第6章『ふたりでせーので目を塞ごう。』

6-1「『遠くを旅して、知らない街で自殺する』」

 スーツケースの車輪が、玄関のレールに引っかかっている。景色というよりもっと概念的な、空間、みたいなものから朝らしい雰囲気を感じていた。


 風は冷たく乾燥した匂いを運んできている。鍵を閉めるとき、「あ、ちょっと待って」、後ろから明るい声がした。


「遺書、置いてくの忘れてた」


 紬は再び玄関の扉を開けると、トートバッグから白い封筒を取りだした。その表面に、丸っこい「遺書」という文字が浮かんでいる。彼女は玄関マットの上に封筒を寝かせると、「よし」、消え入りそうな声で呟いた。


「あ、でも、これだと詩摘くんの遺書って思われそう」

「たしかに」


 返事をして鍵を回したあと、どうせ死ぬなら施錠する必要はなかったと気づいた。死を目前にしたとき、本当に失いたくないものは片手に収まるほどしか存在していないと思う。


 最期の旅、そのために紬が持ってきたのはパソコンとロープ、それから「物理」と書かれた生成り色のノートだけだった。もちろんこのまま旅行するわけにはいかないので、この日、僕たちはまず県内の大型ショッピングパークへ足を運ぶことにしていた。人生最後の旅行なのだから、入念に準備しておいて損はない。


 自宅の最寄り駅を使うのは、おそらくこれが最後になる。景色を目に焼き付けようにも、そうするだけの執着を見いだせなかった。ここでの思い出といえば、花火大会の日に紬がなかなか現われなかったことくらいだ。


「花火大会のとき、紬が来なくて焦ったよ」


 途切れた会話の隙間に新しい話題を差し込むと、紬は「あー」と思いだしたみたいに顔を上げた。わずかな間空気を揺らしていた声が、ちょうどやってきた電車のブレーキ音に飲み込まれていく。


「あのとき、本当はなかなか飛び降りることができなかったんだ。すぐに詩摘くんが来るってわかってたのに」


 乗車したとき、端の席がふたつ並んで空いているのが目に入った。どちらが先導するでもなく、自然にその席へ足を進めていく。紬を端にして座らせたとき、「でも」、ちいさく呟くような声がした。


「でも、あのとき『死ぬな』って言われなかったのがすごく嬉しかった。詩摘くんは詩摘くんなんだなって」

「買いかぶりすぎだよ。結局自殺を止めようとしたんだから」

「もう、止めなくていいの?」


 こちらを覗き込んできた紬から目を逸らし、彷徨っていた視線を車内モニターに着地させる。そこで僕は、意図せずして今週の天気を知ることになった。雨の予報はないようだった。


「……死なずに二人で幸せに過ごせるならもちろんそうしたいよ。でも、それが無理ならこうすることが正しいんだと思う。だから、紬には、死ぬその瞬間まででもいいから幸せになってほしい」


 モニターから視線を落とした先、そこで紬が満足そうな笑顔を浮かべていた。目を逸らさないように努力してみても、数秒が限界だった。モニターの表示は、いつのまにかICカードの広告に変わっていた。


 ショッピングパークに到着したのは、家を出てからちょうど一時間が経過したころだった。自動ドアの先には巨大なクリスマスツリーが立っていて、施設内には鈴の音が混じった陽気なBGMが流れている。


 よく考えてみれば、この日がクリスマス当日だ。なんとなくクリスマスが終わった気分になっていたのは、昨夜のうちにパーティーを済ませてしまったからなのかもしれない。


「まずは何、買いに行こうかな」

「いいんじゃない? 目に付いたものからで」


 携帯を取りだして時間を確認しようとしたとき、三件の不在着信が表示されていることに気づいた。電話の主は龍介だった。「人、多いね」、紬が弾んだように言うのを見て、携帯をそっとポケットにしまい込む。空っぽになった右手で、ぶらぶら揺れている紬の左手を握った。


「こうやって歩いてると、自殺する人には見えないんだろうなあ」

「見えないよ。もしかしたら他にも自殺志願者がいるかもしれないし」

「うん、そうかも」


 家族らしき小団がそこら中に散りばめられているのを避けながら、ゆっくりと施設内を進んでいく。買い揃えるものは紬の服とスーツケース、それから旅行に必要な小物たちだった。


 普通の旅行へ出かけるときと何も変わらなかった。唯一違うのは、彼女のトートバッグに入っているロープひとつだけだった。些細な道具ひとつで旅行の意味が変わってくるから、自殺というのは日常のすぐ隣にいることを再認識させられる。


「あれ、かわいい」


 明るい声に意識が引き戻され、気づけば彼女の指を辿っていた。紬が示す先、服屋の広告塔らしきマネキンが立っている。白いミドル丈のシャツに、アイボリーのカーディガン。紬には明るい色の服が似合うような気がする。「私に似合うかな」、そう言って首を傾げている彼女には、思ったとおりのことを返しておいた。


「好きなものを買いなよ」


 そう口にするとき、つい「もう死ぬんだから」と付け加えそうになった。紬は声の余韻からその言葉を読み取ったのか、カーディガンと僕を交互に見たあと、「じゃあ買おうかな」、眉尻を下げて笑った。

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