1-2「物理のノート」

 僕がノートの存在を知ってしまったのは本当に偶然だった。


「あの。教室に忘れ物したんで取ってきます」


 片方が増えてもう片方が減る現象は必ずしも反比例ではありません。教師が言葉を止めるタイミングを見計らって声を掛けると、何人ぶんかの顔がちらちらと僕のほうを向いた。そしてすぐに、その視線たちはぞろぞろと元の方向へ戻っていく。全員の視線が逸れたことを確認してから、僕は音を立てないように腰を上げた。


 物理講義室の外は暑く、エメラルドグリーンの廊下そのものが熱を発しているようだった。冷房の効いた部屋から出たときに絡みついてくる、もわっとした空気が好きだ。


 教室の冷房は誰の意思が絡んでいるのかわからないが、いやに温度が低く設定されている。それでも寒すぎる教室を憂いながら廊下を歩き、階段を降り、教室の扉を引くころには汗が滲んでいるからやっぱり夏は嫌いだ。


 物理のノートはわかりやすく机の上に置いてあった。もし僕に時間を操作する能力があれば、どうして忘れたのかと授業が始まる前の自分をぎっちり問い詰めてやりたい。


 忘れ物を取って教室を出るとき、瀬川紬の机に「物理」と書かれたノートが置いてあることに気づいた。僕のクラスはこの時間、全員が物理の授業を受けている。僕がそのノートを手に取ったのは、本当にただの気まぐれだった。


 彼女もノートがなくて困っているだろう。そう思って教室の扉に手を伸ばしたとき、ふと、別の可能性が思い浮かんだ。もしかしたら彼女はすでにこのノートを使い切っているかもしれない。


 彼女は教室の隅っこでノートに落書きをしているような奴ではないし、どちらかと言えば分類上「トイレ行きたいです!」と授業中に手を挙げられるタイプの人間だ。ノートを見ても問題はないはずだった。だから僕は確認のつもりで表紙をめくってしまった。


『自殺するまでにしたい100のこと』


 自殺。一瞬、自殺ってなんだっけと思った。「死」という単語がメリーゴーランドのように頭のなかを回っている。一ページ目、紙面の上部に書かれた「自殺」の文字が冷たい空気にすうっと溶け込んでいった。軽く目に掛かった前髪が、やけに鬱陶しい。


 気づけば僕はページを進め、その異様なノートの内容に目を滑らせていた。『学校の帰りに買い食いをする』『水族館に行く』『お子様ランチを食べる』、それぞれページの上部にひとつずつ「したいこと」らしき一文があって、その下には日記調で文章が記されている。何か創作用のノートだろうか。もし、本物だったら。そう考えてしまったのはきっと、僕が小説や漫画の世界へ逃げてきたことの代償だろう。


 ページを進めるにつれて、日記の付いていない項目が増えていった。途中のページを飛ばした先、『首を吊って死ぬ』という項目でノートは終了している。明らかに普通ではないが、表紙は「物理」「2年2組 瀬川紬」と、何も変わったところはない。冗談にしては趣味が悪すぎる。


 クラスの中心人物みたいな立ち位置のくせに、こんな痛いことを書いているのがおもしろかった。弱み、みたいなものを手に入れた気分になった。いや、だからといって僕がそれを上手に使うタイミングが訪れるとは考えがたい。用があれば言葉を交すことはあるが、そもそも僕と彼女ではクラスにおけるランクのようなものが違っている。


 とはいえこれ以上見ては何か彼女の核心に触れてしまう気がしたし、誰かが入ってきて僕が瀬川紬のノートを盗み見ていたなんて知られたら大変だ。芳村詩摘は人のノートを見て性的快感を得る変態だとレッテルを貼られ、登校してきたら机に花瓶が、下校時にはローファーが水浸しになっていることだろう。そんなことを考えていたら、なんだかこのノートが忌々しい物のように思えてきた。


 見なかったことにしよう。教室の扉が開いたのは、まさにそういう結論に至ったときだった。


「あ」


 瀬川紬だった。よりによって。なぜか今朝の占いで自分の星座が一位だったことを思いだした。おめでとうございます! 一位は射手座のあなた! 今日は素敵な出会いがあるでしょう。ラッキーカラーはベージュ。それでは元気に、いってらっしゃい!


「ノートの中身、見た?」

「全然、見て、ない」

「見た人の反応、だなあ」

「もう忘れたから」


 見られてはいけないものをこんな場所に放置している自分が悪い。そう言ってやろうと思ったが、彼女は「物理」と書いて一応はカモフラージュしていたようだし、なにより勝手にノートを見たのは僕のほうだ。そういう負い目もあったので、「ごめん」、一応頭を下げておく。


「私ね……、自殺しようと思うんだ」


 堪忍した、みたいに瀬川紬が言った。


「そう」

「え、冷たっ」

「冷房のせいでしょ」


 教室を出る際、僕は彼女が冷房の温度を下げている姿をたまたま目にしていた。それを嫌味として言ったつもりだったが、当の瀬川は僕の言葉に深い意味を見いだせなかったらしい。


「私が死ぬの、嘘だと思ってる」

「思ってないよ。つらい経験をしてきたんだね。死にたいなら死んだらいいと思うよ」


 こんなに明るい自殺志願者がいてたまるか。もう少し彼女の茶番に付き合ってやるつもりだった。だから、彼女がほんの一瞬だけ、縋るような顔をした意味がわからなかった。


「信じてくれてありがとう」


 目を伏せて彼女がそう言ったとき、ふわり、艶やかな長い髪が身体を包み込むみたいに膨らんだ。魔法の類いを疑って視線を巡らせた先、冷房の風だったことを理解する。大きな目の上に敷かれた二重の、血色のいい肌色がやけに生々しかった。


 あれ、と思った。まだ茶番を続ける気なのだろうか。それとも、まさか本当に。頭のなかでは様々な疑問が飛び交っているのに、僕はそのうちどれも口に出すことができなかった。


「明日、ひま?」


 わざとらしく首をかしげる彼女を見て、あざとい奴だと思った。彼女の自殺に関する疑問でぱんぱんに膨らんだ脳が、思考の僅かな隙間に今月のスケジュールを表示する。残念ながら、翌日の僕には大した予定がなかったらしい。ノートを見てしまった負い目に背中を押され、「ひま、だけど」、いつの間にか口が勝手に返答を行っていた。

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