第五十二話 寿司
今日は取材で外に出ていた。
例によって牧場に関するもので、都心から少し離れた場所に訪れている。
思いのほか早く終わったので、原稿の内容を頭の中でまとめながら、ぶらぶらとその辺りを散歩していた。
なんてことのない郊外の町なのだが、海が近いのか磯の香りがしていた。海を見るのは、なんとなくワクワクする。
高台に上がると、パッと景色が開け、海が広がっていた。
どんな時も海は美しいものだ。
港町というわけではなく、漁業が盛んなのだろうか。遠目から小さな船がいくつも並んでいるのが見える。
海水浴場というわけでもないのだろうが、砂浜もあった。
せっかくなので、砂浜に行ってみよう。
私は再び歩き始め、これといって特徴のない街並みを抜けていく。そんな中、ルリエーマートが目に入る。
そうだ。ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂で、お弁当か何かを買って浜辺で食べよう。
◇
ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。
「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。このお店は初めてよねぇ。お仕事でこっちに来たのかしらぁ」
クトゥルフお母さんが出迎えてくれる。
「仕事で来たんだけど、海が近いのを見てさ、浜辺でお弁当食べてみたらどうかと思ってね」
私の言葉を聞いたクトゥルフお母さんは、なぜか少し困ったような顔をする。眉の触手がハの字になり、触手がうねうねと不規則な動きをしていた。
「そうなのねぇ。この辺の海は……、いえ、言わなくてもいいかもねぇ」
クトゥルフお母さんは何かを言いかけたようだが、気にしないことにする。
「麓郎ちゃんは海が好きなのね」
お弁当のコーナーへ案内してもらいつつ、そんな問いかけを受ける。
「海好きですよ。でも、山に行くことも多いです」
私の言葉をクトゥルフお母さんはニコニコしながら聞いてくれる。
「ふふ、麓郎ちゃん、山に行くのね。なんだか楽しそう」
クトゥルフお母さんが笑っていたからか、私は舞い上がってしまった。思いもよらない言葉が口から出てきた。
「今度、一緒に行ってみますか?」
沈黙が場を支配する。私は軽はずみに口にしたことを後悔していた。
しかし、しばらくして、クトゥルフお母さんが口を開いた。
「ふふ、嬉しいわ、麓郎くん」
これは肯定されたのだろうか。なんにせよ、否定されたわけではないだろう。
なぜだか心が浮き立つものを感じる。舞い上がった私は舞い上がったものを手に取った。
それはお寿司だった。
私は浮き浮きした気分のまま、お寿司を手に取り、そのままレジへと並んだ。
◇
ルリエーマートを出ると、私は海に向かって歩き始めた。
なんてことのない街並みだと思っていたこの町がなぜだか輝いて見える。嬉しい。嬉しい。嬉しい。
通りすがりの眼球の飛び出たおじさんですら、素晴らしい存在に思える。
まるで自分が特別な存在にでもなったかのように、嬉しく、そして誇らしい気持ちを抱いていた。
住宅地を抜けて、浜辺に出た。そして、愕然とする。
そこに広がるのは美しい砂浜ではなかった。空き缶やペットボトル、ビニール袋にエコバッグなど、大量のゴミが散乱している。海の水も汚染されていて、黒いオイルのようなものが浮き出していた。
こんなところで食事をしなければならないのか。私は暗澹たる気持ちになりながらも、比較的ゴミが少なく、腰かけることのできる
気を取り直すために酒を飲もう。空の下で飲む酒は決まっている。鬼ころしだ。
鬼に逢っては鬼を殺し、仏に逢っては仏を殺す。これぞ鬼ころしの極意なり。
紙パックにストローを突き刺し、チューチューと吸う。米の濃厚な香りと甘さが一気に広がっていくようだ。辛口の口触りもいい。ストローで飲んでいるからか、一気に酔いが回ってくるように感じる。
そして、路上放浪者になった感覚、これこそが鬼ころしの真の味わいだ。自由かつ堕落的、それこそが鬼ころし。この薄汚れた砂浜で酔っぱらう、それもまた愉快なことだった。
では、寿司を食べるか。
私はその陣容を眺める。何から食べようか。
最初に卵焼きを食べてその店の味を見極めるなんて話がある。今回の場合、そんな必要はない。ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂のお弁当が美味しいのは確定事項だからだ。
だから、卵焼きは最後に食べることにしよう。おめえさんはわしのうまそうな「でざぁと」よ。
まずは、タコだ。
弁当の蓋を醤油皿代わりにして、タコに醤油とワサビを付ける。そして、一口でいく。コリコリとした弾力のある噛み応えを楽しみつつ、海鮮ならではの深みのある旨味が幸せな気分にさせてくれる。
特製の醤油とワサビはタコの旨味を引き立てるが、同時にご飯にもよく合う。三者が渾然一体となり、抜群の味わいを形作っていた。
次は海老。入っていたのは牡丹海老のようだ。
口に入れるとプチプチという食感とともに、海老の芳醇な香りと甘さが充満してくる。この濃厚な旨さとともに食べるシャリの美味いことといったらない。
そしてハマチ。
やはり魚は生で食べるのが美味いと思わせる。脂身たっぷりのハマチは口の中でとろけていくようで、その旨味と甘味がご飯と溶け合っているようだった。夢中になり、あっという間に食べ切ってしまう。
続いてホタテかな。ピチピチした食感が新鮮さを感じさせ、その豊かな味わいに舌鼓を打った。
ガリも一口。ガリっとした歯ごたえで、生姜の尖った、それでいて清涼感のある味わいが口いっぱいに広がる。
さらにイカ。タコとはまたひと味違う噛み心地が楽しい。海産物の深い旨味をこの食材も持っている。
鬼ころしも飲もう。日本酒のキリっとした飲み心地は寿司に合っていると思えなくもない。
心なしか、この砂浜もそんなに悪い場所じゃないんじゃあないか、そう感じるようになっていた。
鯛を食べよう。
やはり、鯛は格が違う。滑らかな舌触りが上品だし、噛み心地も優しく、なによりコクがある。豊かで上等で、この感覚をどう表現したらいいだろう。
そう、これはまさに伝説の擬音! シャッキリポンとして最高の味わいだ。
そろそろマグロにも手を伸ばそう。
まずはネギトロだ。これぞ、とろける美味さ。マグロの旨味が凝縮されているといえる。柔らかな噛み応えは海苔とシャリによって確かな満足感へと変わっていった。
イクラを挟もう。
プチプチと旨味が弾ける。この感触とともに塩味が口いっぱいに広がり、ご飯とよく合った。イクラは塩味だけでなく甘みも旨味もたっぷりで、複雑でありながら本能的な美味しさがある。
ついに大トロをいく。
濃厚で爽やか、そして旨味がたっぷり。これぞ王道だ。脂身がたっぷりでとろぉっとした食感がありつつも、それでいて肉本来の美味しさも味わえる。まさに寿司の頂点といっていい味わいであった。口の中から溶けるように、あっという間になくなってしまう。
その余韻は寂しくもあるが、しかし、私は最後に卵焼きを残していた。
消えていったマグロの穴を埋めるように、卵焼きのまろやかな甘さが心の中に染み入っていった。醤油との相性も抜群で、ご飯によく合う。
こうして、浜辺での幸せな時間は過ぎていった。
◇
何かがおかしい。そう感じていた。
匂いの感じ方が変わっているように思えるし、なにより視界が変だ。やたらと視界が広がり前方だけでなく左右も見えているが、どうにもぼやけて見えている。それに、まばたきをしようとしても、まぶたが動かない。
どういうことだろう。
私は携帯電話を手にした。携帯電話は画面をオフにすることで反射という機能が使える。その機能を利用して自分の顔を見てみた。
ギョッとする。顔が広がって額がやたら狭くなり、髪の面積が少なくなっている。目は左右が離れ、飛び出しているかのように膨らんでいた。鼻は平べったくなっている。皮膚はサメ肌のようにゴワゴワしており、
なんだこれは……。これが私の顔だというのか。
あまりのことに呆然とする。何も考えることができなかった。
しばらく、ぼんやりしていると、海が泡立ち、何者かが現れた。
それは集団だった。人間のように二足歩行しているが、そのどれもが髪がなく、額は狭く、目は魚のように側面にあり飛び出していた。まるで二足歩行の魚のようにも、カエルのようにも見える。
つまり、今の私の姿に酷似していた。
これは、深きものどもだろうか。
有名なのはアメリカ合衆国マサチューセッツ州に属する港町、インスマウスの住民たちだろう。彼らは本来は人間だったといわれているが、豊かな漁場と引き換えに異形の姿に変化していったといわれた。その醜い容姿から周辺の地域からは疎まれているという。
深きものは不死であり、殺されなければ死ぬことはない。長い寿命の間に成長を続け、あるものは科学者に、あるものは、神官へとなっていった。一説によると、父なるダゴン、母なるハイドラも深きものが成長し、指導者となった姿だともいう。
私は深きものになったのだろうか。永遠の命と成長を約束されたのだろうか。
そんな愉悦を感じていると、深きものどもはどんどんと私の元へと群がってくる。そして、私の首根っこを掴むと、引き摺るように海へと連れていった。私は抵抗することもできず、そのまま海の中に沈んでいく。
ゴボゴボ
いきなり海に引き摺り込まれて、私は
そう思っていると、ほかの深きものどもは後頭部に空いた噴水孔から泡が湧き立っているのが見えた。
なるほど。えら呼吸ができるのか。感心するとともに、私もえら呼吸を試みる。
………………。
やり方がわからない。
どうやって呼吸をするのか。そんなこと、地上にいた時には考えたこともなかった。
「生まれて初めて呼吸するんだ」なんてことを言ってくる人がいたとして、そんな人にどんなアドバイスができるだろうか。正直、何も言える気がしない。
同じように、「これから、えら呼吸します」と思っていても、やり方なんてわからないのだ。
私は呼吸ができず、息が詰まり、地上にも昇ることができない。深きものどもに組み付かれているからだ。口を開いて水の中から酸素を取り込もうとしても、その塩辛さが受け付けず、ゲホゲホとむせ返って余計に体力を消耗する。
呼吸困難の苦しさに悶え、必死に暴れながらも、拘束は解かれることはない。苦しさとともに考える力もなくなっていく。
やがて、意識が遠くなっていった。
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