5-4「メリークリスマスイブ」
荷物を床に放り、制服のままベッドへ倒れ込む。何かをしなければ心が腐り落ちてしまいそうなのに、一切身体を動かす気になれなかった。枕に顔を押し付けて、そのまま呼吸を止めてみる。苦しくなっていくこと、そのものが心地よかった。
このまま死んでしまってもいいとさえ思えた。それでも結局は耐えきれずに寝返りを打ってしまうから、自分は決して紬に寄り添えないような気がしてくる。
近頃は目を覚ましても動く気になれず、ぼうっと天井を眺めながら、何かきっかけが生まれるのを待ってばかりだった。そういうときは、どうして自分は生きているのだろうと考えている。何か意味がないと生きていてはいけないような気がしていた。憂鬱な感情から熱が生まれて、身体が蒸発しそうになっている。
生きている間幸せになれないなら、せめて死んだあとだけでも救われてほしかった。僕はいまになって、ようやく天国を考えだした先人たちの考えを理解できたような気がした。
せっかくのクリスマスイブなんだし、張り切って料理でもすれば気分が晴れるかもしれない。紬と出会う前だったらそんなこと思いつきもしなかった。結局、天井が完全に真っ黒に塗り替えられてからも、僕はその光景をじっと眺めることしかできなかった。
紬に会いたかった。まだ自殺を望んでいるなら、今度こそ胸を張って協力してやると言いたかった。想いも伝えて、彼女が死ぬその瞬間まで一緒にいたかった。
紬が死んだあとはどうしたらいいのだろう。すでに答えは出ていた。僕は、紬と一緒に首を吊ってあげたかった。生きていてもどうせ世界に及ぼす影響なんてないし、怖くないわけではないが、紬がいない世界を一人で生きていくことに比べたらどうってことはなかった。
自殺するまでにしたい100のこと。あのノートにはまだ達成していない項目がたくさんあったはずだ。『遠くを旅して、知らない街で自殺する』『高いワインを飲む』『誕生日を祝ってもらう』。ふと、一週間もしないうちに彼女の誕生日がやってくることを思いだした。十二月三十日。わざわざそんな項目を作るくらいだから、紬がいままで家族に祝ってもらえなかったことが容易に想像できる。
遠くの空気を、救急車のサイレンがぼうっと揺らしていた。いまこの瞬間に誰かが死んだかもしれない。毎日大勢が死んでいるのに、世界に絶望したたったふたりがこの世から抜けだすことの一体何がいけないのだろう。どうして僕は、あのとき紬に「自殺を止めたい」と言ってしまったのだろう。世間の言葉は僕に優しくて、でも紬には違っていた。
すべての始まりは物理のノートだった。水族館でクラゲを見たときのことが頭に浮かぶ。あのとき僕は、自分の口から「紬はもうひとりじゃない」と言ってやるべきだった。僕が自殺を止めようとするから、彼女はひとりで死ななくてはならなかった。突然、救急車のサイレンをかき消すみたいに、インターホンが鳴った。
「……え?」
紬の顔が浮かんだ。時計、壁を伝って視線を移動させた先、二十二時十五分が表示されている。紬以外にあり得なかった。だって、扉の向こうにいるのが彼女じゃなければ、その瞬間、僕は、魂の輪郭のようなものを失ってしまうような気がした。このまま呼吸を続けることなどできそうになかった。
生きているだけで身体に熱が蓄積されて、その重さのぶん、生きていても仕方がないことを自覚させられる。彼女の得意げな笑顔、期待、吐きだしてしまいそうな衝動をかき消すように、警官から逃げてきたことを思いだした。
自分がきちんと歩けているのかわからなかった。玄関へ向かう脚が棒のようになって、現実なのか夢なのか判別できなくなっている。意識が端っこからほどけていく。
家の前に紬がいなかったら、自分がどんな表情をしてしまうか、わからなかった。手の感覚が曖昧なまま、思いっきり扉を引く。期待とか不安とかより、もっと大きくて膨張するような感情が胸の内を食い破ってしまいそうだった。
「……あ」
扉の先は、クリスマスイブに相応しい寒さをしていた。廊下の天井から黄色い光が降り注ぎ、白いワンピースの少女を照らしている。口の端が赤に、頬は青に染まっていた。脚の内側に、いくつもの青が籠もっていた。何も履いていない足が、黒く汚れていた。
「……逃げだしてきちゃった」
彼女に伝えるべき言葉がなんなのか、ずっと考えていた。紬の瞳が、真っ黒に乾いていた。僕は何も言えなかった。
「……自殺しに行こうと思うんだけど、一緒に行かない?」
薄く開かれた唇から掠れた言葉が零れて、僕の鼓膜を優しく揺らしている。紬の声だ、と思った。
「……うん、そうしよう。特に予定もないし」
返事をしたとき、彼女の口角がわずかに上がったのがわかった。長い髪が揺れて、ふわり、頬の青い痣が隠される。結局僕は、彼女に死なせてあげる以外の選択肢を用意することができなかった。誤った選択をしてもどうにかやり直せるとはいえ、僕はいままで間違えすぎてしまったようだった。
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