第一章『夕焼け空に君を想う』
#1 『屋上で出会った不思議な女性』
全ては、この日から始まったんだと思う。
これからの人生を生きていく中で、絶対に忘れられない"ちょっと変わった日常"。
一緒に笑える友人が居て……、一緒に泣いてくれる友人が居て……、数年間しかない短い青春を送る中で出会った大切な記憶であり思い出。
これより先に書かれている記録は、そんな"思い出"の備忘録。
──────頑張れよ、未来の僕。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ふと気が付くと、僕は何処かの屋上に居た。
ここが何処かは分からない、けれども既視感がある。そんな事を思いながら周囲を見渡すと、僕の目の前に、一人の女性が立っていた。
『君は、夕焼け空は好きですか?』
茜色に染まる夕焼け空を背景に、目の前の女性は微笑みながら振り返り、僕にそう尋ねた。
腰近くまで伸びた綺麗な黒髪に、見つめているだけで吸い込まれるような瞳。そして、清楚な感じを連想させる白いワンピース。
背景も相まって、その女性の姿はまるで絵画の様。
……と、余りにも目の前に女性に見とれ過ぎていて、僕は今、質問をされているのを忘れてしまっていた。
質問は確か……『夕焼け空は好きか』だったはず。
勿論、夕焼け空は好きだ。一日の終わりを示すこの空の色は見ていて、色んな事を考えさせられる。
頭の中で言いたい事を纏め、満を持して返そうと思った返答。
しかし、僕が目の前の女性に対して返そうとした言葉は、女性へと告げる前に、僕自身を襲った大きな揺れと共に遮られた。
◆◇◆◇◆◇◆
……瞼の裏に眩い光を感じた。
別の世界へと放り投げていた意識が、次第にはっきりする中で、"誰か"が"何か"を訴えかけているのが断片的ではあるが薄らと聞き取れた。
少しずつ目を開ける、すると目と鼻の先には整った顔をした青年が、少し焦った表情をしながら僕の両肩を持ち、ユラユラと揺らしている。
成程、さっきのは夢か。そして夢の中で感じ、僕の言葉を遮ったさっきの揺れの原因は"冬葵"のせいか……
まだ寝起きで朧気ではあるが、僅かに覚醒した意識が、浮かんでいた疑問に対して結論を導き出す。
「おーい!隼人!」
「……なんだよそんな焦って」
「焦るに決まってんだろ!もう着いたぞ!"駅"!」
……駅?
目の前の青年の口から出た言葉に、ハッと我に返った僕は、まだ半開きだった目をかっぴらいて、座っていた椅子から勢いよく立ち上がった。
突然の僕の行動に、隣に座っていたスーツ姿の男性が驚いた様な視線を僕に向ける。
……そうだ、ここは高校へと向かう電車内。その証拠に、同じ高校の制服を着た生徒達が続々と電車から降りているのが見える。
「悪ぃ、冬葵!」
「覚醒したか!ほら!行くぞ!」
冬葵。僕がそう呼んだ青年と共に急いで降車口に向かい、電車から降りる。
その直後、僕らの背後で電車の扉はパタンと閉まり、発車音を鳴らすと、次の駅へと向けて走っていく。
……危なかった、冬葵が起こしてくれなければ確実に寝過ごしていた所だった。
朝から嫌な汗をかきながら、冬葵と共に跨線橋を渡り、改札を抜けて駅を出る。
「隼人、これは貸しな」
僕の隣で、冬葵は笑いながらそう言った。
……
運動神経抜群で学年の人気者。部活はサッカー部に所属しており、次期キャプテン候補。更には、甘いルックスで先輩後輩問わずファンが多い。
そして何より、僕の"この世に三人しか居ない友人"の一人だ。
「安心しろ、この恩は仇で返してやる」
「いや、ジュースかアイス奢りな」
「バイト代が入ったらな」
季節はこれから夏真っ盛りになろうかというのに、僕の財布の中身は、一足先に夏と秋を通り越して冬を迎えている。
今は本当に仇でしか返せない。
「さっきはやけに気持ち良さそうな寝顔だったけどいい夢でも見てた訳?」
駅を出て、学校に向けて歩き始めた頃、冬葵はポケットから取り出したスマホを弄りながらそう言うと、ある写真を僕に見せた。
そこに映っていたのは、僕から見ても気持ち良さそうに眠っていると思う僕の寝顔だ。どうやら寝ている間に撮られていたらしい。やられた。
「消せ、今すぐに消せ」
「断る それに梨花にもう送った」
「なっ……!」
知らない間に非常に不味い事態になっている。
冬葵に寝顔は見られるならまだしも、よりによって"梨花"にまで送られているとは……
「おっ、梨花から返信きた なになに…… 『朝から笑わせないで』だってよ」
「だってよ じゃないだろ……」
「で、そんな良い寝顔をしていた隼人はどんな夢を見たのかな?」
「言わなきゃダメか?」
「気にはなる 部活に集中出来なくなるレベルで」
そんな訳があるか。口にはせず心の中で冬葵にそうツッコミを入れながら、減る物でもないので、僕は渋々ながらも見た夢について話すことにした。
「まぁ、綺麗な女の人に『夕焼け空は好きか』って聞かれる夢」
「で、夢の中のお前はなんて返した?」
「答える前にお前に起こされた」
「そりゃ悪いことしたな」
ははは と愉快そうに笑いながら冬葵は言う。
だが、あの女性に対して言葉を返していたら降り遅れて遅刻は確定だっただろう。そう思うと、改めて冬葵には救われた様なものだ。
駅を出て、数分。片側一車線の道路を挟んだ先から海の見える海岸沿いの通学路を歩きながら、僕と冬葵の二人は、その後も他愛のない会話を繰り広げている。
「そういや明日から夏休みな訳だけど、隼人何か用事あんの?」
そう、明日からは全国の学生が待ちに待ったであろう夏休みに入る。
とはいえ、僕に大した用事は無い、精々バイトと、病院に入院している妹に会いに行く位だ。彼女も居なければ、友人が多い訳でもないのでこれくらいの予定しかない。後はグーダラ過ごすだけ。
「僕はバイトと妹の面会、お前は?」
「部活とデートだなぁ」
「青春を謳歌してる奴は羨ましいな……」
「そんな暇そうな隼人に提案、休みの間に海と花火大会行かね?」
「何が悲しくて男二人で海行かないと行けないんだ、あと花火大会はいい加減彼女と行け」
僕が暮らすこの街─夢乃原市では、毎年八月二十日に花火大会が行われる。この日は出店など多く出る事から、他の街からも花火や出店、後は浴衣女子との出会いを求めたイケイケな男等で、この街は一年の内で最大の賑わいを見せる。
そんな花火大会へは小学生の頃から僕と冬葵、そしてもう一人いる幼馴染の梨花の三人で行くのがほぼ恒例となっていた。
「海は梨花も誘うよ 花火大会は……まぁ彼女は説得するから今年も三人で行こうな」
「お前、いつか彼女に刺されるぞ」
「それはいいとして、由希ちゃん体調どんな感じ?」
由希 とは僕の妹の事だ。
幼い頃から心臓に患いがあり、入退院を繰り返している。会話の流れを汲むに、恐らく冬葵は由希を花火大会に誘いたいのだろう。
「まぁ、今ん所は容態は安定してる」
昨日由希に会いに行った時も随分と元気そうだった。
あの様子だと近い内に、一時退院の許可が降りるかもしれない。
「なら担当のお医者さんに聞いといて欲しいことがあるんだけど」
「ああ言いたい事は分かってる、ちょうど近い内に面談があるから、その時に聞いとく」
「頼むわ、お義兄さん」
「言っとくが、僕の目が黒い内はお前だけには由希は渡さない」
「そこをなんとか頼むよ お義兄さん」
「彼女いるだろお前」
「そうだったわ」
「僕と僕の妹をお前の修羅場に巻き込もうとするな」
そんな生産性のない会話をしている内に、目的地である『夢乃原高校』の校舎が見えてくる。
全校生徒800人の何処にでもある普通の高校、特筆する点は海が近いという事位。それ以外は本当に普通の高校だ。
到着早々、玄関で靴を履き替え、二年生の教室がある二階へと向かうと、クラスが違う冬葵とは「じゃあな隼人」「お前も部活頑張れよ」という簡単な別れの言葉と共に教室の前で別れた。
教室の扉を開き、中に入る。教室内は既に到着していた同級生達が朝から元気にワイワイ話している。
今日で暫く合わない人間も居るとなると、積もる話もあるのだろう、僕は誰とも話しをすること無く席についてスマホを開くと、背後から背中をツンツンと突かれた。
振り返った先には、何処か笑いこらえた様子の女子生徒が一人。
……小宮梨花。冬葵と同じく幼稚園の頃からの幼馴染。
この世に三人しか居ない僕の友人No2で、同じバイト先の同僚でもある。
性格は僕とは真反対で明るめ、そして茶髪の髪の毛を地毛と言い張っているが、実は染めている事を僕と冬葵は知っている。
そんな梨花が何故笑いを堪えた表情をしているのかは大方検討がついていた。今朝の冬葵のせいだろう。
「一応言っとくが、保存はするなよ」
予め釘を刺しておく。SNSなんかで拡散されたらと思うと溜まったもんじゃない。
どんな些細な情報からでも個人の特定に繋がるかもしれない、ネットと言うのはそれ程怖いのだ。
「珍しいね、隼人が電車で居眠りなんて」
「昨日は寝付けなかったんだよ 色々あって」
正確に言うと、寝るまでの暇潰しに…… と、やっていたゲームに思いの外熱中して、気が付けば午前零時を過ぎていた。布団に潜っても、長時間画面を見ていたせいか脳が覚醒して中々寝付けず、眠りについたのは午前二時前だったのだ。お陰で今も少し眠い。
「隼人にも眠れない夜なんてあるんだ」
「お前、僕にめちゃくちゃ失礼なこと言ってるぞ」
「え、そう?」
何処かすっとぼけた顔をした梨花に対して言葉を返そうとした時、僕の言葉をHR開始を知らせるチャイムが遮った。
今日はやけに言いたい事を遮られてしまう、結局梨花に対して何も言えないまま、梨花は自分の席へと戻り、教室へと入ってきた担任の『居ないやつは手あげろ〜』の一言と共に、高校二年生最後の一学期が幕を上げたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
欠伸を噛み殺しながら聞いた、校長の無駄に長い有難いお話があった終業式が終わり、一学期最後のHRへ。
担任から夏休みの心構えや『休みだからって余り羽目を外すなよ』などの忠告、そして直々に成績表の手渡しがあった。
『今学期は頑張ったな』と褒められる者や、『このままだと志望校落ちるぞ』と叱責をされる者。
僕は後者で、『数学もう少し頑張らないとこのままじゃヤバいぞ』という脅しの一言を貰い、肩を落としながら席に戻る。今学期は少々サボりすぎたな……という今更遅い後悔をしながら成績表を鞄に仕舞った。
そして教室内の全生徒に成績表が行き渡り、『じゃあまた二学期で』という言葉と共に一学期は締め括られた。
待望の休みに入り、騒がしくなる教室内。
教室内各所では『海に行こう』なんて話題で持ち切りなのだが、きっと呼ばれる筈ない僕は、さっさと帰る支度を済ませて足早に教室を出る。
下校しようとする人で溢れかえる玄関へと向かい、靴を履き替えてから学校を出ると、帰りの電車に乗るために駅へ向かう。
今日も妹が入院する病院へと向かう用事がある。
学校の敷地内を出て、駅までの通学路を歩いていると夢乃原海岸が見え、案の定、高校の生徒らしき人物が何人も海ではしゃいでいるのが見えた。
海の方から聞こえてくるさざ波の音に耳を傾け、歩く事凡そ十分。数時間前にやってきた駅へとまたやってくると、改札を抜け、夢乃原市方面へと向かう電車がやってくるホームのベンチに腰を掛ける。
電車がやってくるまで後十五分はある。僕はふと辺りを見回してみるが、いつもよりも明らかに駅に人は少ない。
ここから見えるだけで自分と同じ制服を着ている生徒が数人と、随分と腰が曲がったお婆さんだけ。
『夢乃原高校前駅』という名前の通り、この駅の主な利用者は学生なので『やけに海に行く人間が多いな』と思いながら、ポケットに入れていたスマホを取り出して弄っていると、誰かがこちらにやってくる足音が聞こえた後、僕が座っているベンチの隣に腰掛けた。
他にもベンチは空いている筈だ、何故わざわざ僕の隣へと座ったのだろうか。僕はちらっと横を見てみると、隣に座っている人間は知った顔だった。
「なんだ結衣かよ」
「今日も目が死んでるね、上坂は」
……上野結衣。同じ高校の同級生兼、この世に三人しか居ない僕の友人No3。長い黒髪を左右同じ高さで纏めた髪型所謂ツインテールと呼ばれる髪型をしており、低い身長と幼い顔立ちも相まって初対面は小学生だと思っていたのが懐かしい。
同級生だろうが先輩だろうが、はたまた教師だろうが、理由は知らないが、絶対に人と目を合わせない為に、『上野結衣と目を合わせら死ぬ』という誰が言い出したのか分からないくだらない噂を持つそんな人物だ。
「上坂は海行かないの?」
結衣もここに来るまでの通学路の途中、海へと向かう僕のクラスの同級生の姿を見たのだろう。随分と残酷で、答えなどとうに分かりきった質問をしてくる。
「僕が誘われる様な人間に見えるか? 自慢じゃないが、友人がこの世に三人しか居ない男だぞ?」
「だろうね」
「ま、冬葵には夏休み中に行こうって誘われたけど」
「ああ、あの上坂とは真反対の人間の 幼馴染とはいえ現実は非情だね」
表情一つ変えることなく、結衣は淡々と毒を吐いてくる。最初は『なんでこの見た目で口が悪いんだ』と思ったが、一年以上の付き合いなのでもう慣れた。
「結衣は夏休みの予定なんかないのか?」
「特に決めてない」
「だろうな」
「ふわぁ〜」
と、結衣は口を抑えながら可愛らしい声で欠伸をした。
その後、目に滲み出た涙を親指で拭う。
「お前も寝不足か?」
「昨日ちょっとテレビ見ててね 心霊特集の」
「ああ、夏によくやる奴か」
僕は見ていないが、何度かCM中に番宣をしていたので昨日放送なのは知っていた。
毎年恒例の夏によくやるアレだ、どういう理由があって幽霊を見ると涼む事になるのか誰か教えて欲しい。
「上坂は幽霊の存在を信じる?」
「僕は物心ついた時から幽霊の存在は否定派だ」
「随分と可愛げがない幼少期だね」
とはいえ本当に否定派なので仕方がない。
テレビの心霊特集は全て、見ている人間を驚かそうとするだけの紛い物で、この世に幽霊なんて存在しない。そもそも非科学的で馬鹿馬鹿しい。そう思って生き続けてきた。この目で幽霊を目撃しない限り、僕が存在肯定派になることは無いだろう。
「上坂ってなんでも否定から入ってそうな感じがするし、ある意味納得」
「酷い言われようだな ま、大体あってるが」
冬葵からもよく言われる。『取り敢えず否定から入るのが隼人の悪い癖だよなー』と。
自分でも痛感はしているが、生まれてからずっとこの性格なので今更治しようがない。
人は変われるとは言うが、結局の所、根本的なものはどうにもならないと思う。
「あ、電車来た」
隣でそう言った結衣の視線の先を追うと、こちらへと向かってくる、夢乃原市方面行きの電車が見えた。
定刻通りに到着した電車へと乗り込み、夢乃原市駅へと到着するまで、二十分程電車に揺られた後、駅に着いてからは結衣とは別れた。
「じゃ、結衣も良い夏休みをな」
「上坂もね」
多くは語らない、この感じが何とも友人らしい。
夏休み中に結衣とは何処かで会う気もするが、一旦暫しの別れを告げ、僕は目的地である病院へと向けて歩き出した。
◇◆◇◆◇◆◇
駅から歩く事凡そ二十五分。
ただでさえ疲れきった身体を、更に追い込む様に続く長い坂を、道中コンビニで買ったミネラルウォーターを口にしながら登り歩く。
時刻は十四時を回り、暑さはピークに。
雲ひとつない青空故、遮るものがない事で、太陽は容赦なく僕を照りつけ、着ているシャツは汗で背中にピッタリと張り付いて何とも言えない不快感が僕を襲う。
あっという間に空になったペットボトルを振りながら、歩くこと更に五分。ようやく病院へと到着した。
自動ドアを通り抜け、もはや顔馴染みとなった受付の人へと面会に来た旨を伝え、妹の待つ病室へと向かう。
「由希?入るぞ」
"上坂由希"のネームプレートがある病室の扉の前に立ち、扉を二回ノックしてからそう告げる。
『はい!どうぞ!』
病室の中からは、今日も元気そうな妹の声が返ってきた。
妹からの了承を得た僕は扉を引き、中に入ると、そこにはベッドの上で、先日なけなしのバイト代で買ってあげた小説を読む妹の姿があった。
『記憶のない王子』、ここ最近話題になっている小説らしく、前々から読んでみたいと由希が言っていたので買ってあげた物だ。
由希に渡す前に僕も少しだけ読ませて貰ったが、悪い魔法使いの魔法で、記憶が消えてしまった王子が記憶を取り戻す為、色んな人達と出会い、世界を旅する冒険物だった筈だ。
と、本の内容はどうでもいい。
僕はベッド近くの丸椅子へと腰掛けると、持っていた鞄を一旦下ろして、由希に声を掛ける。
「どうだ?調子は?」
「はい!バッチリです! この調子なら近い内に一度退院しても良いって先生が言ってました!」
「そうか、なら帰ったらお祝いだな」
「はい! 退院したら行きたい所一杯あります!」
「退院したらバイト代が許す限りは連れてってやる」
僕は由希の頭を撫でながらそう告げる。頭を撫でられている由希も、何処か照れながらも満更ではなさそうな様子。
それからは、兄妹二人で水入らずの時間を過ごし、あっという間にお別れの時間がやってきた。
楽しい時間はあっという間に過ぎる、名残惜しいが面会時間もまもなく終わるので今日はお暇する事にしよう。
「じゃあ僕は帰るから」
「はい!また来てくださいね!」
「ああ、用事がなかったら絶対来る」
ベッドの上から手を振る由希に見送られ、病室の扉を締め、廊下に出る。
時刻はまもなく十七時になる。ふと、廊下から見える夕焼け空を見て、今朝見た夢を思い出した。
『君は、夕焼け空は好きですか?』
街の中でも比較的標高が高い立地に立つこの病院の屋上からなら、それはもう綺麗な夕焼け空が見えることだろう。
気が付くと僕は、まるで何かに誘われるかの様に、下へと降りる階段ではなく屋上へと繋がる階段を昇っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
屋上まではエレベーターがない。
なので、ただひたすらに長い螺旋状に繋がる階段を登らないと辿り着けない。
屋上まで向かう事に決めたのを若干後悔しながら階段を登り続け、ようやく行き止まりと言わんばかりに静かに佇む鉄の扉の前へと到着。
この扉を抜ければ屋上に繋がっていた筈だ、過去に一度だけ興味本位で来た事がある。
丸いドアノブを左に回し、ギィィという扉の開く音と共に屋上に出る。
「ぉ〜」
屋上からの景色に、思わず感嘆の声が出た。
来た時はあれだけ青かった空は茜色に染まりあげ、海はオレンジ色の太陽の光が反射して、一本の道の様な物になっている。
普段何気なく見ていた夕方の空も、改めてちゃんと意識して見てみると感動するものなのだと思った。
ここに辿り着くまでのちょっとした苦労も、この風景を見れたと思うと些細な事のように感じる程に。
「来てみて正解だったな」
転落防止用の柵へと寄りかかりそんな事を呟く。少なくとも長い階段を昇ってきた価値はあったと思う。
ただボーッとしながら風景を見て黄昏れる。
すると突然、背後に人の気配を感じた。
先程までは人の気配など微塵も感じなかったが、本当に突然だ。そしてその気配は、段々とこちらに近づき、そして僕の隣で止まる。
恐る恐る横を見ると、その姿に僕は言葉を失った。
……腰近くまで伸びた綺麗な黒髪に、白いワンピース。それだけでも、言葉を失うには充分な理由だった。何故なら、今朝見た夢に出てきた女性の姿とそっくりそのままだったからだ。
そして、困惑する僕を余所に、女性はこう口にした。
「君は、夕焼け空は好きですか?」
その言葉を聞いた時、正直、まだ夢を見ているのかと思った。
なんせ、夢に出てきた女性が夢の中と同じ事を言っているのだ、僕は取り敢えず自分の右頬を親指と人差し指で強く抓ってみる。
……普通に痛い。どうやらここは夢の世界では無いらしい。ちゃんと現実だ。
「……どうかしましたか?」
一方の女性はと言うもの、こちらを首を小さく傾げながら不思議そうに見て、そう尋ねてくる。
それはまぁそうだろうと思う、いきなり目の前の人間が頬を抓りだしたら僕もそんな目で見る自信があるから。
「いや、夢で見たのと同じ状態だったので」
真剣にそう語る僕の言葉に、女性は何処か可笑しかったのかフフっと笑い、そしてこう続けた。
「それ、なんて言うか知ってます?」
「デジャブ……ですよね?」
経験した事ない出来事や、行ったことない場所へと行った際に、まるでその事や場所について1度経験した・行ったことがあると言う風に感じる現象。
原因は記憶の整理が云々やら、実は人間は前世の記憶があるとかスピリチュアル的な事が言われているが、今の僕の場合、デジャブというより予知夢を見たという方が正しいかもしれない。
「つまり、"隼人君"は私と出会う夢を見たんですね」
「えっ、なんで僕の名前?」
僕の指摘に、女性は しまった! と言いたげな顔をした後、バッと顔を僕から見えないように逸らす。
如何にも怪しい。それもかなり。こちらは相手の名前すら分からないというのに、何故かあっちは自分の名前を知っている。少々不公平に感じる。
「あの、僕達どっかで会いました?」
「……隼人君は私の事、覚えてないですか?」
女性の言葉に、記憶をフル回転させてみる。
しかしどれだけ記憶を遡っても女性の名前は知らないし、それらしき出会いも思い出せない。
「すみません、覚えてないです」
「そう、ですか……」
女性は少し寂しそうな顔をした後、僕の方へと向き直ると、改めて自己紹介をした。
「私、春奈 って言います」
「春奈……さん」
「ええ! それで、隼人君。 君には 私が見えているんですね」
「へ?」
それは、どういう意味だろうか?
不可解な事を述べる春奈に対して発言の真意を問いただそうとした時だった、屋上へと繋がる出入口の扉が開く音が聞こえ、音のなった方へと振り返ってみると、ナース服を纏った女性が見覚えのあるカバンを持って立っていた。
「あっ、隼人君 いたいた!」
そう言ってこちらへと近づいてくる女性に僕は見覚えがあった。
たしか看護婦の神山さん、由希がよくお世話になってる看護婦さんで僕も何度か面識がある。
「どうかしました?」
「はいこれ!由希ちゃんが『お兄ちゃんがカバンを忘れてる〜!』って 受付の山口さんに聞いてもまだ隼人君の事見てないって言うからまだ病院内居ると思ったけど……」
そう言って神山さんに差し出されたのは、紛れもなく僕のカバン。
椅子に座った際に床に置いたのを忘れたまま、由希の病室を後にしたらしい。カバンの中には財布を入れていた筈なので、危うく今日の夕飯は白米のみになる所だった。
「もう暗いし、こんな所に"一人"で居ないで、早く帰ってね」
「……一人?」
神山さんの"一人"という言葉に反応して、僕は咄嗟に辺りを見回した。
……居ない。先程までに隣に居たはずの春奈さんの姿がない。
「あの、ここに来るまでに女性とすれ違いませんでした? 白いワンピースの!」
「えぇ?うーん……ここに来るまで誰ともすれ違ってないけど……」
間違いなく春奈さんは隣に居た。会話をしたのだってちゃんと鮮明に覚えている。
しかし、まるで最初から居なかったかのように、彼女は屋上からは忽然と姿消していた。
背中に嫌な汗が流れる。僕は先程の"私が見えているんですね"という言葉が改めて引っかかる。
「そんな訳ないよな……」
「? まぁ、とにかく早く帰ってね」
「はい、失礼しました。」
色々と錯乱はしているが、まずは病院を出よう。わざわざカバンを届けてくれた神山さんへと頭を下げ、また長い階段を下って病院を出る。
そして僕は自宅へと辿り着くまでの間、屋上で出会った不思議な女性について頭を悩ませるのだった。
続く
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