5-5「形式上のハイライト」

 生き延びるということがすべてではない。紬が自殺を何ヶ月も早めざるを得なかったことが、その主張をより正当性のあるものにしている。彼女を思って行動してきたはずなのに、僕は随分と遠回りをしてしまったようだった。


「……ごめんね。詩摘くんにまで迷惑、かかっちゃったよね」


 ココアから立ち上る湯気の向こうで、紬が目を伏せて笑っていた。マグカップに押し付けられた口の端に、生々しい傷が浮かんでいる。かたちのない痛みがそのまま心の傷になって、彼女をこうして自殺に追いやろうとしているのだと思った。


「僕のほうこそ、ごめん。あのときは紬の気持ちを何もわかっていなかった」


 元気出して。大丈夫だよ。それっぽい言葉はたくさん浮かんでくるのに、紬に渡す言葉としてはどれも適切ではなかった。一般的な尺度で測定され続けた言葉はどうしても紬に似合わなかった。


「私こそ、詩摘くんが私を思ってくれてるからこその行動だって気づけなかった」


 ちいさく液体を啜る音がする。冷たい空気が真っ白な湯気をより強く映しだしている。紬は一息吐いて、それから再び口を開いた。


「いや、本当は気づいてたんだけど、でも、ただの八つ当たりだよね、あんなの。悪いのは私のほうだよ。……私、もう詩摘くんとは会えないと思ってた」

「……強引な手段に出ておけばよかった。もっと、初めから」

「でも、来てくれた。私はおかしかったのかもしれない。詩摘くんが来てくれるまで、逃げようとすら思わなかった。頭から、抜けてた」


 落っこちるみたいに彼女の顔が下を向き、僕からは痛々しい傷と頬の青しか見えなくなってしまった。彼女の痛みがぐっと体内に入り込んできて、自分まで痛めつけられているような気分になる。照明が点いてもそこに追加されたのは形式上のハイライトだけで、やはり紬の瞳が冷たく乾燥していることに変わりはなかった。


「……ゆっくりしていこうよ。とりあえず」


 今日はクリスマスだし。言葉を追加してから、ようやく紬の顔が数センチ上がる。彼女の自殺を止めることができないのであれば、せめて親から離れたいまこの瞬間からは笑っていてほしかった。僕にできることといえば、自殺するしか選択肢がない彼女を幸せに死なせてあげることだけだった。


「うん、そうしよう」


 ちいさく頷きながら笑う紬を見て、僕はこの日顔を合わせてから初めて明確に彼女の笑顔を見たことに気づいた。


 いつの間にか、腹が減り始めていた。思えば昼食以降何も口にしていない。話し合いの結果、近くのスーパーへ夕食を買いに行くことになった。


 クローゼットの奥からもうひとつのコートを取りだし、紬の肩にそっと被せてやる。彼女は腕を通して袖を口元へ運ぶと、「詩摘くんのにおいがする」、ちいさく頷くみたいに言った。


「え、どんな」

「安心するにおい」


 コートの他にも、何か傷を隠すためのものが必要だった。たしか、以前、不織布マスクを買ったままテレビ台のどこかに放置していたはずだ。いにしえの記憶を頼りに雑誌やらデスクトレーやらを除けていると、埃で咳が止まらなくなったころにようやくマスクが見つかった。


「傷、隠れてる?」

「うん」

「よかった。ありがとう」


 家を出る際、紬にスニーカーを貸した。サイズは合わないだろうけど、靴紐を締めればそれなりに歩くことができそうだった。玄関の扉を開けて外へ足を踏みだしたとき、「ごめんね」、紬が眉尻を下げて言った。


 ごめんね。その言葉を聞くたび、不甲斐なさで心が沈んでいくような気分になる。きっと紬は僕のせいではないと言ってくれるだろうけど、それでも僕は、ここまで上手く救ってあげられなかった自分を許すことができそうになかった。


「やっぱり叔母さんに気づかれてみたい。お酒買ってたの」


 エレベーターを降り、コートに埋まりかけていた紬の手を握る。さきほどまで室内にいたはずなのに、彼女の手は冬の空気と同じくらい冷たかった。


 あのとき、僕が彼女を止めていれば。嫌われてもいいという覚悟を、もっと適切な場所でできていれば。いまさら考えても全く意味がないのに、こうして後悔に時間を費やしてしまうのは一体なぜなのだろう。「悪い人じゃないんだけどね」、紬はちいさく笑っていたけど、僕は彼女を苦しめるすべてのものが憎くて仕方がなかった。


「叔母さん、『高校生だけで旅行させるなんて危ない』って、お母さんに言ったみたい。それに、お酒を飲んでたかもしれないってことも伝わっちゃったの。うちのお母さん、一回信じると考えを変えないから。いくら否定しても頷くまで問い詰めたり、殴ったりしてくるんだ」

「……ひどい人だね。いまさらだけど」

「まあ、お酒、飲んだんだけどね。たぶん、お母さんは私を手元に置いておければ、理由、なんだってよかったんだよ。私、後悔してないよ。だって、詩摘くんとあの夜を過ごせて楽しかったから」

「うん、楽しかった」


 太字に色づけられた言葉が口を衝き、それが本心であるとすぐに気がついた。あの夜が楽しかったのは事実だ。それでも、あの時間が数ヶ月にも渡る苦しみに相当するとは言い切れない。だったら僕も、同じ苦しみを味わえればよかったのにと思う。


「あの日、もう二度と家から出るなって言われて、ずっと部屋に閉じ込められてたの。傷があるから学校には行けないし、家にいると殴られるから傷が増える。その、繰り返し」

「ごめん。もっと早く駆けつけてれば……」


 紬はこちらを振り返り、眉尻を下げて困ったように笑うと、「詩摘くんのせいじゃないよ」、予想どおりの言葉を口にした。僕が紡いだ言葉は、彼女から重荷を奪うためでも自分を痛めつけるためでもなかった。僕は心の底から自分の無力さを謝りたかった。


「謝らないといけないのは、私のほう。叔母さんからお母さんに詩摘くんの名前が伝わって、学校に連絡を入れちゃったみたい。ごめんね」

「……そんなこと」


 僕は全く気にしていないのに、どういう言葉を使えば建前ではないことを伝えられるのかわからなかった。相変わらず僕は言葉選びが下手だった。「……ごはん、ちゃんと食べてたの?」なぜかそんな言葉が出てきたあとに、その思いが一段と強くなった。


「ふふっ。全然。おかげでダイエット大成功だよ」


 きっと、彼女が弾むような話し方をするのは、言葉の根底にある寂しさとか悲しさとかそういう否定的な感情を紛らわすためだった。声の裏側に、途方もない切なさが隠れている。僕以外、誰もそれを見つけることができなかった。

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