#19 『僕は明日、未来の君と笑う為』

『皆さんこんにちはー! 5☆STARSです!』


 午前八時半、寝起きでボサボサの髪のままパンを貪っていた僕は、特に何かを考えている訳では無く、ただボーッとテレビを見ていた。

 テレビの画面には何時しかの超能力アイドル事 山下夏希の姿が。確か『人の心が読める』とか何とか言っていた記憶がある。

 ココ最近は事務所が特に力を入れて宣伝しているらしく、テレビで見ない日の方が少ない。そして相変わらず山下夏希は自己紹介で『人の心が読める』と宣伝して回っている。

 となると大体、司会者やタレントが『じゃあ今僕が考えている事を当ててみてよ』と促すのだが、山下夏希は何食わぬ顔で物の見事に当てている。しかし僕にとっては本当に当てているのか、そう言う演出なのかは判断しづらい。


「と、テレビ見てる場合じゃないな」


 ふと我に返って慌てて時計に目線を合わす。ボーッとしてたらいつの間にか九時だ。

 今日は瑠香と水族館へと行く約束がある。

 なにやら、父親から水族館のチケットを貰ったらしく、よりにもよって土日休み前の今週金曜に期限が切れるらしいので、体育祭の振替休みの今日しかチャンスが無いのだ。その約束までは気づけば後一時間しかない。

 とりあえず軽くシャワーを浴び、そして服に着替える。

 濡れた頭をタオルで乾かしながら先程見ていた番組のお天気情報のコーナーでは、『今日は全国的に晴れ、半袖でも過ごしやすいでしょう』と番組名物のお天気キャスターが言っていた。だが、そんな中僕が選んだのは白色のパーカー。

 今日という日を過ごす上では、この服が一番僕にとって色々と"都合"がいいのだ。暑さは二の次。『オシャレは我慢だよ』と真冬に素足が見える程丈の短いスカートを履いて、震えていた梨花が言っていた。確かにそうかもしれない、僕のコレは別にオシャレではないが。

 そんなこんなで支度をしている内に時刻は九時半を回った。

 約束の駅まではおおよそ歩いて二十分程で到着するので家を出るにはいい頃合いだ。


「さて、後は"あれ"だな」


 玄関に向かう前、僕は一度自分の部屋に戻り、本棚からある物を取り出すと懐にしまい込む。

 これで準備は出来た。後はこの散々結衣には伏せてきた"切り札"が吉と出るか凶と出るか。

 僕はいつもよりも少し重い足取りで玄関へ向かうと、鍵を閉め、家を後にした。


 ◇◆◇◆◇◆◇


 夢乃原駅に辿り着くまでは特に何も無かった。

 いつも足止めを喰らわせられる歩行者信号も三連続で青で渡る事が出来、些細なことではあるがちょっとした全能感に駆られている。この調子で今日という一日を乗り切れれば後は完璧なのだが……。

 とりあえず待ち合わせ場所の駅前の大きな時計台の下へと到着し、時刻を確認。

 九時五十五分。予定よりも五分早い到着。

 これが梨花なら後二十分以上の遅れは覚悟するが……


「先輩ー!」


 遠くから聞き覚えのある声が聞こえ、スマホに向けていた視線を声の方へと向けると、手を振りながらこちらへと駆けてくる後輩 神崎瑠香の姿があった。


「すみません!待たせましたか?」

「いや丁度今来たところだよ」


 相当急いで走ってきたらしいのが、息を切らした瑠香の姿が物語っている。

 とはいえ時刻は九時五十八分、別に五分や十分程の遅れは気にしないのだが、ここまで来ると逆に申し訳なくなってくる。


「大丈夫か……?」

「はい……! 先輩なら早く家を出る気がしたのであまり待たせたくなくて……」

「だからって、別にそんなに急がなくても……」

「……私は大丈夫ですから! 行きましょう先輩!」


 瑠香に促されるまま、僕達二人は駅の方へと歩き出す。

 目的地である水族館まではここから電車で四駅程。『必ず生きて帰って来れる様に』という願掛け的な意味で、行き帰りの往復分のチケットを券売機で購入してから、駅のホームへと並ぶ。

 今日は火曜日、ド平日のこの時間は駅の利用者数もいつもに比べて明らかに少ない。この調子だと、水族館もそこまでは人が居なさそうなので、人混みを気にせず気楽に見て回れそうだ。


「あの……先輩」


 駅のホームに並んで電車を待っていると、隣に立っていた何か言いたげな表情をした瑠香に呼ばれる。トイレでも行きたいのだろうか、それなら電車は後7分程は来ないので今すぐ行けば間に合う筈だが。


「どうした?」

「あの……お願いがあるんです 今日一日、手を繋いでてくれませんか?」

「……ああ」


 瑠香からの提案を跳ね除ける事はせず、僕は瑠香の手をとり、ギュッと握る。

 手に取った瑠香の手は、何処かほのかに温かい。


「僕の手、汗で濡れてないよな……?」

「別に大丈夫ですよ!」

「ならいいや」


 いつもの僕ならこんな事、恥ずかしいだの 嫌だの 言って絶対に嫌がっただろうが、今日だけは瑠香からの頼みなら叶えられる範囲でどんな願いだろうが聞くつもりで居るのだ。

 と、そんな事考えている内に僕らの前に電車がやって来る。


「行くか」

「……はい!」


僕は瑠香の手を引き、電車へと乗り込んだ。


 ◆◇◆◇◆◇◆


 いつもなら埋まっている座席は、平日のこの時間帯だと、どこもかしこも空いていて、僕は瑠香の手を握ったまま席へと腰掛ける。

 時折、周囲からはまるで初々しいカップルを見守るような視線を送られていたが特には気にもせず、何の会話もないまま時間が過ぎていく。

 そんな状態のまま、僕らは20分程電車に揺られ、ようやく目的地の駅へと到着。

 電車降り、改札を抜け、駅を出てからは15分程歩いて目的地の水族館を目指す。

 当然、その間も手は繋いだまま。今日は天気予報の通り外気温も高いので、ただひたすらに手が汗で濡れないかが心配だ。


「あっ!あそこです!」


 かれこれ35分振りに瑠香がようやく声を出して、少し先に見える建物へと指を指す。

 指を指した先に見えたのは水色を基調にしたドーム型の建物。僕は前にテレビの特集で見たことがあるので何となく外装は知っていた。


 建物が見えてからも3分程歩き、ようやく建物へと到着。

 受付で瑠香の持ってきていたチケット二枚を見せ、建物の中へと入ると、天井にぶら下がったクジラらしき巨大な骨格の標本が僕らを出迎えた。

 大きさにして横になった僕が10人以上。こんな物が平然と泳いでいるなんて海は心底恐ろしい。

 続いて、館内に立っている看板の矢印に従うまま歩き進めると、川の生物のコーナーへ。

 川の生き物についてはそこまで詳しくないが、幼い頃図鑑で見た事がある様な大きな魚が自由に泳いでいる。由希にも見せてやる為、僕はその様子をスマホのカメラへと収める。

 そしてそのまま歩き進めると、次はクラゲのコーナーへと到着。

 何気なく海を見ているとよくぷかぷか浮いているミズクラゲや、如何にも毒を持っていそうな柄や色をした多種類のクラゲが展示されている。そんなクラゲを瑠香は不思議そうに見守っている。


「クラゲ好きなのか?」

「なんか可愛いですよね〜」

「可愛い見た目似つかず毒もあるけどな……」


 小学生の頃、冬葵や梨花達と海に行った際に、冬葵がクラゲに刺されて大騒動したのでクラゲに対してそういう印象しかない。

 僕らはクラゲのコーナーを後にして先へと進むと、待っていたのは巨大な水槽。

 中に居るのは多種多様な魚達。群れを為して泳ぐイワシ達や、2匹並んで泳いでいるエイに、刺身にしてもフライにしても美味しそうなアジ。

 海の魚のコーナーは水槽も大きく、人気なのか、平日でも観覧の客で溢れかえっており、気を抜くと瑠香とはぐれそうだ。


「先輩……綺麗ですね」

「ああ、癒されるよな」

「……やっぱり 見に来て正解でした」

「僕も来れてよかったよ 水族館なんて久しぶりだが意外とこの歳でも楽しめるもんだな」


 最後に来たのはまだ両親が仕事で家を空けるようになる前なので小学生位だろうか。

 あの時はまだ由希も元気で、そして家族全員が家に居て賑やかだった。

 そんな思い出に耽っていると、『ぐぅぅ』と腹の虫が鳴った。

 周囲の視線は一斉に僕へと向き、何処からか笑いのような声も聞こえる。


「先輩、お昼にしましょうか!」

「……悪い」


 間違いなく、周囲の人間は僕の事を水槽の魚を見てお腹を空かせるヤバい人間だと思っただろう。

 時刻はまもなくお昼を迎える、お腹が空いてもおかしくはない時間帯ではあるが、こんな事になるならもう少し朝ご飯をしっかりと摂るべきだった。

 周りの目から逃げるようにその場を去り、僕達はフードコートのあるエリアへ。

 各々が食べたい物を注文して、海がよく見えるテラス席へと腰かける。

 燦々と輝く太陽の光が反射する海、今日は晴れて本当に良かった。

 楽しく会話をしながら午後の予定を決め、昼食を済ませて、次に僕らはイルカショーへ行く事に。

 運良く空いていた見晴らしのいい前側の席へと座り、40分程のイルカとアシカによるショーを楽しみ、その後も様々な物を見て、あっという間に夕方になった。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆


 水族館を後にした僕らが向かったのは、水族館から歩いて10分程の海岸。

 時刻は18時を迎え、青かった空はすっかり紅く染まり、海から見える地平線の先では真っ赤な夕陽が半分程沈んでまもなく夜を迎えようとしている。

 昼間は随分と暑かったが、この時間になると心地よい潮風が吹き、とても過ごしやすい。

 そんな海岸で、僕らは沈みゆく夕陽を、手を握ったまま何も言わずに眺めていた。


「先輩、 "今日まで"ありがとうございました」


 長い沈黙を破った瑠香が放った言葉に、僕は何処か引っかかりを覚えた。

 "今日まで"

 それはまるで、別れを孕んだ様な言い方。

 さらに瑠香は続ける。


「私は、私の未来を受け入れます」


 その言葉で、僕の中にあった疑問は、確信へと完全に変わった。

 瑠香は今日、自らが見た未来の通りになると覚悟した上で僕を誘ったのだと。


「……だから」


 そう言って、瑠香は握っていた手を自ら離すと、こちらへと向き直ってこう言った。


「最期に、先輩の思い出をください」


 何処か笑いながらも目尻に涙を浮かべ、次に瑠香は僕へと思いっきり抱きついた。

微かに、服越しに瑠香の心臓の鼓動を感じる。それは明らかに普通じゃない心拍。


「瑠香……?」

「……私嬉しかったんです、会って間もない私を『助けてやる』って言ってくれた先輩が そして1週間っていう短い間でも一緒に暮らせて楽しかったです」


 瑠香の顔がある僕の胸辺りがじんわりと少し熱くなる。顔を僕の胸に埋めているのでよく見えないが、恐らく泣いているのだろう。声も震えている。


「本当に楽しい時間でした…… いつまでもこうしてたいって思える程に…… でも、それが叶わないのは知ってます。」

「……」

「だから先輩、私の事はもういいですから」


 一度涙が落ち着いたのか、瑠香は埋めていた僕の胸から離れると、笑顔でそういった。

 笑顔と言っても、それが無理やり作った物だと言うのは見て直ぐに分かった。

僕に心配させまいと、涙を我慢しているからか声は震えているし、どれだけ表面上は繕っても、心は泣いている、泣き続けている。

そんな姿を見せられ、『私のことはもういいですから』なんて言われて、『はいそうですか』と素直に引き下がれる訳がない。そもそも、何を言われようと、僕に瑠香の未来を諦める気はない。


「やだよ」

「え……?」

「僕は瑠香の未来をまだ諦める気はない」

「……でも」


 瑠香は何か言いたそうな顔をして、くちびるを噛みながら下を俯いた。

 その直後に、再び溢れ出した涙が重力に従う様に溢れ落ち、一滴……また一滴と、まるで雨粒の様に砂浜を濡らしていく。




「……でもそれじゃあ!先輩が死んじゃうんですよ!」


 震える声で、瑠香は強く叫ぶ。

同時に、瑠香の慟哭を聞いて、心の中に浮かんでいた疑問が確信へと変わった。


「やっぱり瑠香は見たんだな、あの"未来"の続き」


 思い返すは数日前。

 同じベッドの上で寝ていて、魘されていた様子の瑠香へと僕が触れた際に見た"未来"。

 あの時、僕は結局 未来の結末 を見れぬまま意識を取り戻したのだが、瑠香はあの後の続きを見た。

 瑠香の口振りからするに、あの光景の先に待っていたのは『神崎瑠香の代わりに上坂隼人が刺される』という結果。

 皮肉にも、その未来は当初瑠香が見た『神崎瑠香が殺される未来』とは一応変わっていた。

 但しそれは 上坂隼人 という代償によって。


 "神崎さんが死ぬ事が"決まった未来"だとして、それを変えようとした場合に何かしらの代償を払わないといけないかもしれない"


結衣の台詞が、残響の様に脳内で響き渡る。


「(お前の言う通りだったかもな、結衣)」


未来を変える代償が、僕が犠牲になる事ならば、あの日結衣の言っていた事は理にかなっている。

 とはいえ、それはある種の希望でもあった。

『誰かに殺される未来』が待っていた神崎瑠香が、上坂隼人との接触を経て、結果は良い悪いは別問題としても未来は無事に変わったのだ。

 未来はやはり"決まった"物ではない。抗おうと思う意思があるならば抗える。その事実が分かっただけでも、これまでに比べたら間違いなく大きな一歩だ。

 問題は、肝心のその未来がすぐそこにまで迫ってきていると言うだけの話。


「なぁ、瑠香 僕は本当に刺されたんだよな?」

「え?……はい」

 そう言って瑠香は首を縦に振る。

「血は?」

「そこまでは……」

「なら、まだ最悪の未来とは決まってないな」


 恐らく瑠香が見たのは『上坂隼人が刺された』という結果だけ。その後の"真の結末"までは目撃していない筈。

 だとすれば、​─────諦めるにはまだ早い。


「……どうして」

「え?」

「どうして先輩は私なんかを助けてくれるんですか?」

「どうしてって…… 放っとけなかったんだよ、あの時の顔。」

「顔……?」

「ああ、『未来を諦めた様な顔』。

 僕の妹、心臓に病気患っててさ ある日、あの時の瑠香と同じ様な顔してたんだよ」


少なくとも、僕を今日までその気にさせたのは、あの日の瑠香が浮かべていた『未来を諦めた様な表情』。あの表情を見て、僕は瑠香を待つ残酷な未来から救いたいと思った。


「あの時の僕はそんな顔してた瑠香に希望を持たせてやりたくて『僕が未来を変えてやる!』なんて言ったけど、あれから僕の気持ちは一秒足りとも変わったことはない」


 少なくとも、今日という日に起こるであろう未来に対して、覚悟して来たのは瑠香だけでは無い。

 僕だってそれなりの覚悟は持って、今日この場に立っている。


「絶対に……未来は変えてやる 瑠香も、僕も犠牲にならずにまた明日笑顔で会える様に」

「……信じて良いんですよね?」

「ああ、だからさ 未来を諦めた様な顔や考えはもうやめろ "生きたい"って そう思ってくれよ」


 結局の所、大事なのは不審者に抗う力でも、頭脳でもない。

 "未来に抗いたい"という意思だと僕は思う。その最後のピースが揃えば、必ず未来は変わる。

いや、"変える"。



「……私は」


瑠香は溢れ出る涙を手で拭い、何かを決心した顔をしながら僕の方を向く。

心を落ち着かせる為に、瑠香は深呼吸を一つして、心の奥底に眠っていた……いや、自分で無理やり閉じ込めていた本心を口にした。


「……生きたいです! 先輩とこうしてまた水族館に来たいし!上野先輩とも話したい事沢山あります!先輩にまた手料理を振る舞いたいし……

 "明日"も 先輩に会いたい!」


 瑠香は"本心"を言い切って、力が抜けたかのようにその場に座り込むと、まるで幼い子供のように泣き喚いた。


「……よく言えたな瑠香。 それでいいんだよ」

「せんぱぁぁぁい……」


『私は私の未来を受け入れる』

 一度はそう言ったが、それは僕を"最悪の未来"に巻き込まない為の嘘。

 瑠香の本心は先程の言葉に詰まっている。

 "一緒にまた水族館に来たい"

 "上野結衣と話したい事が沢山ある"

 "明日も上坂隼人に会いたい"

 心の内に秘めていたであろう本心をさらけ出し、制御出来ない感情の波に翻弄されて、大号泣する瑠香の頭を僕は何も言わずに優しく撫でた。


 "生きたい" 瑠香は確かにそう言った。


 ならば、次に覚悟するのは僕の番だ。


『神崎瑠香には未来がない』


 そんな事には絶対させない、瑠香を助けると決めてから、その信念は今日まで一度足りとも揺らいだ事は無い。

決まった未来なんて、そんなものはクソ喰らえだ、僕は必ず、間近に迫った最悪の未来とやらを変えてみせる。



 ───まもなく 未来 は、僕らに牙を剥く。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆


 時刻はまもなく十九時を迎える。

 辺りもすっかり暗くなり、街灯の明かりが光り出すこの頃。

 僕と瑠香は夢乃原市へと戻る為の電車に乗る為、駅へと繋がる街の大通りを歩いていた。本当ならば、このまま瑠香の手を取って直後に迫った未来から逃げればいい。でも、そうはいかない。逃げるのは簡単だ、でもそれをすればきっと瑠香は自分を責めるだろう。『自分が未来を受け入れなかったせいで、他の人が犠牲になったと』。

しかし明日も学校があり、生活がある。それに瑠香には帰るべき家と家族が。だから逃げる事はしない。真正面から"未来"とやらに立ち向かう。

 手は勿論しっかりと繋いだまま。瑠香からの握り返す力は午前中よりも強く感じた。

 海岸を出てからと言うもの、全くもって喋らなくなってしまった瑠香に対して『落ち着いたか?』なんて声をかけるが首を縦に振るのみ。

 相当泣き疲れたのだろう。僕も最近似たような状態になったので分かるが、本当に泣き疲れると言葉を発する事すら億劫になるのだ。


 歩き進める事、凡そ十分。

 視線の向こうには目的地の駅が見えてくる。後は電車に乗って家まで帰れればミッションコンプリート。

 だが、そんな簡単に上手く行かない事は、周りを歩いている人々の誰よりも僕達が一番理解していた。

僕らは既に未来を予習済なのだから。


『キャァァァァァ!!』


 予習した未来の通り、背後で悲鳴が上がる。

 振り返らずとも、僕達の後ろで何が起こっているのかは分かった。近くに迫った"最悪の未来"とやらに、緊張からか僕の心拍も増す。とはいえ逃げるつもりは無い。


「瑠香……!」

「……嫌」


 隣に居た瑠香へと声を掛けるも、瑠香は足がすくみ、その場から動かない。いや、動けない。

信じられないという顔をしながらその場に座り込む。

 それもそうだろう、結局"最悪の未来"はやって来たのだ。

 咄嗟に僕は悲鳴が上がった方へと顔を向けると、そこには黒いパーカーを身にまとい、片手にキラリと光る包丁を持った男性の姿が一つ。

 身長は168cm程、僕よりも少し低いな〜という程度。体格もそこまで良さそうには見えない。

 顔はマスクとパーカーのフードで不明瞭。

 声を上げて歩きながら包丁を振り回し、辺りの人間は悲鳴上げながら逃げるように男を避けていく。周囲には体格の良さそうな男性が数人見えるが凶器を持った人間には流石に狼狽えて抗えそうにない。


「瑠香、ここに居ろよ!何があっても絶対動くな!」

「……先輩っ!?」


 あれだけ長い時間繋いでいた手を今度は僕自ら手放す。

瑠香を一人残し、僕は逃げ惑う人々の波に抗って男の元へと向かっていく。

 既に緊張で口から心臓が出そうだ、だけれども一度立ち向かったなら逃げる訳にはいかない。

 ここで負の連鎖は断ち切ると決めたのだから。


「……未来から逃げるのはもう辞めだ!」


 男は逃げ惑う人々に逆らいやって来た僕の存在に気づいたのか、まるでターゲットを捉えたかのように、包丁片手に僕の元へと駆け寄る。

 その瞬間は、まるでスロー再生の様に感じた。

 包丁の大きさは、見る限りは大した物ではない、ペティナイフと呼ばれる比較的刃渡りが短いもの。それでも刺されば致命傷にはなるだろう。"刺されば"。

 僕はその場に立ったまま、男の持つナイフの刃先は僕の腹部を目掛けて



────突き刺さる。


「……」


 その瞬間、周囲は、まるで時が止まったかのように静かだった。

 音一つない不思議な世界。

 しかしその世界は、数秒後に、僕の腹部へと突き刺さった包丁の刃先を目の当たりにした女性の悲鳴によって崩れ去る。

 自分の腹部をチラッと見た、全部ではないが、確かに着ているパーカーの繊維を易易と突き抜け刺さっている。

 だけれども、僕の口から漏れたのは痛みに喘ぐ声ではなく​───────



「……結構このパーカー気に入ってたんだけどな」



 僕はそう言うと、突き刺さったナイフを持っている男の手を右手で抑えると、使っていない左手を強く握り締めてから、大きく振りかぶる。

そして、男の顔面を目掛けて渾身の力を込めた左ストレートを叩き込んだ。

 十七年生きてきて、人を殴ったのは今日が初めて。

 そんな僕の人生初パンチは、面白い程綺麗に男の右頬を捉え、男は怯んで後ろへと倒れ込む。


「誰か!こいつを捕まえてくれ!」


 周囲に居た人達へと僕は大きな声で呼びかけ、僕の呼びかけを聞いた周囲の男性達は一斉に黒ずくめの男へと飛び掛ってあっという間に羽交い締めになる。

 捕らえられ暴れる男性を尻目に、僕は腹部に突き刺さったままの包丁を抜いた。本当ならば刺さったナイフを抜くのは1番やっては行けないことだが、ある確信があったから。

 重力に従って地面へと落ちたナイフは、カランという金属音を立てながら地面を転がる。

 その刃先は、腹部に刺さっていたはずだというのに、まるで何も無かったかのように綺麗だ。


「……はぁ マジで死ぬかと思った〜!」


 大きくため息を付き、僕がパーカーの内側から取り出したのは…… "穴が空いた国語辞典"。

 家に合った"分厚くて最悪武器になりそうな物"がこれしかなかったのだが、相手が刃渡りの短い包丁で本当に良かった。と言っても、後1cmでも深く入り込んで入れば間違いなく身体に刺さっていた筈だ、男の様子から見るに、刺すことに対して少し躊躇した様子だったので助かったという所か。


「……あれ?」


 緊張の糸が切れ、僕は自分の意思とは反して、膝と腰から崩れ落ち、その場に座り込む。どれだけ立とうとしても、身体がそれを許さない。

 そして遅れて手足が震え始めた。一歩間違えたら死ぬ所だったと思うと、今更になってやって来た恐怖に心拍が増し、少し過呼吸になる。

 間違いなく僕は生きている。未だに止まらない震えによって振動する両手を見ながら改めて確信した。


「先輩!!」


 瑠香の声が背後からしたかと思うと、後ろから体重が大きく掛かった。

 瑠香の両腕が僕の胸元に掛かっているのを見るに、後ろから抱き着かれているらしい。


「先輩の馬鹿!ばかぁ!」

「泣くなよ瑠香……」

「死んだらどうするんですか!」

「ちゃんと生きてるだろ……? そんなに泣くと可愛い顔が台無しだぞ」

「ばか!ばか!ばか!」


 瑠香はそう言いながら、とっくの昔に枯れ果てたはずの涙を再び流しながら、ポカポカと僕の背中を叩く。

 だが、そこに痛みはない。

 僕は残された力を振り絞り、瑠香の方へと身体を向き直す。

 声を詰まらせながら、号泣する瑠香に対して、流石に少しばかりの罪悪感を感じた。


「先輩のばかぁ……」

「……悪かったな瑠香」

「うわぁぁぁん……!」


 ようやく、全てが終わった。

 目の前ではやってきた警察に黒ずくめの男が連行されている。神崎瑠香を襲うはずだった『最悪の未来』は、僕が放った渾身の左ストレートで(恐らく)無事に変わったのだ。


 これで、"未来明日の君と笑い合える日々"がやってくる。



 続く






















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