第二十五話 うにくらげ

 昨日までの忙しさが噓のようにまったりとした一日だった。


 いや、昨日も忙しいというほどではなかったが、徹夜明けで意識が朦朧もうろうとしていたし、何より、どんなミスや修正が指摘されるかわからないため、ずっとピリピリしていた。電話や伝書鳩が来るたびに、どんな修正をしなくてはいけないのか、とビクビクし通しだったのだ。

 しかし、今日はもう印刷所が稼働を始めている。こうなっては、もう原稿の整合性など考えてもしょうがない。もはや賽は投げられたのだ。


 そういうわけで、今日はゆったりしている。やることといえば、緊急度の低い原稿を書いたり校正をしたりで、落ち着いたものだ。なんだったら、家の掃除さえ始めてしまう。時間に追われてさえいなければ、どんなに仕事が楽しいものか。

 気がつくと、時間は午後7時になろうとしていた。一般的な会社員ならそろそろ定時になる頃合い(※注)だろう。私も今日くらいは定時上がりとシャレ込むことにしよう。


「トゥールートゥトゥトゥトゥー♪ トゥールートゥトゥトゥトゥー♪」


 定時のテーマを口ずさみつつ、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂へ向かうことにする。


        ◇


 沈みつつある太陽を眺めながら、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂へやって来た。8月だと、この時間でもまだ太陽は沈み切っていないのだなと思う。

「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。今日は早いのね」

 クトゥルフお母さんが出迎えてくれる。太陽が沈む前に訪れたのだ。さすがのクトゥルフお母さんも瞳孔をあかく変色させて驚いている。

一昨日おととい、大きめの校了があって、昨日で一段落、今日はまったりとしていたんだよ」

 私が説明すると、クトゥルフお母さんはニコニコと笑った。

「それは、お疲れさまぁ。がんばったわね、麓郎ちゃん」

 クトゥルフお母さんにいたわられて、私もまんざらではない。彼女と同じように、思わずニコニコとしてしまった。


「今日はまったり飲みたいから、何かおつまみみたいなの買おうかな」

 照れ隠しで独り言をつぶやきつつ、おつまみのコーナーへと移動する。おつまみの種類は多いので目移りしてしまうが、その商品が目に入った瞬間に心が決まった。

「うにくらげ」

 なんと魅力溢れる響きの言葉なのだろう。透明なプラスチックの容器からは、黄金色に輝くウニとクラゲが絡み合う蠱惑的こわくてきな姿をありありと覗くことができる。

「決めた。これにしよう」

 私はうにくらげのパックを手にした。


「麓郎ちゃん、ありがとう」

 先ほど以上にニコニコとした笑顔になったクトゥルフお母さんが私を見送ってくれた。

 その表情を見て私も嬉しくなり、ウキウキとした気分でレジへと向かう。


        ◇


 さて、お酒だ。いいつまみにはいいお酒を。これが鉄則だ。何者も破ってはいけない血の掟だ。これを破ったものは残酷な結末を辿ることだろう。

 この言葉を振りだなんて思った人もいるだろうか。そんなことはない。今日は正真正銘の名酒を用意しているのです。


 うにくらげはどこの珍味か。それは、もちろん北の最果て、北海道のものである。

 ならば、酒は北海道のものにするか。いや、私は発想を逆転する。ここは南の最果てである、鹿児島の酒を飲むことにしよう。鹿児島=薩摩といえば、芋焼酎だ。

 まあ、たまたま、うちに良いめの芋焼酎があったからなんだけど。


 今日飲むのは、本格芋焼酎の鶴見だ。近所の魚屋のオヤジがお薦めしてくれたお酒だ。

 グラスに氷を入れる。芋焼酎の瓶の蓋をパッコンと開け、とくとくと注いでいく。氷が溶けてカラカラと鳴る。この音は何度聞いてもいい。

 グラスを口に元まで運び、口の中に流し入れる。ゲホッゲホッと少しむせる。水道まで行き、口の中と喉をすすぐ。少し慌てて口の中に入れ過ぎたようだ。


 改めて、一口飲む。骨太で濃厚な芋の香りが強いインパクトで迫ってくる。あまりにも濃厚なため、甘さすら感じるほどだ。口の中を、そして全身をアルコールの刺激が巡っていくが、それを抜きにすると覚えのある味だった。この甘く濃厚な味わいはまさしく焼き芋そのものなのだ。

 もう一口飲む。まるで飲む焼き芋のようだった。焼き芋は美味い。ならば、この酒も美味い。簡単な等式だ。さらにもう一口。うん、美味いぞ。


 では、うにくらげに手を伸ばそう。

 パック越しに見ていた黄金色も魅力的だったが、蓋を開けてみると、その美しさは格別だった。透明感のあるクラゲに満遍なく絡み合わされたウニの黄金色のコントラストが素晴らしい。自然界にあるものを掛け合わせるだけで、これほどの「美」が描けるのだと思うと感動を禁じ得ない。

 そして、そのウニも、クラゲも、まるで生きているかのようにピチピチと動いているかのように見えた。これは食材の新鮮さを物語っているのだろう。


 私は恐る恐る箸を伸ばし、恐る恐る口へ運ぶ。ウニを食べる、という緊張感が私を慎重にさせているのだろうか。

 口に入れると、その濃厚なウニの味わいが私を支配した。柔らかで、まったりとしていて、それでいて刺激的な磯の風味。いや、磯などという下世話な言葉で表すことはできない。それほどに上品な味わい、口の中でトロッと溶けていく高級感、極上の旨味体験であった。

 さすが、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂である。ミョウバンの風味が先に来るような、保存を優先したようなウニとはまるで違った。産地直送を意識した、今まさに美味い、そんなウニなのである。


 そんな最上級というべきウニの味わいであるが、噛みしめるとまた違った世界を見せてくれる。

 コリっとしたクラゲの食感である。クラゲ自体には何の味も香りもないといわれるが、それでもこの食感は何物にも代えがたい。噛み心地がいいというのは、どんな味覚、嗅覚にも勝る極上の体験だ。味わったことのない人にはわからないかもしれない。

 それに、ウニの極上の味わいが加わるのである。これを幸せといわずに、何を幸せだと感じればいいのだろう。


 私はうっとりとしながら、この味わいを堪能し、咀嚼し、そして、焼き芋味の焼酎を飲む。

 素晴らしい、黄金体験であった。

 何より嬉しいのは、この味を何度も堪能できることだ。つまみというのはまったりとした時間の流れとともに味わうものだ。それが極上の味わいというのは嬉しくあるが、不安もある。

 これは飲み過ぎてしまうな。

 一抹の不安がありつつも、食は進んでいった。そして、酒も進む。べろべろになる。


        ◇


 酩酊していた。酔っぱらっている。

 しかし、どうにか、その異変に気づくことができた。


 私の口から、耳から、鼻から、そしてあらゆる私の体内にある毛穴から、触手が出現して私の全身を覆っていた。腕を見ると、螺旋状に、白い、名状しがたい奇妙な触手が張り巡らされている。服を脱いだわけではないので、はっきり断言はできないが、全身に張り巡らされている。そんな感覚があった。


 急に、その触手によって全身を締め付けられる。といっても、それにより腕がちぎれるとか、胴が真っ二つにされるとか、そんな危険は感じない。

 軽い痛みを負わせるのが目的なのかと思ったが、また別の感覚があった。触手の一本一本から針のようなものが打ち出され、全身を突き刺した。激痛が走る。


つうっ」


 私は思わず声に出してしまった。そして、その声に反応したかのように全身に虚脱感が走った。血が抜かれているのだと気づく。

 血液検査や献血の時に感じる虚脱感を抱くが、全身から致死量に構わず吸われていくのだ。私は絶望に支配され、思わず倒れ込んでしまった。しかし、そんなことで吸血の勢いがなくなることはない。

 私の腕からは瑞々しさが消え去り、ミイラのようにシワシワとなっていくのが目に見えてわかる。それ以上に、自分の視覚が徐々に失われ、どんどん何も見えなくなっていった。


 ふと、今日のクトゥルフお母さんの瞳の色を思い出した。

 そうか、赤は血の色だ。


 私の血を吸い込み続けているのはクトゥルフお母さんなのだろう。

 そう思うことで、私は失い続けている自分の活力がクトゥルフお母さんのものになり続けていることを感じていった。

 それならばいい。


 私は骨と皮が張り付いたような、自分の手を見る。

 私を養分としてクトゥルフお母さんは生き続けるのだろう。そう考えるとしぼみ続ける自分の肉体も悪くないものだと思えた。

 薄れゆく感覚の中、私の血を吸い続けるクトゥルフお母さんを感じている。なんという嬉しいことなのだ。

 ただ、喜びだけを感じつつ、私の意識は闇の中へ落ちていった。


※注:麓郎氏は一般的な会社員というのがどういうものかわかっていません。

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