第四十二話 シーフードと野菜のアヒージョ

 そのオフィスに入ると、みんな死んでいた。

 フロアに倒れ込んでいるもの、会議スペースの中でうずくまって動かないもの、机に突っ伏しているもの。まさしく、死屍累々である。


「し、死んでるぅーっ!」


 私は思わず叫んだ。

 すると、その声に反応したものがあった。入り口近くにもたれかかった死体が動く。その死体は顔を上げ、重たげに瞼を開くと私を見た。そして、よろよろと立ち上がり、口を開く。


「麓郎君、よく来てくれたね。はは、みんな徹夜続きで、この有様さ。付いてきて、君のデスクはこっちだから」


 ここは編集プロダクションのオフィスだった。雑誌の立ち上げにおいて、重要な部分を丸々受けていたのだが、予想以上のボリュームに作業が追いつかなくなり、私が助っ人に呼ばれたのだった。

 これから仕事をする机に案内されると、奥の机に突っ伏していた死体が動いた。

「麓郎、よく来てくれたな。助かるよ」

 このオフィスの社長に当たる人物だ。私は会釈し挨拶する。彼も強行のスケジュールの中、泊まり込みで作業していたようだ。


 情報誌の仕事は気を遣う。日付を始めとして諸々の情報は間違えると大変なことになるし、人名が出てきたら漢字含めて間違えがないように注意しないといけない。さらに、同じ出版社の紙面と統一しなければならない表記もあり、何かと神経を使った。

 とはいえ、作業内容はある程度決まっている。徹夜仕事になってしまったが、きっちり終わらせると私はその場で突っ伏した。


 もう昼過ぎだろうか。私の横で電話が鳴り、その会話の音で頭がはっきりしてくる。電話の内容からは修正がいくつか出ていることがわかった。

 私の作業にも修正が入り、やり直しを行う。そうこうしているうちに、また夜になり、明け方近くとなり、仕事が終わるとそのまま眠った。

 そうして、数日が過ぎた。


 や、やっと開放された……。

 私は暗がりの空が次第に明るくなるのを感じつつ、外の空気を精一杯吸い込む。


 もう何日もルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に行っていない。

 それを思い出すと、猛烈な飢餓感に襲われる。私は自宅への道すがら、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に寄っていくことにした。


        ◇


 ふらふらとした足取りで、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。

「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。お久しぶりねえ」

 クトゥルフお母さんが出迎えてくれる。それに対して私は力なく返事をした。

「あらあらぁ、だいぶお疲れのようねぇ。修羅場だったのかしらぁ。無理しないで、今日はしっかり休んでねぇ」

 クトゥルフお母さんが私を気遣ってくれる。疲れ切った身体にその優しさが染み込んだ。


「徹夜続きだったんだよ。家に帰ったら休もうと思うけど、その前に体力を取り戻せるようなものを食べたくてさ。そういうのないかな」

 私がそう言うと、クトゥルフお母さんはあわあわとした様子で両腕を前に突き出した。その腕は青白くほっそりとしているが、しなやかな強かさを感じる。

「お仕事、ほんとうに大変だったのねぇ」

 クトゥルフお母さんは心配そうな表情をした後に、考え込むような表情をする。


「そうねぇ、アヒージョなんかどうかしら。唐辛子が入ってるから食欲が湧きやすいし、栄養もエネルギーもたっぷり取れるのよ」

 そう言うと、クトゥルフお母さんはアヒージョのコーナーに案内してくれる。そこにはさまざまなアヒージョが置かれていた。

 海老や帆立、牡蠣など海鮮のアヒージョ、キノコのアヒージョ、鶏肉やベーコンなど肉類のアヒージョ。どれを選ぶか迷ってしまう。


「うーん、これにしようかなあ」

 私は熟慮した上で、アヒージョの一つを手に取る。

「うふふ、それも新鮮な食材なのよ。今朝月から獲ってきたばかりなんだから!」

 クトゥルフお母さんも笑顔で太鼓判を押してくれた。


        ◇


 お酒を飲もう。疲れた時には酒を飲む。これが鉄則だ。


 私は冷凍庫の中に入っていたアクアビットを取り出した。

 これはジャガイモのお酒で、アルコール度数は45度となかなか高めだが、今こそ、その刺激を必要としている。


 アルコールの高いお酒なので凍り付いてはおらず、トロトロとした粘りとともにグラスに注がれていった。

 それだけで、強烈なハーブの香りが漂ってくる。だが、ハーブの香りも強いが、それと同等に独特の辛さも飲み口として強かった。

 芋の酒といえば芋焼酎だが、それと似たような、だが、それ以上に強力な辛さが喉を焼いていく。それでいて、カラッとしたドライな味わいなので、爽やかさを感じる。

 当然、アルコールは強いので、一口で酔い始めていた。というか、もう眠い。


 ここは早々に刺激を入れなくては。

 レンジで温まったアヒージョを取り出してパックを開けた。むわぁ~っとニンニクの匂いが充満してくる。それと同時に腹が鳴った。

 そうだ、私は腹が減っていたのだ。


 まずは、主菜メーンである海老を食べよう。

 プリプリとした食感とともに、奥深い旨味が舌と歯を通じて伝わった。この海老はとても肉厚で、海鮮というよりも豚肉や鶏肉を食べているような錯覚すら感じる。

 だが、やはり語るべきはアヒージョとしての味わいだろう。


 ニンニクの匂いは強いが、オリーブオイルの上品な香りも同時に感じられる。各種ハーブの香りも漂い、アヒージョとして味がまとめられていた。また、唐辛子が全体を引き上げており、その辛さはアヒージョへとのめり込ませる。

 やはり、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂だ。いい仕事をしている。


 特徴的なのはトマトが入っていることだろう。

 オリーブオイルとトマトは溶け合っている。アヒージョにグルタミン酸の旨味が加わるとともに、トマトはアヒージョの味付けにより、美味しさがさらに増している。互いにその旨味を引き立て合い、極上の美味しさを醸しだしていた。


 味への貢献でいえば、アサリも大きいだろう。

 噛みしめるごとにその深い旨味が溢れてくるアサリは、当然、出汁としても優秀だ。アサリに多く含まれるコハク酸ナトリウムは魚介ともキノコや野菜とも全く印象の異なる旨味成分である。

 アヒージョの味付けでアサリを食べるのが美味しいだけでなく、アサリの旨味によってアヒージョもまたパワーアップしているのだ。


 マッシュルームも見逃せない。

 マッシュルームにはシイタケと同様にグルタミン酸が含まれているが、それだけではない。多くのキノコに含まれているグアニル酸も有しており、旨味の宝庫なのだ。

 さらに、松茸の芳醇な香りの元だといわれるマツタケオールも入っている。これだけの旨味を取り込まれたアヒージョが美味しいのは当然だ。

 もちろん、マッシュルーム自体も美味い。コリコリした食感は楽しく、アヒージョによく馴染んでいる。食べていると自然と笑みがこぼれていた。


 ブロッコリーはアヒージョを最も味わえる具材かもしれない。

 ブロッコリーは凝縮された森である。そう表現したのは20世紀の詩人だっただろうか。まるで森をまるごと味わうかのような贅沢さが醍醐味だろう。

 オイルとよく絡み合うブロッコリーにはアヒージョの旨味も凝縮されていた。ブロッコリー自体の香りも良く、シャリシャリした食感も楽しめる。これこそ至高の食材だ。


 そろそろバゲットの出番であろうか。バゲットなんて言うとまどろっこしいが、フランスパンだ。

 フランスパンという名称がどこから来ているかは知らない。だが、アメコミのヒーローチーム「セッション8」のフランス人マンもフランスパンで戦うヒーローなので、アメリカでもバゲットはフランスパンなのだろう。


 バゲットを切る。端っこを一口。外側は固いがサクッとした歯ごたえで、中身はふわふわと柔らかい。この固さと柔らかさのギャップが最高だ。

 そのまま食べても香ばしい味わいがあり、十分に美味しい。


 それをオイルに浸し、海老とブロッコリーを乗せ、齧りついた。

 オイルに浸ったバゲットは美味しい。それは誰でもわかるだろう。海老とブロッコリーを乗せたバゲットが美味しい、これもわかる。

 つまり、これは超美味しい、そういうことになる。簡単な計算だ。


 これぞ、窮極のグルメだ。私はバゲットとともにアヒージョを味わいつくした。


        ◇


 夢中になってアヒージョを食べ終えた私は眠気でとろんとしていた。アクアビットで酩酊しており、椅子に座ったまま、うとうとしている。

 しかし、そんな眠気を襲う衝撃が走った。


 どどーん


 天井から伝わる振動が私を驚かせる。天井は振動によって砕け、空が見えた。

 天井を破壊しているのは黒いガレー船のようなものである。まさか、上空からガレー船が私の家に突撃してきたとでもいうのだろうか。


 ガレー船からは奇怪な生物が下りてきて、私の部屋を埋めていく。その生物は直立した白いヒキガエルのような容貌をしていた。

 身体は自在に伸縮するぬるぬるしたものであり、その体液は緑ががっていてオリーブオイルのようだった。特徴的なのは顔から突き出た赤みがかった触手のようなもので、私の部屋に降り立った生物たちは、誰もがその触手を私に近づけてくる。感覚器のようなものなのか。


 この姿にピンときた。この生物たちは月の怪物ムーン=ビーストではないだろうか。

 ドリームランドの月の裏側では月の怪物が繫栄しており、大都市を築いていた。そして、レン高原からもたらされた黒いガレー船で宇宙を渡り、ドリームランドの地球と交易を行っている。注意すべきは、彼らには他種族を奴隷にする風習があることだ。

 彼らはニャルラトテップとムノムクァを信奉しており、黒いガレー船もニャルラトテップが与えたものなのだろう。


 月の怪物たちは私を羽交い絞めにすると、縄でがんじがらめにし、黒いガレー船へと放り込んだ。

 船倉に連れていかれた私はドカッと降ろされる。立ち上がると縄が解かれるが、代わりに鞭を喰らった。

 目の前には壁から突き出た棒があった。前方には同じような棒を動かしている者たちが大量にいる。これはガレー船を漕ぐ、オールなのだろうか。


 再び私は鞭で打たれる。どうやら櫂で船を漕がなければならないようだ。私はほかの者たちを見習って、櫂を漕ぎ始めた。

 しかし、違和感がある。私以外の奴隷たちには角や蹄があった。どうやら彼らはレン高原に生息する人間もどきのようだ。


 大きな問題があった。ガレー船を漕ぐ、この労働が、とても疲れるのだ。

 考えてみてほしい。私は連日の徹夜で疲れ切っていた。その上で、こんな肉体労働をさせられているのである。私に必要なのは休暇ではないだろうか。

 それを月の怪物に伝えたところ、鞭でぶたれる。くそ、労基に訴えてやるぞ。


 人間もどきたちは文句も言わずに櫂を漕ぎ続ける。たまに世間話をするが、彼らは生まれついての奴隷らしい。ひどい話だ。

 目的地を聞くと、月の裏側の都市らしい。いつ着くか尋ねると、あと9ヵ月ほどだという。自転車チャリで向かっているような速度スピードだ。

 私は途方に暮れた。気が遠くなる。あと9ヵ月もこんな労働を強いられるのか。


 日が経つにつれ、自分の体重が落ちていくのがわかった。ろくな食べ物を与えられていない。

 労働時間も長く、疲労は蓄積するばかりだ。身体はどんどんだるくなるし、次第に月の怪物によって与えられるまずい食事は受け付けなくなっていた。

 櫂を漕いでいても意識がだんだん朦朧としてくる。


 やがて、私は倒れた。月の怪物は私を拾うと、甲板に連れて行き、宇宙空間の中で放り投げる。

 放り投げられた運動エネルギーは私を地球へと向かわせた。大気圏へと突入し、その摩擦によって熱が生まれた。私の全身が燃えるのに時間はかからない。

 そして、燃え尽きながらも、思う。


 くそっ、労基に訴えてやるぞ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る