘘じゃない」
顔を上げた拍子に、公園の時計が十時ぴったりを指しているのが見えた。彼女と旅行にでかけていなければ、ここから自分の時間が始まるはずだった。あれ、こんなところで何してるんだろうと思った。
「自殺を止める行為は全部、止める側の勝手な都合でしかないんだよ。大切に思ってくれてるならさ、どうして私を苦しめようとするの?」
「そんなつもりは」
「結果そうなってるじゃん! 生きたいとか死にたくないとか関係ないっ」
声の余韻が公園からなくなったころ、紬は僕を一瞥すると、こちらに背を向けて歩き始めてしまった。砂利を擦るみたいな足音が、離れるごとにちいさくなっていく。
「でも、僕は」
気の利いた言葉は思い浮かばなかった。数メートル先、街灯の光がちょうど当たらない場所で紬がこちらを振り返った。
「詩摘くんにはわからないよね。この年になって親の前でトイレに入るのが怖いとか機嫌取るためにいろいろしなきゃとか、冬でも冷たい床で寝ないといけないとか、明日のごはんどうしようとか……、詩摘くんには親がいないもんね。だから考えようともしてない」
「それは関係ないだろ。だいたい僕だって――」
「迷惑」
気づけば自分も立ち上がっていた。たしかに自分は大して苦しんでいないかもしれないが、彼女の言葉を聞いて、これまでの自分を否定されたように感じた。
「……何も考えてないくせに助けようとされるの」
紬はそれだけ言うと、今度こそ公園の外へ歩いていってしまった。自殺を止める行為は全部止める側の勝手な都合でしかない。彼女の言葉がじわじわと頭を侵食してくる。僕は彼女を追いかけることができなかった。
これだけ長い時間迷っていたのに、結末は一瞬だから本当に嫌になる。そういう関係ない方向へ思考が走っていって、自分が冷静さを失っていたことに気づいた。視界から消えるまで、紬がこちらを振り返ることはなかった。
信じているだけではどうにもならないことがある。心は重たくて、冷たい。紬が歩いていった方向をじっと眺めてみる。輪郭を獲得した憂鬱が、僕を刺し殺そうとしていた。
「くそっ」
不満をぶつけるみたいに蹴った空き缶は地面を転がり、そのまま暗闇に溶けていった。
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