第五十三話 手作りのお弁当

 山に来ていた。

 といっても本格的なところではなく、ちょっとしたピクニックで来るようなスポットだ。ほんの十数分ほど歩けば、山頂というか、開けた場所に出て、ちょっとした展望が眺められる。

 ふもとから続く街並みは豆粒ほどの大きさに見え、遠景として山々や海へと広がっていた。運がいいと富士山が見れることもあるのだが、その辺りは曇っていることが多く、残念ながら今日も見えていない。


「うふふ、麓郎くん、いい場所を知っているのねぇ」


 クトゥルフお母さんはその景観に感嘆の声を上げ、喜んでくれていた。

 ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂の案内役であるクトゥルフお母さんはルリエーマートの全店舗で遍在しているが、今日は私に付き合ってピクニックに来てくれている。

 こんな嬉しいことがあっていいのだろうか。二人きりで草木のしげる林道を歩き、二人きりで美しい街並みを望む風景を眺めている。


 私たちは人気のない草原を見つけると、その場に荷物を置き、シートを広げた。

「ねぇ、麓郎くん。お弁当を作ってきたの。食べてくれる?」

 思いもかけないことだった。クトゥルフお母さんが私のためにお弁当を作ってくれるだなんて。


「いつも料理しているわけじゃないから、上手くできているかはわからないけど……」

 クトゥルフお母さんはその表情から自信のなさが見て取れた。そんな表情も愛おしいと思える。

「食べます! 食べますよ! クトゥルフお母さんの手料理が食べれるなんて、すごい嬉しいです!」

 落ち着いて返事したつもりだったが、私の喉からは上擦った声が出ていた。それに、なぜか言葉遣いが敬語に戻ってしまっている。


「うふふ、お口に合えばいいんだけど」

 そう言って微笑んだクトゥルフお母さんの笑顔が眩しかった。


        ◇


 クトゥルフお母さんがバッグからお弁当箱を取り出した。ハートの形をしたピンク色のお弁当箱だ。

 普段使いのものとしては派手に思えるが、二人きりでいる時に出てきたため、なんだかドキドキしてしまう。

 つい、周囲を見回してみるが、辺りには恋人同士しかいないように感じる。ここはそういう場所だったのか。


 続いて、クトゥルフお母さんは瓶ビールと使い捨てのクリアコップを取り出す。

「麓郎くん、飲むでしょ?」

 私が頷くと、クトゥルフお母さんは慎重な手つきでコップにビールを注いだ。ビールと泡が7:3のバランスになっており、黄金比というべき美しさだった。

 二人分のビールが注がれると、お互いのグラスを合わせる。

「乾杯」

 その言葉と共に、喉元にビールを流し込んだ。炭酸の刺激が心地よく、渋い苦みが爽やかなものに感じられる。太陽の下で飲むビールの何と美味しいことだろう。

 ましてや、クトゥルフお母さんと一緒に飲んでいるのだ。今日のお酒は格別だった。


 お弁当箱を開ける。二段組になっており、一段目にはおかずが、二段目にはおにぎりとデザートが入っている。

「召し上がれ」

 満面の笑みを浮かべるクトゥルフお母さんにドギマギしつつも、お弁当に手を付け始めた。


 まず目についたのは卵焼きだ。最初はこれから食べよう。

 柔らかな卵焼きで、口に入れると、とろけるよう。出汁の旨味と深い香りが感じられるが、同時に甘味も感じる。出汁と砂糖の両方が入っているのだろうか。

 だし巻き卵と甘い卵焼きの中間のような味わいで、どちらつかずのような印象もある。だが、クトゥルフお母さんがどちらの味付けがいいか迷いながら作ってくれたのかと思うと、食べていて感慨深い味わいだった。その気遣いが嬉しい。


 次に唐揚げを食べてみる。

 衣が少なく、カリカリというよりは、しっとりとした印象のある唐揚げだった。頬張ってみると、ジューシーでありながら、複雑な味付けを感じることができる。しっかりと下味がついているのだろう。醤油とゴマ油の食欲を掻き立てる香ばしさ、料理酒や胡椒の豊かな香り、それに生姜とにんにくが多層的な風味を演出していた。お肉も美味しく、鶏のさっぱりとした味わいともに赤身肉の引き締まるような旨味も感じ取れる。

 時間をかけなければ、こんな味わいを出すことはできないだろう。クトゥルフお母さんが一生懸命料理している姿が想像できた。お店で出される唐揚げとは違うものだが、こういう家庭によって味が変わる料理というのも魅力的だ。


 唐揚げでご飯がほしくなってきた。おにぎりに手を伸ばす。唐揚げとともにご飯を消費した。

 おにぎりはふっくらとしたご飯の美味しさを感じられる。ただ、塩分は少し効きすぎかもしれない。これも、クトゥルフお母さんの試行錯誤を感じられるものだ。

 食べ進めると、鮭の塩焼きに行き当たる。これは塩鮭かな。海の旨味と塩味が凝縮されており、思わずおにぎりを一気に食べ尽くしてしまった。


 ここで少し落ち着きたい。海老とブロッコリーのサラダに手を付ける。

 マヨネーズの味わいが新鮮だ。これは市販のマヨネーズを使っているわけではないのかもしれない。少しバランスが悪いようにも思えるが、味わったことのないマヨネーズは真新しい感動をくれる。

 そして、海老のプリプリと弾ける旨味とブロッコリーの深い森のような食感と香り。それが特製のマヨネーズに包まれて、まったりとしたコクのあるサラダへと変貌しているのだ。


 もう一つのメインディッシュ。牡蠣のソテーだ。

 バターのまろやかな香りと、牡蠣の旨味たっぷりでミルキーな食感は実に相性がいい。醤油やみりんでの味付けも利いていて、やはり、おにぎりに手が伸びる。

 このおにぎりには大粒の梅干しが入っていた。酸味が口いっぱいに広がり、爽やかな旨味が刺激的である。梅と紫蘇の特徴的な香りもまた食欲をそそるものだ。ご飯がどんどん欲しくなってしまう。このおにぎりもまた、すぐに食べ終わった。

 この梅干しも市販品ではないように感じる。これも、一つ一つクトゥルフお母さんが干していたのだろうか。


 気づいたら、お弁当の中身はほとんどがなくなっていた。

 残っているのはデザートのリンゴだ。リンゴはウサギの形に切られていた。リンゴには星形の模様の付いた串が刺してあり、直接触れずに食べられるようになっている。

 シャリシャリとした食感。甘酸っぱく、爽やかな風味を味わう。ウサギの耳を模した皮の部分も、また違った食感と香りがあり、実と一緒に食べるのもアリだなと感じられた。


「うふふ、夢中になって食べてくれて、ありがとう。美味しかったぁ?」


        ◇


 クトゥルフお母さんはニコニコした表情で私が食べる様子を見ていた。気恥ずかしい気持ちもあるが、彼女の笑顔を見ていると感情が湧き立ってくるようだ。

 もう言うしかないだろう。そう思った。だが、言葉は出てこない。何度も反芻した言葉のはずなのに、口に出そうと思うと恐怖に支配され、押し黙ってしまう。

 そんな私をクトゥルフお母さんはどう思っているのだろうか。キョトンとした表情にも見える。沈黙が続いていた。


「好きです! 付き合ってください」


 沈黙に耐え切れなかったからだが、ついに言うことができた。

 クトゥルフお母さんはどう思っているんだろう。思わずつぶってしまった目は開くことができなかった。


「え? どういうこと? あ、えと、つまり……。ええぇっ! あ、あの、その、えーと、えへ。えへへ」


 目を開けると、困っているような、照れているような、締まりのない表情になったクトゥルフお母さんが目に入る。

 これはどういうことなのだろうか。


「あ、あの、嬉しい、麓郎くん。私たち両想いだったのね。私もあなた人類が好きよ」


 クトゥルフお母さんがはにかむように返事をした。クトゥルフお母さんと両想いだった! なんて嬉しいことだろう。

 あれ? でも、今、主語が異様に大きくなかったか……。


 うっとりとした表情のクトゥルフお母さんの顔が近づいてきていた。

 私の首筋に彼女の滑らかな唇が吸い付いてくる。その艶めかしい感触に、思わず「うっ」と声が漏れた。次の瞬間、チクッとした感触が走る。クトゥルフお母さんはその鋭利な牙で、私の首を噛んでいた。

 それと同時に私の血流のすべてが彼女の牙に吸い込まれていく。私の身体がどんどん干からびていくのを感じていた。力がどんどん失われていく。


 最後の体力を振り絞り、私は周囲を見渡した。そして、気づく。この場にいるのは恋人同士ばかりだと思っていたが、その相手は全員クトゥルフお母さんであったのだ。

 クトゥルフお母さんは遍在する。目に見えている範囲だけでなく、世界中に。もしかしたら、現在のすべての人類はクトゥルフお母さんとデートしているのかもしれない。クトゥルフお母さんに血を吸われているのかもしれない。


 血を吸われるのと同時に、クトゥルフお母さんの触手が私の全身を巡る。触手は私の肉体を喰らい尽くしていく。それは、肉のすべてを、細胞のすべてを飲み込むように、一つ一つを丁寧に、確実に食らい付いて、物凄い速さで消化していった。


 血も肉も失った私の身体はクトゥルフお母さんに抱きかかえられつつも、だらりと垂れ下がる。

 触手はなおも蠢き続け、残された骨を粉砕し、砕け散った骨に喰らいついていった。そして、クトゥルフお母さんは私の内臓の一つ一つを丁寧にもぎ取ると、味わうかのようにゆっくりと噛み砕き、飲み込んでいく。


 これは待ち望んだ光景だった。これは嬉しいはずの場面だった。

 だというのに、なぜなんだろう、この虚しさは。言いしようのない、哀しさは。

 私はこうしてクトゥルフお母さんに食い尽くされ、すべてを失うことを期待していたはずなのに。


 周囲でも同じように、食い尽くされていく人々の様子が見て取れた。

 ああ、そうなんだ。私は特別な誰かではなく……。


 なぜだか、涙が流れてきた。これは嬉しさの涙ではない。


 残された私の頭をクトゥルフお母さんの鉤爪が掴み、その口元へと運ぶ。生気はないが、それでもまだ意識はあった。

 クトゥルフお母さんの牙と舌が私に近づいてくる。


        ◇


 これは走馬灯なのだろうか。記憶が甦ってくる。


 私は半魚人のような奇怪なものたちに首根っこを掴まれ、海に沈められていた。

 自分自身の肉体も、半魚の姿に変異しかけているように思える。


 馬のような鳥のような奇妙な生物――シャンタク鳥だろうか――に乗せられ、暗澹たる盲目にして白痴の魔王に謁見していた。その謁見を待たず、私の精神は崩壊し、発狂の末に死に果てている。


 髪の毛がなく、頭の尖った亜人類が私の元に群がっていた。これはチョーチョー人だ。チョーチョー人たちは私に魔術をかけ、その強力な力によって、私の頭を爆発させる。


 私の肉体が空気に溶けるように粉砕されていた。それは、私の精神が肉体を離れていたからだ。

 ハイドラにより精神アストラル世界サイドに引き込まれ、肉体は粉々になり、精神もまたハイドラの精神体に溶かされていく。


 月の怪物ムーン=ビーストに捕まった私はガレー船で強制労働させられていた。来る日も来る日もオールを漕ぎ、肉体を疲弊させられる。

 それは労働基準法など、まったく無視したことであった。憤りの中で私は体力が尽き、月の怪物たちに宇宙に捨てられる。そのまま、地球の大気圏に到達すると、私の肉体は燃え、その存在を搔き消した。


 巨大な蛞蝓なめくじのような神、グラ―キによって支配され、ゾンビのような存在に変えられていた。私はグラ―キの望むままに、グラ―キの栄養とするため、動物や人間を捕まえている。そして、数十年の月日が経ち、経年により「緑の崩壊」が始まった。太陽光で肉体が崩壊するようになるのだ。

 しかし、私はそんなことは気にせず、太陽の元へ赴き、そのまま砕け散った。


 私の身体から樹木が生い茂っている。それはヴルトゥームであった。ヴルトゥームは私の肉体と臓器、骨、血液、そのすべてを糧として、樹木へと成長していた。

 樹木は妖精のような赤い花を咲かし、花は真っ赤な実を結ぶ。その果実は先ほど食べたウサギ型に切られたリンゴによく似ていた。


 これらの記憶は一体何なのだろうか。まったく覚えのないことばかりであった。

 それでも、確かな実感として思い出されるのだ。まるで、私が何度も死に、何度も殺され続けたかのように。


 私は地球の記憶となって生き続けていた。そんな光景が浮かんでくる。自存する源たるウボ=サスラと一体化したからだ。

 その記憶が原初の地球で生命を生み出し、進化する生命の起点となった。

 そうであるならば、地球のすべての生物は私の記憶によって生み出されたものであり、私自身でもある。


 地球上のすべての人類がクトゥルフお母さんによって食べられている。

 つまり、人類が食べられているのだ。


――ソウダ、私ハアナタニトッテ特別ナ……


 私の脳がクトゥルフお母さんに噛み砕かれていくのを感じていた。その激しい痛みは悦びに、その深い恐怖は昂揚と期待へと変わる。



 この日、すべての人類が死滅した。

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クトゥルフお母さん食堂 ニャルさま @nyar-sama

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