#36『記憶のない王子様』
朝 目を覚ますと、僕を待っていたのは違和感だった。
自分の体温で仄かに温かいベッドの上で、生まれたばかりの動物の様に辺りを見回す。
何時も使っていたであろう勉強机に、ジャンル毎に並べられた本棚の漫画達。壁には幼い頃に好きだったであろうアニメのポスターなんかも貼ってある。
ここで目覚めたという事は、ここは恐らく自分の部屋なのだろう。だが、今の僕にはそれすらも確かとは思えない。
何故ならば、記憶が無いからだ。
記憶と言っても、昨晩何食べた とか、アイツの名前なんだっけな〜なんて易しい物ではない。本当に、自分の名前すら思い出せない。理由は分からないが、直感的に大変な事に巻き込まれたのだと感じている。
咄嗟に着ているシャツを捲り、腹部や胸部を見たが、傷はない。頭に触れてもそれは同じ。事故や不運にも頭を打ったりして全て忘れたのかと思ったが、どうにもそうじゃないらしい。何処を触ったり確認しても傷はないし、腫れやタンコブ一つない。
でもまぁ、確かにそんな外因的理由ならば目覚めるのは自宅では無く病院の類か と、自らの中で結論を導き出した僕は、取り敢えずベッドから降りて軽く伸びをした。
閉め切って有ったカーテンを開ける。空は雲に覆い尽くされて雪なんかが降っている。となると、今は四季の中で冬らしい。となると凡そ今は十二月くらいだろうか
「冬…… 冬ねぇ……」
理由は分からないが、冬という言葉に引っ掛かりを覚える。記憶を失う前の僕に冬という文字がつく知り合いでも居たのだろうか。
それにしても、記憶を失っているというのに何処か落ち着いてる自分に少し恐怖を感じる。普通はもう少し取り乱しそうな物だが、何だか、特段焦りなんかは無い。
とはいえこのままでは困るので、取り敢えず記憶を呼び起こす何かが無いかと辺りを見てみると、勉強机の上にそれらしき物が置いてあった。
『未来の僕へ』
表紙に黒のマジックペンでデカデカと書かれたそれを持ち上げ、ページを一枚捲る。
これは恐らく、今の僕の現状を憂いた"過去の僕"から
ノートには様々な事が書いてある。それを僕は一つ一つ、まるで音読をするかの様に口にした。
『十二月八日、とある緊急事態が起きたので、こうして備忘録的なものを書くことにした。 これを書いたのは、これを読んでいる君であり、僕自身だ。』
『これを読んでいるであろう僕は、恐らく自分の名前すら覚えていない筈なのでここに明記する』
『
上坂隼人、それがどうやら僕の名前らしい。
理由は分からないが、自分の名前を忘れるだなんて余っ程の何かがあったに違いない。
『これより先に書かれている事は、これを読んでいる僕からすればありえない事のように思うだろうが全て実際に経験した事だ。 少しずつ、これを読んで記憶を取り戻して欲しい』
そう書かれた後に書いてあった物は、確かに、にわかには信じられない内容のものだった。
ある日、幽霊を見れる様になった僕が出会ったのは血の繋がった姉の幽霊で、それをきっかけに未来が見える少女と最悪の未来を変えたり、人の心が読めるアイドルと色んな事があったり…… まるで漫画や小説みたいな出来事に巻き込まれていた様だ。
そして、現状に繋がる内容もあった。
"記憶を消す目を持った初恋相手"と出会った事、その人のせいで数少ない友人の記憶が消えた事、そして"恐らく上坂隼人までもその餌食になる事"。つまり、今の僕に記憶が無いのは"上野優衣"という女のせいらしい。だから、気をつけろと書いてある。
そんな事言われた所で、誰が上野優衣なのかは分からないので困ったものだ。本当に気をつけろと言うのならば写真の一つ位挟んでおいてくれてもいいのに随分と気が利かない。
とはいえ、どうしてこの様な状況になったのかは分かった。それだけは過去の僕に感謝しよう。
ならばやる事は一つ。記憶を取り戻して、上野優衣と決着をつける。
ノートを見る限り、"失った記憶は取り戻せる(本人談)"と付け加えるかのように書いてあった。とはいえ、わざわざ奪った僕の記憶を本人が返してくれるとは毛頭思ってないので、自力で思い出すしかないらしい。
ノートを読み進めて、何かトリガーになるものは無いかと探ると、友人の事を書き記した欄にこう書いてあった。
"上野優衣 何かあったら最優先で連絡しろ"と。
生憎、スマホの使い方までは忘れていない。
僕はベッドの上に置いてあったスマホを手に取ると、今からの僕の行動を予測するかのように、上野結衣からメッセージが届いていた。
"こうなるとは思ってた、起きたらメッセージください"
従う様に、僕は上野結衣へとメッセージを返す。
"起きた。何もかも覚えてないけれど、貴方に連絡しろとノートにも書いてあったので連絡します"
すると、送信してものの数秒で既読のマークが付き、返信が帰ってくる。
"そこから動かないで、今から家に行きます"
どうやら、今から僕の家へと訪ねて来るらしい。
それならば と、取り敢えず朝の支度をして、"お待ちしてます"とだけ返信をした。
後は、上野結衣という人間の登場で記憶が蘇るのを待つのみだ。
◇◆◇◆◇◆◇
メッセージを送ってから数十分後、来客を知らせるチャイムが玄関から聞こえた。
恐る恐る扉を開けると、そこには赤いリボンで髪を結った見た目小学生くらいの低身長の女の子がそこに居た。
「上野……結衣?」
「本当に全部忘れたんだ、上坂は」
不服そうな顔を浮かべながらそう語る少女は、恐らく上野結衣。僕の親友兼彼女……らしい。現状覚えていないが、ノートに書いてあったからそうなのだろう。
「上がらせて」
「ああ、どうぞ……」
玄関で靴を脱いだ結衣を、取り敢えずリビングへと案内する。
冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぎ、上野結衣の前へと差し出すと、有無も言わさずに麦茶を手に取り一気に飲み干した。
余程喉でも乾いていたのだろうか、もしくは少し息が上がってる気がするので走ってきたのかもしれない。
「現状をまとめよう、上坂は自分の事を覚えていない。昨日上野優衣という女の子に会ったから。あってる?」
「記憶がない理由は分からないけれど、多分そうだと思います。ノート見るまで、自分が上坂隼人だということも忘れてましたし、何ならいまも確信がないと言うか……」
「……なんか調子狂う、敬語は辞めて」
「ぁ、はい…… コホン、とにかく僕は全てを思い出したい。記憶を消した奴とも話し合いたいし」
「相手が話に応じてくれると思う?」
「……思ってないです。けど、やってみないと分からない。なんか、上手く言葉には出来ないけど"やらずに後悔するくらいならやって後悔したい"からさ」
「やっぱり記憶が消えても上坂は上坂のままだ」
「え?そう?」
「うん」
何処か安心した表情を浮かべながら、結衣は笑顔でそう答える。
「で、僕はわざわざあんなノートを残した上に、君に連絡しろ とまで書くってことは僕なんか頼んでたか?」
「うん、ビンタでも何でもしていいから思い出させろって」
「いや……痛いのは……」
「しないよ。ちゃんと思い出させるから これ。」
結衣は持っていた手提げカバンから一冊の本を取り出して僕へと見せる。
「何これ 記憶がない王子様?」
うん と、何も言わずに結衣は首を縦に振る。
どうやらこれに、全てを思い出すヒントがあるらしい。
「いまの上坂は覚えてないだろうけど、この本の状況と今の上坂そっくりだよ。旅の終わりに、魔女に記憶を消されるお話。」
「確かにそっくりだな」
「ね」
フフっと二人で笑いながら、結衣も相槌を打つ。
「じゃあ、この本だとどうやって王子様は記憶を思い出すんだ?」
「それを今からする 全部思い出せる様に」
そう言うと、結衣は僕の肩を持って後ろへと押し倒す。
衝撃で床に頭を少し打つ。まさかこの衝撃で思い出させるなんていうベタな方法では無いと信じたいが、どうやらそうでは無いらしい。
「顔、近くない?」
「まぁね」
距離にして拳一個分の先に結衣の顔がある。
結衣の口から漏れる吐息が、僕の頬を撫でて何処かくすぐったい。
「全部思い出してよ上坂。 また二人で、一緒に海に行きたいし手だって繋ぎたい。二人しか居ない図書室で美味しいねって言いながらまたあのクリームパン食べたい……」
そう語る結衣の瞳から、重力に従って涙が零れ落ちる。
「あれ……?なんで私泣いてるんだろう……。上坂から私の記憶が消えるのなんて想定してたのに……」
「……結衣」
「……ごめん上坂、私が想像してたよりも、好きな人に忘れられるのってきつい事だったみたい……」
溢れ出る涙を拭いながら、結衣は消えそうな声で呟く。
その様子を見て、僕自身も何も言えなくなってしまう。
なぜ僕は、大切な人を泣かせてるんだ。
なぜ僕は、何も覚えていないんだ
なぜ僕は、僕は……
「泣いてちゃ、だめだよね…… 思い出させなきゃ……私の事も、上坂自身の事も。だから、あの時出来なかったコト、今からするね」
そう言って、結衣の顔が近づく。
直後、唇に柔らかく温かい感触を感じた。
これは……キス……
そういえば……何時かキスしようとしたけど出来なかったっけ……
刹那、ここに至るまでの記憶が脳裏を駆けた。
上坂春奈の事、神崎瑠香の事、山下夏希の事、赤城冬葵 小宮梨花の事、そして絶対に忘れちゃいけない大切な恋人 上野結衣の事が。消えていた記憶が呼び起こされた。
「僕はバカだな…… 易々と記憶を消されて、全て忘れて"た"なんて。」
「……上坂?」
「復活だ、全部思い出した 悲しい想いさせてごめんな、結衣」
「上坂ぁ……」
安心した表情を浮かべた結衣は、まるで決壊したダムの様に感情に流されるまま涙を流す。
「上坂のばかぁ……」
「ごめん 後……ありがとう結衣 」
本当に、彼氏として僕は零点だ。好きな人のことを忘れるだなんて。一番覚えてないといけない人間なのに。
だけれど、これで終わりでは無いのは理解している。寧ろ大変なのはこれからなのだ。
あの物語に沿うのならば、魔女との対峙が待っている。
にしても、何もかもがあの物語と同じだ。
旅路の果てに、魔女に記憶を消された王子様は最愛の人間のキスで記憶を取り戻す。
全ての記憶を取り戻した今ならば、この物語の結末を僕は知っている。なぜなら僕は由希に買ってやった際に一度読んでいるから。
「結末まで同じならいいけど」
泣きじゃくる結衣を胸の中で抱き締めながら、僕は物語の結末への覚悟を決めた。
全てを終わりにしよう、上野優衣。
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