第四十六話 ボルシチ

 なんだか、少しやるせない気分だ。


 少し前に校正とリライトの仕事を請け負っていた。その対象は小説であったのだが、それを書いたのはすでに自殺してしまった少女だった。

 これが、とても面白い小説なのである。破滅的でありながら希望があり、波乱万丈な物語からは、少女たちの繊細な感情が表現されている。これだけの才能が自分にあったなら、私は作家を目指していただろう。

 そして、それが悲しかった。これを書いた人はもうこの世にはいないのだ。


 だが、なるべくしてなったのかもしれない、というのも小説を読んだ感想だった。

 その小説群は死を望む感情が生々しく描かれていた。それは、読んでいると、その思いを肯定したくなるくらい、切実に感じられる。こんなものを書いていたら、登場人物に思考が引っ張られ、死ぬことが正しいことだと考えてしまうのも頷けるのだ。

 けれど、本当に死んでしまっては駄目だよ。人は死んでしまったら、もう次はないのだから。


 この本の最後には、あとがきが載せられる。それはこの小説を書いた本人のものではなく、彼女の母親のものだった。

 短い原稿だったし、上手い文章だとは到底言えないかもしれない。だけど、母としての哀しみが伝わってくる内容だった。

 私はこのあとがきを上手く直せただろうか。


 そんなことを思っていると、担当をしていた編集者さんから連絡があった。


「麓郎さんに直してもらったあとがきを読んで、『なんとかなりましたね』って笑っていましたよ」


 その言葉を聞いて救われた気分がした。だが、電話を切った後、そう思ったことに呆然とする。

 一体、何を救うことができたんだろう。何も救ってはいない。

 失われた命を取り戻すことなんて誰にもできないのだ。


 とはいえ、赤の他人に過ぎない私がこのことを引き摺っているのも、かえって失礼というものだろう。

 気分を一新するべく、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に行くことにした。


        ◇


 ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。

「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。いつもお仕事お疲れ様ねぇ」

 クトゥルフお母さんの笑顔が飛び込んでくる。なぜだか、私のやるせない気分に染み入ってくるような、心に温かさを感じさせてくれる微笑みだった。

 彼女の笑みを目にするだけで、自分のやったことは無駄ではなかった、そんな気持ちになれる。


 なぜだか、目から涙が溢れそうになった。悲しくも苦しくもないのに。

 感情のままに涙がこぼれてくるのをどうにか堪え、視線をそらし、平静を装う。


「今日は何かお薦め、あるかな」

 いつも通りの声色で尋ねた。つもりだった。なぜか、声は上ずり、どこか震えたようなものになる。

 それでも、クトゥルフお母さんの笑顔は、それを優しく受け止めてくれる。

「うふふ、それなのよぉ。今日からロシア料理のコーナーをやってるんだけど、見てみる?」

 私の心はクトゥルフお母さんによって、救われているんだなあ、そう思う。

 それならば、私の仕事は多少なりとも、あのお母さんの心を救うことができたのだろうか。そんなことを思うのは自意識過剰かもしれないが、そうだとしても、今日くらいはそう思い込んでもいいだろう。


 私はクトゥルフお母さんに薦められるまま、ロシア料理のコーナーに来ていた。

 ロシア料理は好きだ。ヨーロッパと中華、どちらの影響も受けているような料理があって面白く、それでいて独自色もある。

 ぺリミニなんて、まんま餃子なのだが、ヨーロッパ風の味付けが為されている。ピロシキも欧州風中華まんといえるだろう。

 とはいえ、まずは手堅く、典型的なロシア料理をいただこう。


「今日はボルシチにしようかな」

 私が料理を選ぶと、クトゥルフお母さんはニコニコしたまま、頷いた。

 ボルシチはロシアのスープというシチューというか、そんな感じの食べ物だ。

「それは調理担当のおじさんの自信作なのよ。食材も月から獲ってきたばかりなのよ」

 クトゥルフお母さんも太鼓判のようだ。やはり、こういう時は王道に限る。

 私は自信を持ってレジへと進んだ。


        ◇


 さて、気分を変えてお酒を飲もう。

 ボルシチは味付けの濃い肉料理なので、赤ワインが合うという意見もあるだろう。しかし、敢えて酸味に酸味をぶつけ、白ワインで立ち向かうのも一興かもしれない。


 ピッタリなお酒がある。オレンジワインがうちにはあった。オレンジワインのオレンジは蜜柑オレンジのことではない。

 白ワインと赤ワインの中間で、色がオレンジになるため、そう呼ばれている。


 ワインがよくわからない私ではあるが、さすがにこの酒はわかるはずだ。

 オレンジワインは白ワインの素材を赤ワインの工程で醸造したワインのことで、両者の特徴を併せ持っているという。


 グラスにオレンジワインを注ぐ。まるでビールのような琥珀色をしている。これに泡を足したら、ビールと間違えて飲む人もいそうだ。

 そして、一口飲む。白ワインのような爽やかな味わいと柑橘系の酸っぱさがあり、後を引く渋味は赤ワインに似ていた。

 これはわかりやすい。わかる、私にもワインがわかるぞ。


 ボルシチが温まったので、そろそろ食べよう。

 クトゥルフお母さん食堂のボルシチは赤みが濃く、月に広がる湖を連想させた。豊かさとともに、どこか静謐なものを感じさせる。それでいてグツグツと煮えたぎっているかのように熱量とエネルギーに溢れていた。

 そこに付属品であるサワークリームを落とした。その白い固まりは真っ赤なボルシチと溶け合って徐々に互いの色を侵食していく。


 スプーンで一掬い、口に入れた。トマトの酸味と旨味が前面に出ている。しかし、次第に、野菜や牛肉の深みを凝縮した味わいもわかってくる。この濃い味わいは、酒がほしくなるというものだ。

 オレンジワインをさらに飲み、酸っぱくも爽やかな飲み物が喉を潤すのを楽しむ。


 ボルシチといえば赤カブテーブルビートだ。逆に言えば、赤カブさえ入っていればボルシチになる。そのはずだ。

 スープとともに赤カブを味わう。柔らかく優しい噛み心地だが、ボルシチと合わさることで、濃厚なスープの具材に早変わりする。上品でありながら、濃厚でもあるという、相反する感覚が面白い。


 にんじんも贅沢なものに感じられる。柔らかく煮込まれており、芳醇な甘さを強く感じる。それでいて、にんじん本来の香りも健在で、食べていると栄養を取り込んでいるのだという実感があった。

 ジャガイモはホクホクとして美味しい。ボルシチの酸味と濃厚な味わいが甘さを引き立て、ジャガイモのコクというものが感じられた。


 そして、ついに牛肉だ。牛肉も柔らかく煮詰められていて、少し噛んだだけでホロホロと崩れていく。それでいて肉らしいワイルドな旨味と重厚な香りが確かにあった。

 まさしく、これは牛だ。牛とは美味しいものである。そんな絶対の法則を今回も再確認してしまった。


 さらに、先ほどからサワークリームがボルシチと溶け合っている。私はその溶け合う部分を掬い、口に運ぶ。ヨーグルトのようなまろやかな酸味が、ボルシチの濃厚なトマト風味の酸味と混ざり合い、また新たな美味しさが生まれている。

 トマトと乳製品の組み合わせほど相性のいいものはない。私はサワークリームを混ぜ合わせ、ボルシチを新たな段階に進ませる。


 味の変わったボルシチでそれぞれの具材を味わうのは楽しい。

 しかし、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂のボルシチはそれだけでは終わらない。なんかのパンも付属している。


 私はなんかのパンをボルシチに浸して食べる。

 美味い! パンの味わいもさることながら、このボルシチがいかにパンと合うものだったかと思い知らされた。さらに食べ進めると、パンの中からチーズが溢れてきて、そのチーズがまたボルシチと合うのだ。

 これは最高だぞ。私は一心不乱にボルシチを平らげていった。


        ◇


 月が綺麗だなあ。

 酔っぱらって気分が高揚し、なんとなく外に出ていた。空を見上げると、美しい満月だった。


 しかし、月を見た瞬間に私の身体の中の何かが反応する。その反応にさらに反応するかのように月が赤く輝き始めた。

 ぞくりと悪寒が走る。何かとんでもないことをしてしまったのではないか、そんな予感がしてならなかった。


 いや、まさかな。何かの思い過ごしだろう。

 私は目を閉じて頬をパンパンと叩く。変なことは考えないようにしよう。

 そうして、目を開けて、再び月を見る。思った以上に月は赤かった。それに、月が大きくなっているような……。


 目をこすって、また月を見た。勘違いではない、どんどん月が大きくなってきている。いや、これは月が近づいてきているのだ。


 私が思い出したのは、黒い湖の主にして月の神、ムノムクァだった。

 聾啞にして白き月の神レースと関連付けられることがあり、実際には全く異なる存在なのだが、二柱は信者をシェアする関係となり、その勢力を高めたという。

 ムノムクァは月の核にあるウボスの湖を居城とするが、アザトースの落とし子との戦いで力を失ったとされる。

 スーム=ハーの両生人類や無名都市の爬虫人類、さらにドリームランドの月の怪物ムーン=ビーストから信仰されていた。


 そんなムノムクァだが、すでに月を地球に落とすことなど造作もないくらいに力を取り戻したというのだろうか。

 それとも、私の食べたボルシチがムノムクァそのものであり、私の体内で力を得たとでもいうのか。

 荒唐無稽な発想に自分でも苦笑してしまうが、しかし、まったく笑えないくらいに月は近づいてきていた。


 ぶわぁっ


 私の体内から何者かが現れている。

 それは偶蹄類のような筋肉質な印象も受けるが、人間のように二本の足を持っていた。頭部は蜥蜴のようであり、頭にはカブの葉を思わせるような触手が林立していた。その触手は王冠のようにも見える。

 ムノムクァだろうか。そのものは月に向かって飛んでいった。


 だが、それがムノムクァだろうとなかろうと、関係ない。

 もはや私には月は見えなかった。真っ赤な巨大なものがただ私の見える範囲のすべてを圧し潰していたのである。

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