第5章『見慣れない季節に閉じ込められている。』

5-1「からっぽの教室」

 今年の連休はちょうど夏と秋の境目に設定されていたようだった。ローファーに足をねじ込み、重たい身体を支えるようにして玄関の扉を引く。外へ足を踏みだしたとき、第一ボタンの隙間を縫うように冷気が入り込んできた。


 この日は紬と話さなくなってから最初の登校日だった。明らかに連休明け以外の要因で身体が重くなっている。


 今月が終われば、紬が自殺するまで残り半年になる。この距離感を埋めることなく、僕の知らないところで彼女が死ぬかもしれない。彼女との言い合いで生まれた苛立ちや憂鬱は、結局、一緒に過ごしたこの数ヶ月を凌駕することはなかった。


 紬とまた言葉を交わすためには、自殺を許容するか、彼女を止めたあとの有効的な手段を提示する必要がある。自殺を止めたあとのことはいくら考えても思いつかないし、このまま彼女を死なせてやりたいとは思えない。どっちつかずの思考が朝起きてから眠りに就くまでずっと頭のなかをぐるぐると回り続けていた。


 自転車から鍵を引き抜いたとき、このあと起こるであろうことを想像し、身体が一段と重くなったように感じた。紬と目が合っても興味がないみたいに逸らされて、話しかけたとしてもきっと愛想笑いを返される。教室へ近づくごとに溜息の間隔が短くなっていった。


 関係ない。元の日常に戻るだけだ。ひとりで昼食を食べて、クラスメイトの喧騒を上手く躱しながら小説に目を通す。何も変わらない。紬との日々が異常だっただけだ。


 教室の扉を開けたとき、あれ、と思った。いつもなら明るい声が彩っている教室の隅に、紬の姿はなかった。教室をぐるりと見回してみても、見覚えるあるクラスメイトが談笑しているだけだ。花火大会の日を除き、紬はどんなときでも僕より早く集合場所に来ていた。登校日だって一番に教室の扉を開けることを僕は知っている。


 もしかしたら図書室で時間を潰しているのかもしれない。もしくは寝坊か何かで遅刻してしまった可能性もある。そんな淡い希望を打ち消すみたいに、彼女が現われないまま始業のチャイムが鳴った。


 朝のホームルームの最中、龍介は紬の欠席理由について何も言わなかった。ぐるり、教室を一周していた視線が僕に着地する。代わりに彼が放ったのは、「芳村。昼休みに職員室」のひとことだけだった。朝のホームルームはそれで終了してしまった。


 彼女が学校に来ない理由は僕にあるのだろうか。龍介からの呼び出しも、深読みせずにはいられない。もし、すでに自殺を決行していたら。一度それを考えてから、どんどん焦りが募っていった。


 昼休みに職員室の扉を開けたとき、教員たちの視線が一斉にこちらを向いた。なかには哀れみのような表情を浮かべる者もいて、一瞬、紬が本当に自殺してしまったのではないかと思ってしまった。


 龍介に連れられて空き教室に入り、促されるまま席に着く。彼は机を引きずって向かい合わせると、重たそうな動作で椅子に腰掛けた。


「詩摘さ、お前、瀬川と付き合ってんの?」


 予想外の質問だった。「はい?」、素っ頓狂な声が口を衝く。「いや」、続けて空気を押しだすように返事をすると、龍介は怪訝そうな表情で首を傾げた。


「まあ、いいや。連休中、一緒に旅行してたの、瀬川だろ?」


 どうして彼がそれを知っているのか、見当も付かなかった。いや、これまでの話の内容から推測したのかもしれない。とりあえず頭を縦に振って肯定する。教室の窓から、日光が四角く差し込んでいた。


「それが何?」

「酒、飲んでただろ」


 風船が割れたみたいに、心臓が勢いよく飛び上がった。室内の空気は冷えきっているのに、背中にべったりと汗が滲んでいる。「えっと、飲んだ、けど」、僕がまた首を縦に振ると、「そうかあ」、苦笑いするみたいに龍介が言った。


「酒とか煙草が気になるのはわかるけどさ――」


 未成年の飲酒は身体に害があるとか学校の看板を背負ってるとか、そういうありきたりな理屈で叱られたあと、「次は気をつけろよ」の言葉で彼からのお叱りは終了した。


「ねえ」


 ドアに掛けていた手を離し、龍介のほうを振り返る。「なんだ?」机を戻しながら龍介が顔を上げる。太陽が雲に隠されたのか、地面の四角い光が少しずつ影に溶け込んでいった。


「その情報ってどこから入ったの? 旅館?」

「旅館じゃないよ」


 旅館側に僕たちの通う学校は伝えていなかったし、酒類の缶もきちんと回収したはずだ。紬の叔母以外に考えられなかった。


「旅館じゃないってことは……」

「いいんだよ、お前は知らなくて。早く戻らないとメシ食う時間なくなるぞ」

「でも」

「ああ、そうだ。瀬川に伝えておいてくれ。しつこく叱るつもりはないから学校に来いよって。注意はするけどな。ほら、俺にも立場があるからさ。うるさいんだわ、主任が」


「紬の家が」から始まる予定だった僕の言葉は、途中で龍介に遮られてしまった。 


 押しだされるみたいに教室を出たあと、まず紬にメッセージを送ろうと考えた。飲酒を密告されて叱られるのが嫌で登校を拒否した、などという典型的な理由とは思えない。おそらく彼女を襲っているのはそういう安い恐怖なんかではない。


 叔母から母親に、飲酒のことが伝わってしまったのだろう。親が心配のあまり子を叱る、という営みは紬の家庭に存在しない。飲酒の件が原因で暴力を振るわれ、学校に来られなくなるような怪我を負ってしまった可能性も充分に考えられる。


 もしくは何か精神的な苦痛を味わい、登校する余裕がなくなってしまったのかもしれない。とにかく、彼女が無事であるとは考えづらかった。


『大丈夫?』


 そう入力して、送信ボタンをじっと眺める。このメッセージを見て、紬は一体どんなことを考えるのだろう。彼女にとって自殺を止めるということは自分を苦しめることと同義であり、広い観点で見れば、それは自分を痛めつける母親と同じ枠組みの存在なのかもしれない。


 裏切りだと思われても仕方がなかった。もしかしたら僕の顔などもう見たくないと考えているかもしれない。画面をあと一回触ればいいだけなのに、仲直りがこんなに難しいことだったなんて知らなかった。


「ふう……」


 思いっきり空気を吐きだし、その勢いで送信ボタンに指を乗せた。ぽん、軽い音がして『大丈夫?』の吹きだしが画面に表示される。いま彼女が僕をどう思っていようと関係がなかった。とにかく紬の無事が確認できればそれで充分だった。


 黒板に書かれた日付が十月に変わってからも、彼女からの返信が来ることはなかった。


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