第四十八話 カレーライス

 ふと、外を見ると、雪が降っていた。寒いわけだ。


 私は車両の中で揺られていた。これから実家に帰るのだ。

 しかし、実家への距離が縮まるにつれ、胸騒ぎが広がっていくのを感じていた。不安で仕方ない。これはどういうことなんだろう。


 駅を出ると電話をかけた。


「はい、胃の頭いのあたまです」


 女の子の声がした。しかし、電話の声だけでは誰なのか区別ができない。

 私はその声の主に用件だけ伝えることにした。


「麓郎だけど。これから帰るから、みんなにそう伝えて」


 少しだけハッとしたような声が上がるが、次の瞬間には落ち着いたものになった。


「ああ、麓郎くん。夜露津よろづだけど。

 今、私以外みんな出かけてるよ。2、3時間もすれば帰ってくると思うけど」


 妹の一人である夜露津だった。随分と落ち着いた声だった。

 以前は騒がしい女の子だったが、いつの間にか大人になっていたのだ。

 そういえば、もう中学生になったんだったな。女の子の成長は早いとよく聞くけれど、それを実感した気分だ。


「それなら、夕飯買ってくけど、いる?」

 私が問いかけると、口調が変わらないまま、夜露津は答えた。

「助かる」

 その後、二三言葉を交わして、電話を切る。


 二人分だけなら、大した量でもない。私はルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に寄ってから帰ることにした。


        ◇


 ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。

 実家近くのこのルリエーマートに来たのはいつだっただろう。もう思い出せないほど前のことだ。

「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。ここのお店に来るのはしばらくねぇ」

 クトゥルフお母さんが出迎えてくれる。随分久しぶりかと思っているのだが、クトゥルフお母さんの感覚だとそこまでではないように聞こえた。クトゥルフお母さんの時間感覚は我々凡夫ぼんぷとは一線を画しているのだ。


「麓郎ちゃん、これから実家に帰るのかしらぁ。家族で食べるものを買いにきたの?」

 クトゥルフお母さんが尋ねてくる。そう言われて、少し返答に困る。

「うちは、今は二人しかいないんだ」

 そういう私に対し、クトゥルフお母さんは笑顔を崩さない。

「それもいいじゃない。楽しいお食事になるんじゃないかしらぁ」


「うーん、そうかなぁ」

 私はそう言いながら、お弁当コーナーに移動する。

 何かいいのないかな、そう思いながら見ていると、カレーライスが目に入った。

 お腹がぐぅと鳴る。カレーライスが食べたい。

 そう直感的に感じ、私は手に取った。


「うふふ、麓郎ちゃんなら、きっとカレーライスにすると思っていたのよ」

 クトゥルフお母さんが笑みをこぼしながら、そう言った。そこまで腹ペコに思われていたのだろうか。

「なんだか、カレーライスがすごく食べたくなっちゃって……」

 私はポリポリと頭を掻く。

「今日のカレーはとびきり美味しいのよぉ。うふふ、そういう日ってあるじゃない? 麓郎ちゃんは見る目があるわぁ」

 そう言われると、こっちまで嬉しくなってくる。気分が高まりながら、私は二食分のカレーを手にレジへと並んだ。


        ◇


 実家へと帰ってきた。

 インターホンを鳴らさず、そのまま入り口に手を掛けた。ガッガッと音がして、施錠されているのを確認する。

 なんとなく、裏手に回り込んだ。


 家の裏側には、父の作っている家庭菜園がある。なんだかよくわからない植物がたくさん植わっていた。

 テラスの階段を登る。そして、裏側のガラス戸を開けようとするが、やはり鍵がかかっていた。


 そうしていると、怪訝そうな表情で夜露津よろづが現れる。

 私に気づくと、呆れたような表情で近づき、鍵を開けてくれた。

解封呪文アバカム!」

 扉が開く瞬間、私は呪文を唱える。RPGに登場するどんな扉も開ける鍵開けの呪文だ。

 それと同時にガラス戸が開いた。


「入っていいよ」


 それだけ言うと、夜露津はすぐに奥へと帰っていく。

 渾身のギャグだったのだが、受けなかった。夜露津はドラクエを4以降しかやっていないのかもしれないな。


 食堂に行くと、そのそばのソファに夜露津は座り、携帯電話をポチピチといじっている。

「カレーライス、買ってきたんだ。食べるだろ? 温めるよ」

 私がそう声をかけると、画面から目を離さずに答える。

「ありがと」


 そっけない物言いに調子が狂う。以前はもっと元気な子だったのだけど。

 とはいえ、夜露津も私との接し方に戸惑っているのかもしれない。中学生というのは心身ともに成長が早い。そんな中でしばらく会わなかった友達とはどうもやりにくい思いをした経験は私にもある。夜露津も似たような状況なのだろう。


 とりあえず、気にしないことにして、私は台所へ向かい、カレーライスを電子レンジにかけた。


        ◇


 チーン


 二人分のカレーが温まった。それを持って食堂に戻る。

 テーブルにはガラスのコップが二つ置かれており、その中には白い液体が入っていた。牛乳かラッシーだろうか。


「おお、気が利くね。ありがとう」


 私がそう言うと、「ふふっ」と夜露津よろづが笑った。何だろうと思うが、相変わらず携帯電話の画面に夢中のようだ。


「あっ、ココちゃんからチャット来てたの」


 自分が笑っていたことに気づいたのか、夜露津は気恥ずかしそうに口に出した。

 ココちゃんとはまた別の妹で、小恋乃都ここのつのことだ。高校生だが、寮に入っているため、ここで暮らしてはいない。


「小恋乃都、元気そうか?」


「うん」


 どうも会話が続かない。でも、小恋乃都は元気なようだった。

 まあ、そんなことはさておいて、カレーが冷めないうちに食べようじゃないか。


 まずは目の前の白い液体を飲んでみよう。

 ゴクッと口の中に流し込む。濃厚でコクのある味わい、酸味があり、そして甘い。飲むヨーグルトだった。

 カレーを食べるのに乳酸飲料はピッタリだ。飲むヨーグルトも相応しい飲み物といえよう。


 それではカレーだ。パッケージを開け、独立したトレーの中に入っているカレールーをご飯の上にかけていく。これだけで、カレーのスパイシーでクセになる香りが周囲に漂う。

 うーん、お腹が減る。早くカレーを食べたい。

 カレールーの中にはジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ、牛肉が入っている。黄金の組み合わせといえよう。

 さらに、小皿のような窪みが三つあり、福神漬け、らっきょう、レーズンの三種の付け合わせが乗っていた。これも気が利いている。


 作業を終え、蓋や不要になったトレーを袋の中にまとめる。

 見ると、夜露津も用意を終えていた。

 二人同時に「いただきます」と声に出し、食べ始める。


 まずは純粋にカレーとご飯の組み合わせを食べたい。少し玉ねぎが入ってしまったが、パクっと口に入れた。

 カレーだ! スパイシーな香り、深く複合的な味わいがどうの……。そんなまどろっこしいことを言う必要はないだろう。温かなカレーがご飯と一緒に口に入ってきているのだ。もう、これ以上のものはないと断言できる。

 これこそが最高の味だ。至高にして究極の料理だ。これ以上のものがあるなら用意してみてほしい。


 ジャガイモもまた美味しい。そのまろやかな味はカレーの刺激を深く受け止め、その豊かな味わいによって、ジャガイモ本来の甘さと満足感が引き出されている。

 にんじんの深い味わいはカレーの中に凛とした存在感があった。ニンジンがあるから飽きることなく、新鮮な気持ちでカレーを味わい続けることができる。

 玉ねぎの甘さも素晴らしい。カレーの根幹を支えているなくてはならない味だ。

 そして、牛肉。そのしっかりした旨味、野性味のある深い香り。これがひと時の幸せを演出してくれる。


 さらに、付け合わせが三種類あるのも嬉しい。

 福神漬けは甘さとともにピリッとした辛さを併せ持ち、まるで世界のすべてを閉じ込めたような存在感だ。シャキシャキした食感が嬉しく、カレーに深い味わいを加えてくれる。

 らっきょうは生命力を感じる瑞々しさがあり、大地の恵みを味わっているようだ。コリコリした歯応えが心地よく、カレーにメリハリを与えてくれた。

 レーズンとともに食べるカレーというのも面白い。甘く、柔らかい、プニプニとした食感。それがカレーに奇妙な化学反応を与え、新たな美味さが味わえるのだ。


 気がついたら、いつの間にか完食していた。ついつい夢中になって食べてしまった。ここが実家だということも忘れていた。


 馬の嘶きと車輪の音が聞こえてきた。ほかの家族が帰ってきたのだろう。

 玄関でガチャガチャという音が鳴り、誰かが家に入ってきている。


 ふと、目の前を見る。夜露津がいるはずの方向だ。

 しかし、そこには夜露津はいなかった。それどころか、懐かしくも見知った場所ではなかった。


 周囲には闇が広がるが、ところどころ古風な燭台が置かれ、蝋燭が僅かな場所のみを照らしている。その明かりから見えるのは、シンプルながらも上品で高級そうな家具や壁だった。その断片的な視覚から、どこか宮殿のような場所にいるように思えてくる。


        ◇


「麓郎よ」


 背後から声が聞こえた。振り向くと、医者のような男がいた。

 眩しいほどに輝く白衣に身を包んでいるが、肌は漆黒のようで、暗闇のような深い色をしている。背が高く、麓郎は顔を見るのに見上げなくてはならなかった。髪は完全に剃られたスキンヘッドで、銀縁の眼鏡をしている。そして、顔は――。

 かおはなかった。


「行くぞ」


 医者は有無を言わさぬ迫力でそう告げると歩き始めた。私は逆らうこともできず、医者について歩いていく。

 しかし、一歩一歩進むごとに、胸騒ぎがざわめいていく。行くべきではないと何かが訴えかけていた。それでも歩みを止めることはできない。


「あ、あなたは?」


 意識を集中し、気をしっかり持つことで、どうにか尋ねることができた。

 医者は立ち止まらずに答える。


「お前はクルーシュチャ方程式を解いただろう」


 クルーシュチャ方程式とは数式であり、邪悪なる神ニャルラトホテプの顕現の一つ。私の父は生涯を賭して挑戦し、そして挫折し、命を絶った。

 そんな方程式を私が解いたというのか。そんな記憶はない。


「記憶が消えても事実は変わらない。お前はクルーシュチャ方程式を解き、そして身に宿したのだ」


 宿した? つまり、私の中に這いよる混沌ニャルラトホテプが存在するのか。

 バカな! なぜ私などにクルーシュチャ方程式が解けるというのか。あれは人間に解けるようなものではないはずだ。


「お前は繰り返したのさ。邪神との、忌むべき、おぞましき、惨憺たる交わりを。禍々しく、冒涜的で退廃的な、残酷な事態を。

 そうして、お前の魂は、イデアは、歪み切った。その歪みこそがクルーシュチャ方程式を解くための鍵だったのだ」


 医者は、いや、ニャルラトホテプはそう言うと大いに笑った。邪悪な、それでいて朗らかな笑い声だった。


 気がつくと、私たちはもはや歩いてはいなかった。その場所はもはや建物ですらなくなっている。

 暗黒の空間の中、私たちは揺蕩たゆたっていた。今まで私たちを包んでいた肉体も消え去っている。

 私たちは、存在だけとなり目的地へ向けて進んでいた。


 しかし、どこへ進んでいるのか。

 周囲には奇妙な踊りを続ける異形のもの、奇怪な楽器を鳴らし続けるおぞましい怪物が私たちと同じように揺蕩い、無限の空間をただ流されていく。


「決まっている。白痴にして盲目の魔王、原始の混沌アザトホートの御前だ」


 ニャルラトホテプの言葉に反応したのか、巨大な暗黒が出現した。その暗黒は絶えず沸騰し、その形状を瞬く間に変える。その沸騰する勢いにより、存在でしかない私たちも吹き飛ばされそうになっていた。


 クトゥルフお母さんを始めとする旧支配者、ノーデンスら旧神。これらの神々とは一線を画し、宇宙の創造そのものに関わるとされるのが、外なる神だ。

 アザトホースは外なる神々の主神でありながら、知性を持たない暗愚な神である。というのも、アザトホートは常に眠っているのだ。そして、アザトホートが見ている夢こそが「現実」と呼ばれる世界であり、アザトホートが目覚める時、「現実」は崩壊する。


 そのあまりに壮大で、圧倒的な存在感に、私は気圧されていた。そして、胸騒ぎと嫌悪感と絶望とが最大限にうねりを上げて私の精神を圧迫する。嫌な予感の正体はこのことだったのだ。のものに謁見する恐怖が私を実家から遠ざけ、暗澹たる気分にさせていたのだろう。

 しかし、どんなに留まりたいと願っても、私は歩みを止めることができない。


「お前はヨグ=ソトホースに何を願った?」


 ニャルラトホテプが問いかける。

 私がヨグ=ソトホースに何かを願うことがあっただろうか。そんなことは記憶になかった。


「クトゥルフお母さん食堂の全メニューを食べたい。そう願ったんだ」


 それは随分と大それたお願いだ。


「その通り。だから、行くしかない」


 私はアザトホートの核へと突き進んでいく。

 この不安は、畏れはなんだろう。わからない

 この希望は、高揚はなんだろう。食欲だ。クトゥルフお母さん食堂のすべてを食べてみたい。その一念だった。

 理由のわからない恐怖は食欲に駆逐された。


 私は混沌の核に呑まれていく。私はこのまま混沌の海へと帰っていくのだろうか。

 だが、奇妙なことが起きた。私は呑まれず、混沌の核に引っ掛かった。実におかしな表現だが。


 そのことが刺激を与えたのか、アザトホートは目覚める。かに思えたが、そんな素振りを見せただけで、すぐにまた眠りにつく。

 アザトホートはまどろんでいた。眠りと目覚めの中間であり、覚醒と昏睡を繰り返している。その不確定な意識に私は捕らえられ、その中を揺蕩う存在となっていた。


「麓郎よ、お前はアザトホートのまどろみの中、世界の誕生と崩壊の狭間をさまよい続けるのだ。そのため、お前の生命も不明瞭なものとなった。無限の中で生き、無限の中で死ぬ、それを繰り返すのだ」


 それはおかしい。私が歪んだのは繰り返したためではなかったのか。ならば、私は最初から繰り返していたのではないのか。


「所詮、三次元の知覚しか持たないもの。時間を過去から未来に流れていくものとしか認識できないのでは、理解することは叶わない」


 私は混沌の核の中で、すべての崩壊とともに消えていく。そして、まどろみの中、また別の生を得るのだ。

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