第十九話 プリン
皆さんはDTPなるものを知っているだろうか。有史以前には写真植字といって一文字ずつ文字を植って版下を作っていたという。それをデジタルで行えるようにしたものがDTPである。正式名称はデスクトップパブリッシングというらしいが、そんなことは誰も知らないので覚える必要はない。
日本においてDTPといえば一社一強の時代が長い。黎明期では専門の会社がシェアを握っていたが、やがて大手デザインメーカーがDTPソフトを開発すると、数年のうちにそのシェアを逆転させ、もはやそのソフトが何十年にもわたって標準のものとなってしまった。
とはいえ、時代というのは移り変わるものだ。
私は新しく開発されたDTPソフトの存在を知り、そこにチャンスを見た。そのソフトを購入し、講習を受け、それなりの費用を払って、まあまあできるようになっている。
ライティングや編集だけでなく、DTPもできるとなると、かなりの便利屋として重宝されるだろう。そんな目算だった。
しかし、そのDTPソフトに需要などほぼ生まれず、私の費やした金額と時間はほとんど返ってはこなかった。
が、しかしだ。つい最近依頼があって、そのソフトを使う機会を得た。その依頼をこなせば、諸々込々で1/10ほどの費用が戻ってくると考えていいだろう。
私は喜び勇んで仕事を進めた。そして詰まった。なぜだか、まったく動作しなくなったのだ。
「機械帝国の反乱か!?」
思わず、叫んでしまった。
そんな真夜中の三時である。
絶望に駆られ、脳から直接汗が流れ出るような感覚があった。
よし、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に行くことにしよう。
こういう時は現実逃避するに限る。
◇
ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。
「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。
今日もこんな時間までお仕事かしら? お疲れさま」
クトゥルフお母さんが労ってくれる。
ルリエーマートに来て、気が緩んだのだろうか。あくびをしながら返事をした。
「はぁ~ぁ、まだ仕事中なんだ。一息入れたいだけだから、なにかお茶請けというか洋菓子みたいなものってないかな」
クトゥルフお母さんにもあくびがうつってしまったらしい。彼女もあくびをしながら、案内してくれる。
「ふふぁぁあ、そうねえ。プリンの新製品があるから、それなんてどうかしら」
クトゥルフお母さんはその華奢な青い手で口元を抑える。
そのプリンは瓶詰めに入っていた。ガラス越しに白く滑らかなプリンの姿が見える。私は物珍し気に瓶を眺めていると、クトゥルフお母さんが朗らかに笑った。
「瓶に詰めてないと、抜け出してきちゃうのよぉ」
クトゥルフお母さんの冗談に私も笑った。完全に深夜のテンションである。
私はそのプリンを手に取ったまま、レジに向かった。
◇
お茶を入れることにする。今日は本当に切羽詰まっているので、アルコールを入れることはできない。
せめて、ちょっとした贅沢としてロイヤルミルクティーにする。牛乳を温めると、粉末状になっているスティックのミルクティーを混ぜ合わせるという暴挙に出た。ミルクとミルクが重なり、実に濃厚な味わいになるのだ。
入れ終えてから、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂で買ってきたプリンを見る。プリンの甘さに、無駄に濃厚なミルクティーはお互いの良さを打ち消し合うであろう。
私はロイヤルミルクティーは捨ておくことにして、パックで紅茶を入れてストレートで飲むことにする。
紅茶も用意したのでプリンを食べよう。
カラメルシロップは付属品として付いているが、まずはプレーンな状態で食べてみる。
瓶を開けると、それだけで甘い香りが漂う。バニラの香りだろうか。ぷるんとプリンが動いたような気さえした。それだけ香りの衝撃が強かったのだろう。
ガラス越しに見ていた時は白いと思っていたプリンだが、直接見ると黄色だったりクリーム色だったり黒色だったり、玉虫のように色が変わっていく。
スプーンを突き立てると、柔らかな感触とともにスプーンが吸い込まれていくようだ。口の中に入れると、その滑らかな食感がそれだけで嬉しい。部屋が暑かったせいか、プリンの冷たさも心地いい。
そして、口いっぱいにまったりとした甘さが広がってくる。上質な卵の味わいだろうか、ただ甘いだけでなく奥行きのある深い味わいだった。
いよいよカラメルシロップをかけてみる。
開封して、プリンにかけた。
ジュワッ
プリンにかかった瞬間にシロップが沸騰したかのように、激しい音が鳴った。シロップがかかった場所が焼け焦げている。
カラメルシロップかと思ったが、どうやらハイパーボリア時代に信仰されていた太陽神カラカルを元にしたカラカルシロップだったようだ。
しかし、プリンの焦げ目からは香ばしい、いい香りが漂ってくる。これは美味しそうだ。
焦げ目の入った部分を口元に運ぶ。カラメルのような香ばしさが鼻腔から全身に伝わってくる。
これで完成形ということか!
私は興奮を抑えきれないままに、プリンを口に入れる。シロップの熱さとプリンの冷たさが同時に楽しめ、その温度差による不思議な美味しさがある。カラメルの甘さが柔らかなプリンと香ばしいお焦げにかかって、実に幸せな味をもたらしている。
甘いとは幸せということだ。
ふと、プリンを見ると量が増えているようにも見える。素晴らしいボリューム感だといえよう。
最近のコンビニエンスストアは容器の形でかさ増したり、容器に描かれた模様で量が多いように見せかけたりと、なにかと量をごまかすことが多い。ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂のボリューム感を見習ってもらいたいものだ。
量が多いというのも嬉しい。
たっぷりとこの幸せな時間を堪能できるというものだ。
◇
気がつくと、鼻から液体が垂れてきていた。食べるのに夢中になり過ぎて、鼻が垂れていることに気づかなかったのだろうか。
ティッシュペーパーはどこに置いたっけか。
探しているうちに、涙も流れてきた。気づかなすぎである。
そう思っていると、今度は耳垂れまであった。
さすがに、これは体調を悪くしているのかもしれない。
ゴボッ
吐き気はなかったのだが、口からなにやら液体が溢れてきた。
白いような黒いような、どちらにも見える奇妙な色合い。その液体は床にばらまかれたかと思うと、這い寄るように動きだした。それらは粘液のようで、互いにくっつくとひとつの塊になり、次第に私に近づいてくる。
――テケリ・リ
奇妙な音が響いた。
この音がどこで鳴り響いたのかはよくわからない。私の身体の中から聞こえたようにも、床にばら撒かれた粘液から聞こえたようにも思えた。
しかし、この鳴き声に関しては噂で聞いたことがある。
太古の地球に飛来した宇宙生物「
ショゴスは古のものに奉仕するために生まれ、その意のままに操られていたが、やがて独自に進化して知恵を蓄え、自らの
ショゴスは必要に応じてその姿を変え、増殖し、必要に応じて様々な器官を生み出す。労働にも戦闘にも従事する屈強な種族だ。
――テケリ・リ
再び鳴き声が聞こえた。
私の鼻、耳、目、口からは絶え間なくショゴスが流れ出てきている。同時に、私の胃、小腸、大腸にもショゴスが満ちていった。
呼吸器はショゴスによって埋め尽くされ、息ができなくなる。臓物は内側から締め付けられ、異様な痛みが全身を襲っていった。
私は声を上げることさえできなくなり、青い顔でうずくまりながら、ひたすらに苦痛に耐える。
――テケリ・リ
その鳴き声を最後に、私の意識は途絶えた。
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