5-3「夕焼けチャイムの余韻」

 家の鍵を閉めてからマフラーを持ってこなかったことに気づき、後悔する日々が続いている。クローゼットの奥からマフラーを取りだしたこと、それから冬がやってきたことの両方を認識しているはずなのに、ぼうっとする頭ではこのふたつがどうしても結びつかなかった。


 結局取りに戻るのが面倒で、冷たい身体を引きずるように駐輪場を目指している。背後からカラカラと枯葉の転がる音が聞こえてきて、ああ、冬なんだなと思った。首元が寒くて仕方がなかった。


 熱、憂鬱な気持ちで沸いた心臓周辺が高温になって、疎かになった他の部分がじわじわと冷却されていく。寒さで手を摺り合わせるみたいに、身体中にヒリヒリとした熱が蓄積されていく。もやが掛かったままの頭で終業式に参加し、龍介の話を適当に聞き流しているといつの間にか二学期最後の登校日が終了していた。


 初めは何日か続けて訪問していたのに、紬の家へ足を運ぶ頻度は少しずつ減っていった。いつチャイムを鳴らしても、反応がないまま終わる。頭のなかで、紬の笑顔がどんどん解像度を落としていく。


 首元はやっぱり寒くて仕方がなかった。紬のいない生活を送っていると、季節の移り変わりに疎くなる。自宅へ帰る途中、二学期の最後くらい足を運んでみようと思った。ブレーキを握り、狭い歩道をぐるりと迂回する。


 紬の家へ向かうときはいつも、高確率で赤信号に引っかかる。それなのに、この日に限ってはスムーズにペダルを進めることができた。もしかしたら、今日こそは。無責任な期待が胸の内側をくすぐるみたいに膨らんでいく。


 見慣れたマンションの見慣れた共同駐輪場に自転車を停め、それから見慣れたロビーのほうへ足を進めていく。そのとき、マンションから親子が出てくるのを見て、ハッとした。


 もし紬が閉じ込められているのだとしたら、母親がいない隙をつけばいいのではないか。彼女の家に上がり込み、紬を引っ張りだす。これほど簡単なことに気づけなかった自分に腹が立った。


 周囲を確認し、身を隠せそうな場所を探してみる。適当な場所はすぐに見つかった。エントランス横にある植え込みの陰、そこだったら入口を観察することができるし、通行人に気づかれる心配も少ないだろう。万が一見つかったら不審者として通報されてしまうかもしれないが、紬を救うためだったら僕はどんな手段も厭わなかった。思いは変わらない。


 紬のいない日常はつまらなかった。寂しくて不安で、気を抜いたら彼女と過ごして色づいた日々が抜け落ちてしまいそうだった。やっぱり彼女を救うのに、自殺に協力してやる以外の方法はなかった。


 向かいの家からイルミネーションの導線が垂れ下がっているのを見て、僕はようやくこの日がクリスマスイブだったことに気づいた。紬に出会う前と同じ状況なのに、何もしないまま季節が変わることを後悔するようになっている。心の深い部分で、時間が過ぎることと紬の死期が近づくことを同義だと認識していた。


 ハロウィンとかクリスマスとか、そういうイベントがちらつくたびに紬の顔が思い浮かぶ。他人との関係を深めれば、こういう苦しみのリスクを背負うことになる。両親が死んだときに学習したはずだった。誰かへの好意に、理論みたいなものは適用されないらしい。


 紬の母親が現われたのは、ちょうど夕焼けチャイムの余韻がなくなったころだった。何ごともないような顔でエントランスの扉をくぐり、僕に気づく様子もなく目の前を通り過ぎていく。紬が経験してきた苦しみのぶん、今すぐ痛めつけてやりたかった。それを行動に移せば警察を呼ばれて終わることは目に見えていた。


 紬の母親を見送ったあと、いつもどおり、エントランスで彼女の部屋番号を入力した。ぴんぽーん。甲高い電子音は結局、返事のないまま悲しげに地面を転がるだけだった。よく考えてみれば、紬が動けない状況なのだとしたら、鍵すら持っていない僕に彼女を助けだす手段はない。いくら待ってみても反応が返ってくることはなかった。


「あ」


 後ろを振り返ったとき、身体が硬直したみたいに動けなくなった。背後に、二人の警官が立っていた。


 紬が自殺してしまった。一番にそう思った。「こんにちはー」、やけに間延びした声で話しかけられたから、「こんにちは」、声に装飾を施すことなく返事をする。


「さっき瀬川さんのところのチャイム押してたけど、知り合い?」

「そう、ですけど」


 心臓が跳ねて、一瞬、視界が大きく揺れた。自分がどんな表情をしているのかわからなかった。夢を見ているときのように、意識が端っこからほどけ始めていた。「なにかあったんですかっ」思考の端のほうで、自分が警官に詰め寄っていることを理解した。


「瀬川さんから通報があってね。つきまとってくる人が――」


 がさっ。インターホンの向こうで音がした。咄嗟にスピーカーへ駆け寄り、顔を近づける。


「紬!」


 雑音だけだったが、紬の気配はたしかに感じられた。今を逃せばもう好機はない。そう思い至るまでは早かった。


 伝えたいことが山ほどあるのに、上手く言葉に変換されなかった。「落ち着いて!」、耳を覆うような声がして、いつの間にか警官に腕を掴まれていた。


「紬、大丈夫かっ!」


 そこに紬がいるという確信があった。一刻も早く彼女を救いださなければならなかった。母親が帰ってきてからでは何があるかわからない。怒りの矛先が紬に向くことだけは避けなければならなかった。


「落ち着きなさい!」

「邪魔すんなよっ」


 肩が激しく痛んだかと思えば、次の瞬間、今度は警官に羽交い締めにされていた。身体を動かしてみても、脱出どころかさらに関節の痛みが強くなっていく。僕が抵抗をやめると、警官の力が少しずつ弱まっていった。もう暴れないと判断されたのか、腕がするりと抜ける。


「紬! 待ってるから! 最後まで一緒だから! 一緒に逃げよう!」


 再び掴まれた腕をなんとか振り払い、エントランスの外へ身を放りだす。「おい!」背中にぶつかった威圧的な声は、次の一歩のために振り上げた右脚が上手く蹴散らしてくれた。


 こんなの絶対におかしい。思わず笑いが零れる。どうしてこうなるんだ。肺のなかに流入した冷たい空気のせいで、走りながら激しい吐き気に襲われる。脚がもつれて転びそうになったのを、右足の靴底を思いっきりたたきつけることでやりすごした。


 自宅マンションの敷地に足を踏み入れたとき、自転車を置いてきてしまったことを思いだした。気管の辺りから血のようなにおいが昇ってきて、激しい咳が誘発される。結局、僕は自分の部屋に戻るしかなかった。

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