第四十七話 シュウマイ弁当

 私は走っていた。

 そのことに深い意味はない。ただ、浅い理由ならあった。


 外回りを終えて電車に乗ろうとした私は、ふと知り合いが車両の中にいることに気づいた。

 いつだったか、短めの記事を量産する仕事を回してくれた取引先のおばちゃんだ。ありがたい仕事をくれる恩義のある人物だが、私はその車両に乗ることを躊躇した。乗ってしまったが最後、おばちゃんと二人で会話しなくてはいけない。なんとなく気まずいものがあった。


「あ、思い出した!」


 私は不自然に声を上げ、くるりと振り返って走り始めた。

 もう電車には乗れない。改札を抜けて地上に出る。このまま走って帰ろう。


 そうして走っていると、チャットで連絡が来ていた。

 先ほどのおばちゃんと同じ会社の編集さんからで、わりと仲良くしている人からだ。

 なんでも、私がおばちゃんの顔を見て逃げ出したことを、おばちゃんが怒っているらしい。


 うっ……。もう伝わっているのか。


「あの人ヒスらせると面倒なんだからさあ。勘弁してくれよ」


 チャットで来ていた文面を読み、謝罪の連絡をする。そして、おばちゃんにも近いうちに謝りに行くしかないだろう。

 顔を見て逃げたのではなく、用事を思い出して戻ったんだ。そういうごまかしを強行するしかない。


 そのことはまた後で考えるとして、今のところはルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に行くことにしよう。

 そうと決めると、私はそのまま駆け続ける。


        ◇


 ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。ずっと走り続けていたので、息も絶え絶えだ。

「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。どうしたの、息を切らせて?」

 クトゥルフお母さんに私の呼吸が乱れていることを疑問に思われてしまう。

「なんとなく、ジョギングして帰ってきたんだ」

 とりあえず、そう言っておく。

「麓郎ちゃんは元気ねぇ。でも、あまり無理しないでね」

 そう言って、クトゥルフお母さんは呆れるように笑った。

 ついクトゥルフお母さんの顔を見つめる。彼女の鼻は高く、鼻筋がスーッと通っており、どこか魔女のような印象を受ける美しいものだった。


「今日はお弁当がいいかなあ」

 走ったせいかお腹が減っていた。クトゥルフお母さんにお弁当のコーナーに案内してもらう。

 一口にお弁当と言っても、和風もあれば洋風もあり、中華風のものもある。焼き魚のお弁当は美味しそうだし、ハンバーグやカツレツのお弁当も捨てがたい。そんな中にシュウマイ弁当があった。

「これだ」

 思わず、声が漏れる。典型的なお弁当とは何か。それを考えると、シュウマイ弁当はその一つと言っていいだろう。お弁当といえばシュウマイ、シュウマイといえばお弁当なのだ。


「うふふ、シュウマイ弁当も美味しいのよ。シュウマイで使っているお肉は結構珍しい動物のお肉なんだからぁ」

 クトゥルフお母さんが後押ししてくれる。

 そう言われると、シュウマイを食べるのが楽しみになってくる。私はウキウキした気分でレジへと進んでいった。


        ◇


 さあ、お酒を飲もう。

 ずっと走りっぱなしで疲れているので爽やかな酒がいいだろう。とはいえ、人間関係のトラブルがあった時には強い酒を飲んでおきたい。


 そこで泡盛を選ぶ。泡盛は沖縄の酒だけあって青い海のような爽やかさを持つお酒だ。焼酎に近いお酒なのでアルコールも強い。

 今回は「うみそら」という銘柄にした。名前も清々しくていい感じだ。


 泡盛を飲む。アルコールの味わいが強いが、米のような甘さと香りが後から来る。

 やはり、沖縄の酒だ。海のような深い味わいと爽快感を持っている。飲んでいるだけで沖縄の美しい海に佇んでいるような気分になってくる。透けるような海の青さ、どこまでも続く空の蒼さ。酒を飲むだけで、こんな気分が味わえるのだ。


 製造場所の表記が目に入った。鹿児島県姶良市とある。そう、沖縄には鹿児島もあるんだなあ。

 私はなんだか大らかになった気分で、沖縄の酒を心行くまで味わっていく。


 さあ、シュウマイ弁当を食べよう。

 この弁当をどう味わい、どう食べ進めるか。それが私の今後の弁当べんとうびととしての在り方を決めていくであろう。幾多の弁当食べ人がシュウマイ弁当を喰らい、そして散っていったといわれる。シュウマイ弁当とはまさに試金石なのだ。


 弁当を開く。シュウマイの数は5個。さらに唐揚げが2個あり、卵焼き、カマボコ、魚の照り焼き、タケノコの煮物、隅っこに昆布と紅しょうが、中央に杏子あんず。おかずはこの構成だ。ご飯は俵上になっており、中央に青い梅干しが配置されている。

 まさしく王道の配置であった。


 まずはからしを手に取る。そして、シュウマイの一つ一つにからしを乗せていった。

 次に醤油。かけるべきはどれであろうか。まずはシュウマイ、それに卵焼きとカマボコ。魚にもかけるか、唐揚げは、タケノコはどうだ? 迷いが生じるがそれはやめておく。


 初手。シュウマイ弁当はシュウマイに始まり、シュウマイに終わる。手を付けるべきはシュウマイであるべきだ。

 シュウマイを食べる。皮に包まれた肉の味わいが優しい。クトゥルフお母さんが謎めいたことを言っていたが、この肉は何だろう。この深い旨味は鶏ではないだろう。豚肉のようなバランスの良い味わいを感じる。その豊かな旨味が噛みしめるごとに伝わってきた。

 からしのピリリとした刺激も利いており、ご飯を口にすると、より一層の美味しさを感じざるを得ない。いや、これは美味いのよ。


 肉を食べたなら次は野菜だ。タケノコの煮物を食べる。

 シャキシャキした食感が嬉しいばかりか、しっかりと味付けがされているので、隙のない美味しさだ。

 タケノコの煮物はたくさんあるので、これからも口直しや食休めに使うことにする。この弁当において最も重要な役目をしているのはこのタケノコかもしれない。


 さらに昆布と紅ショウガを食べ、ご飯を減らす算段に出る。

 昆布は香りに癖があるが、コリコリした食感とともに奥深い旨味が感じられる。塩味もいい塩梅なので、ご飯との相性もいい。

 紅シュウガは酸味と刺激のバランスが心地いい。シャキシャキした食感はいいアクセントになり、リフレッシュ感がある。

 昆布と紅ショウガを一緒に食べることで塩気と酸味が同時に味わえ、ご飯を食べるのにいい感じだ。


 唐揚げを食べよう。

 お弁当に入れられるだけあって、冷めてもいい味だった。

 衣に染みた油が衣の味付けと相性がいい。当然、噛みしめると肉汁が溢れ出し、淡白だがしっかりした旨味が感じられる。

 そして、ちょっとくどくなった口をタケノコの煮物でリフレッシュさせる。


 シュウマイをもう一つ食べる。肉汁のしたたるシュウマイはやはり美味しい。ご飯も進む。

 続いてはカマボコを食べる。意外と肉厚なカマボコからは、鱈の香りがする。カマボコらしい食感は期待を裏切らず、ご飯のおかずにしてもピッタリだ。

 次は魚の照り焼きだ。これはマグロだろうか。残っていた醤油を垂らして、魚の香りと味わいとともに、ご飯を食べる。醤油×魚×ご飯。これより素晴らしい組み合わせがこの世のどこにあるだろうか。


 もう一度、シュウマイ。シュウマイの肉の旨味がご飯に合う。ご飯が進む。

 ここで梅干しだ。カリカリっとした食感に、酸っぱくてしょっぱい味わいがご飯に手を伸ばさせる。同時に梅の香りの爽やかさもあり、肉と魚で脂っこくなっていた口の中をリフレッシュしてくれる。

 それに、卵焼き。出汁が利いたまろやかな味わいだが、醤油もかけて先鋭化させている。これはご飯にも合うのだ。


 こうして、シュウマイを軸におかずを消費していく。

 このバランス感覚はどうだい。ギャラリーがいたら喝采が湧いていることだろう。

 そう思うものの、バランスがいいばかりではパフォーマンスとしてどうだろう。そんな不安も湧いてくる。

 いや、これはこれでいいのだ。私は自分に言い聞かせた。


 最後に残ったのは杏子である。杏子はデザートなのだ。

 私は杏子を箸でつまみ、口に入れる。甘く酸っぱい、シャクシャクした感覚が口いっぱいに広がっていく。からしと醤油がついていたので、辛しょっぱい感覚もあったが、それはご愛嬌というものだ。


 こうして、私はシュウマイ弁当を食べ切るという偉業を成し遂げることができた。


        ◇


 ドンドンドン


 ドアを叩く音が聞こえていた。こんな夜分に誰だ? そう思うものの、私は私で苦しんでいた。


 私の胃腸から何かが食道を通って這い上がってきている。そんな感覚があった。

 ゆっくりと小動物がにじり寄っている。吐き出すこともえづくこともできず、そんな感覚だけがジリジリと続いているのだ。


 ドアからはガチャガチャという音が鳴り、やがてピッキングされたのか、扉が開いて、何者かが入ってくる。

 そんな中、私の体内を這い寄るものは私の喉の先にまで達していた。むせ返るような酸っぱさと異臭とともに、奇怪なものが口の中から出てきている。


 それはネズミのようだった。ただ、顔は人間のようであり、前脚も人間の手のようだった。

 そのネズミのような生物は玄関に向かって走っていく。そして、玄関の方向からは、侵入してきた何者かが現れていた。ネズミのような生物はその者の身体を登り、肩に乗っかった。


 このネズミのような生物はブラウン・ジェンキンだろう。

 ブラウン・ジェンキンは魔女の使い魔とされる。あるいは、魔女を探し、近寄っていく、そんな生物なのかもしれない。

 そのブラウン・ジェンキンを懐かせているということは、現れたのは魔女なのだろう。


 魔女の顔が明かりに晒される。それは見知った顔だった。

 つい先ほど、電車で鉢合わせしたおばちゃんだ。おばちゃんは私を怒りの形相で見ていた。


「麓郎、よくも私を虚仮にしてくれたね。

 私は宇宙生物を幾度となく殺害した大魔女だよ。ミ=ゴもシャンも宇宙店主も、私にとっては軽く捻れる相手さ。あんたみたいなのは絶望に震わせて、深い後悔を与えてやらなくちゃね」


 その言葉には迫力があった。私はそれに気圧される。

 しかし、私にも言い分はあるのだ。


「い、いや、あの時はたまたま用事を思い出して戻っただけで……」


「うそおっしゃい!」


 その言い訳は一瞬で吹き飛ばされた。


「麓郎、あんたは数列が苦手だったね。これでも見て怯えるがいい」


 そう言うと、羽根の生えた奇妙なペンを取り出すと文字を書き始めた。

 それは青白く発光する文字となって、空気中に浮かび出した。

 これは、まさかクルーシュチャ方程式だろうか。


 数式でありながら、ニャルラトホテプの顕現そのものである方程式だ。

 かつて、私の父は生涯を賭けて、この方程式を解こうとし、そして、絶望のままに諦めた過去があるという。


 だというのに、私はその数式を見て、解がわかるように思えた。

 しかし、それを認めてはいけない。解ってはいけないんだ。


 私は両腕の拳を握ると、親指を立てた。そして、勢いをつけて二つの親指を両目に突き立てる。

 眼球がグシャアっと潰れて、両目から血が流れた。

 これで、数式を見なくて済むはずだ。


 しかし、網膜に青白い数式が浮かんでくる。

 眼球は潰れているというのに、数式は目から離れないのだ。

 解が、解が浮かんできてしまう!


「うわぁああぁぁぁあああぁぁあ!」


 私は叫び声を上げて走りだしていた。家の外に飛び出し、無我夢中で走る。

 ここはどこだろう。わからないままに、夢中で走り続けていた。


 ドガッ


 私は車に轢かれた。鈍い感触とともに、全身の骨が折れ、頭がへこみ、脳が砕けていく。

 この重い感触はダンプカーか何かだろうか。


 良かった、私はクルーシュチャ方程式を解いていない。

 解など……解など……、わかっていないのだ。

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