第三十六話 肉まんとあんまん
今日は仕事の打ち合わせで郊外に来ていた。正確には少し違う。郊外だとは聞いていたが、とてもそんな場所ではなかったのだ。
都心から離れた郊外の駅で編集者さんと合流し、二人でタクシーに乗る。そうして進んだ先は明らかに街から離れ、
今日、誰と打ち合わせするのかは事前に聞いていた。
編集者さんが言うには、今をときめくイラストレーターなのだという。年若い少女たちを中心にムーブメントを起こしているようだ。
かくいう、私はその名前を初めて知ったが、少し調べただけで、アラブの富豪が自家用飛行機で現れて、彼女の絵を言い値で買っていったなど、剛毅な逸話が次々に出てくる。
プレハブに入り、担当者を呼ぶと、彼女のマネージャーが現れ、会議室へと案内される。しかし、マネージャーがやったことはイラストレーターを呼ぶことではなく、電話会議の準備であった。
(え?)と私は思った。こんな場所までわざわざやって来ておいて、やることが音声通話だというのか。
編集者さんの様子を窺うが、こうなることを知っていたのか知らなかったのかわからないが、ヘコヘコして状況を受け入れている。
結局、私たちは肝心のイラストレーター本人に会うこともなく、打ち合わせを終えた。
「さすが、謎めいたイラストレーター。姿も現さなかったな」
編集者さんはそんなことを言っていたが、そんなことのために何時間もかけてきたのだろうか。あんたの背中、透けて見えるぜ。
駅まで戻ると、編集者とはその場で別れた。
実はこの駅の近くに妹の通う学校があり、その話をしたところ、久しぶりに会うことになっていたのだ。
時間を見ると、まだ少し早い。私はその間の時間をルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂で過ごすことにした。
◇
ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。
「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。ここのお店は初めてよねぇ。お仕事でいらっしゃったのかしら」
いつものようにクトゥルフお母さんが出迎えてくれる。
「仕事があって来てたんだよ。それと、妹と会うことになってたから、その時間つぶしいうか……」
ちょっと言い方が失礼だったかなと思い、私の声は尻すぼみに小さくなってしまった。
「うふふ、いいのよ。麓郎ちゃんと会えて嬉しいんだから」
ニコニコとした親しみやすい笑顔で、クトゥルフお母さんはそう言ってくれた。彼女の微笑みを見ていると、つまらないことにこだわっていることが馬鹿らしく思えてくる。
私は彼女の心遣いに甘えて、何の目的もないままに、店の商品を見て回っていた。そして、ホットフードコーナーについた時に一つのことに思い至る。
「そういえば、最近寒いなあ」
私は肉まんを見て、そんなことをつぶやいていた。
「中華まんは最近始めたのよぉ。これも美味しいから、よかったら買っていってね」
クトゥルフお母さんの笑顔に当てられたわけでもないが、私は中華まんをいくつか買っていくことにする。
「えーと、私のお父さんというか兄弟というか、甥っ子? うーん、人間の言葉だとなんていうのだったかしらぁ」
クトゥルフお母さんの呟いた言葉の意味は分からなかったが、レジに並んで、店員に欲しい中華まんを伝えた。
◇
私は再び駅前に来た。
そういえば、飲み物がなかったなと思い、自動販売機で缶コーヒーと缶ココアを買う。ココアを買ったのは、
「お、麓郎くんじゃん」
背後から声が聞こえた。小恋乃都が後ろに立っていた。この駅では何度となく見かけた高校の制服を着ているが、彼女が着ているのを見ると特別な感慨が湧き起こってくる。
「高校入学おめでとう。行きたかった高校だもんな、良かったよ」
私が涙ぐみながらそう言うと、小恋乃都は呆れたような表情をし、そして笑いだした。
「アハハー! 高校入学なんて半年も前のことじゃない。今さら何言ってんのよ」
そう言われると、一人で盛り上がっていたのが気恥ずかしく思える。ごまかすように頭をポリポリと掻いた。
「そんなことよりさ、私、背が伸びたんだよ。もう麓郎くんより高いんじゃないかな」
小恋乃都はそんなことを言ってくる。私はムッとした。成人男性として高身長とはいえないが、決して低くもない。女子高生に背丈で負けるわけにはいかないのだ。
「そんなわけ、ないだろ」
私がそう言うと、小恋乃都は私の横に並ぶ。そして、自分の頭の頂点に手のひらを乗っけると、水平に振った。
「痛っ」
その手は私の頭にぶつかった。
「あっれー、まだ麓郎くんの方が背が高いのねぇ」
しかし恐怖があった。今はスニーカーだから私の方が高いが、ヒールを履くようになれば、私の方が身長が低い印象になってしまう。
「さっき、ルリエーマートで肉まんとあんまんを買ってきたんだ。一緒に食べないか」
忌まわしい流れを断ち切るべく、新しい話を切り出した。
「おっ、麓郎くんのくせに気が利くじゃないの」
小恋乃都が満面の笑みを浮かべた。やはり、肉まんとあんまんには人を笑顔にする力がある。
◇
二人でベンチに移動していた。
「コーヒーとココアがあるけど、どっちがいい? コーヒー苦手だったよな」
私は缶の飲み物を持って、
「アハハー! 缶ココアなんて、実際に買う人いるんだ。私はコーヒーもらうよ」
どうやら私はココアを飲むことになるようだ。
「コーヒー駄目なのは
彼女の言葉でハッとする。
「そういや、そうだったな」
そんなわけで缶ココアを飲むことにしよう。寒空の中、温かな飲み物はそれだけでも嬉しい。
口に入れると、チョコレートのような香りがする。これは甘い香りと表現するべきだろうか。本来甘いものではないのだが、それでも甘い印象があるのは刷り込みなのだろう。
仄かな甘さ。いや どぎつい甘さが口の中に広がっていった。少しくどい飲み口だが、美味しいと言えなくはない。少し後味が悪いかもしれないが、あまり気にしないことにしよう。
ココアを少し飲むと、肉まんとあんまんを小恋乃都にも渡した。
私も肉まんを食べることにする。
肉まんを齧る。まだ皮の部分だけだったが十分に楽しめる。小麦粉の香りと酒粕の甘い香りが感じられ、ふかふかとした食感とほかほかの温かさがじつに優しい。寒くなってきた季節というシチュエーションもあるが、これだけで美味しいと感じさせてくれる。
肉まんの味は意外に複雑だ。
豚肉にはジューシーな旨さがあり、意外としっかりした肉質で噛み応えがある。それに加えて、ネギの甘さと香り、シイタケの重厚な旨味、生姜の刺激、タケノコのシャキシャキとした食感。そのすべてが見事に調和し、まさに肉まんというべき味わいを作り上げていた。
子供の時からこの味は大好きだった。初めて食べた時の感動を覚えているほどだ。そんな郷愁もあり、一気にかぶりついてしまう。
「なんかさー、肉まんってたまに食べると美味しいよね」
小恋乃都がそう言った。私は全力で同意する。
あんまんを頬張る。口の中に温かいあんが口の中に広がってきた。
中華まんのボリューム感のある皮と温かいあんの組み合わせは、最強ともいうべき存在感がある。
胡麻の風味の強いあんこの甘さは、久しぶりに食べたからか、奇妙に新鮮さを感じさせた。
あんまんは肉まん以上にジャンクなイメージがあるが、その美味しさは勝るとも劣らないものだろう。
「こういう甘さって、ほかにないよね。ほくほく温かくって甘いって最高だよ!」
小恋乃都も楽しんでくれている。それは嬉しいことだった。
◇
私の肩に何かが乗っているような、そんな気がしていた。そして、
それは白いような黒いような。小さいような巨大なような。
何もわからないが、ただ奇妙な違和感と理由もない不安だけが感じられる。
――ppgpufjalruopaurjoajoljalfjao
――kouioroaitjhioaujioauljao;ilruhaiosjhgioasu
二重に連なる声が聞こえてきた。肩のものが発しているのは間違いない。
まともに認識することすらできない、言語とも呼べないような奇妙な言葉を発しており、まったく理解できなかった。
――maaiosduodflajfahkljoeran
――haiorjtoarjklakfdajorhaaskljhrkjyj
その音声が私の耳に伝わってくると同時に、喉に強烈な痛みが走る。肉がねじられ、万力で圧迫されるかのような、拷問でもされているかのような長く鈍い痛みだった。
私は耐え切れずに声を上げる。つもりだった。だが、すでに喉が潰れているため声が出ず、ただ呻きのような空気の振動だけが起きる。
――askyasouhaashrajai
――uaorjlasjrlkajham,rjy
声と共に私の四肢は破裂した。一瞬のことで何が起きたのかもわからない。鋭い痛みとともに、腕も足も霧のように消え去っていた。私は自分自身を支えることもできないまま、倒れ伏し、ただ身もだえる。
だが、なんとなく私にはこの双子が何者なのかわかってきていた。クトゥルフお母さんが奇妙なことをつぶやいていたことを思い出す。あれは肉まんとあんまんの正体を話していたのだ。
このものたちは、ナグとイェブじゃないだろうか。
ナグとイェブは謎に包まれた双子の神だ。ヨグ=ソトホースの子で、無性分裂によりクトゥルフお母さんやツァトゥグアを生んだという。
しかし、クトゥルフお母さんやツァトゥグアはヨグ=ソトースの落とし子として知られている。これは矛盾じゃないかという議論もあるが、しかし、神々の関係性など、二つの性しか持たない人間の知恵が及ぶところではないのであろう。
――iasljairu
――mairjalrhaalrahiauo
私の耳に燃えるような痛みが走り、炎と化して消え失せると、聴覚すら失われた。耳だけでなく聴覚に関わる器官すべてが抉られたようだ。
ふと、小恋乃都を見る。私と同じように足も腕も吹っ飛ばされて動けなくされ、耳があったであろう場所から血を流している。目からは涙があふれており、声にならない言葉から助けを呼ぼうと叫んでいるように見えた。
――koairuarjlnrilbukeisru
――iaraljanfuaihflayzluewu
認識すらできない存在が新たな声を発する。
これからどうなるのだろう。頭を破壊されるのか、胴体を切り刻まれるのか。それとも、精神を汚染されるのかもしれない。
恐怖に引きつる私たちだったが、ついに終わりの時が訪れた。吸い出されるように眼球が飛び出し、それと一緒に脳みそも地面に叩きつけられる。永劫に恐れも痛みも感じることはなくなったのである。
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