第十八話 冷やし中華

 梅雨入りしたせいか、どうも天気が不安定だ。

 朝方、曇りがかっていて肌寒い中で出かけたと思っていたら、ゲリラ豪雨があり、帰ってきた時にはピーカンの真夏の様相だ。ちょっと厚着して出かけたせいで暑いったらありゃしない。


 まあ、取材先でおじいさんに酒をしこたま飲まされて、どこか知らない山奥の森で終電を乗り過ごし、野山でふらふらと一晩を過ごして帰ってきたところだから、私にも問題があるのかもしれない。

 照りつける太陽はひたすら熱いし、まだまだ二日酔いは収まらないし、野山ではサイボーグ化した猿に追い掛け回されるし、本当に散々だ。人工心臓を埋め込まれ、ロックケースに詰め込まれた大量のロックを投げ回し、ハイスピード化した猿とか、いったいどこのキングコングだというのか。


 そういうわけで体はクタクタだし、寝てないし、二日酔いだし、暑くてしょうがないし、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂で涼の取れるものを何か買っていこう。


          ◇


 うの体でルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。

「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。あらあらぁ、だいぶお疲れのようねぇ。昨夜は徹夜だったのかしら? 取材? それとも接待かしら? いつもお仕事お疲れさま」

 クトゥルフお母さんが心配して労いの言葉をかけてくれる。さすがに、意味もなく一晩中山野を走り回っていたとはいえない。

「いやぁ、取材が思ったよりも大変で……」

 適当にお茶を濁しておく。


「最近は寒かったり大雨だったりで、せわしないよね。今日はめちゃくちゃ暑いし。

 なにか涼しい食べ物って置いてないかな」

 天気の愚痴をこぼすことで話題を切り替えつつ、クトゥルフお母さんにお薦めを聞く。

「ふふふ。今は地球のあちこちで寒波や熱波に襲われているものねぇ。

 涼しいもの……。そうねぇ、冷やし中華なんてどうかしら? 食べると涼しくなれるし、今年は始めたばかりなのよ」

 クトゥルフお母さんが笑みをこぼすと、その牙のように鋭利な八重歯が口元から覗く。


 私はクトゥルフお母さんのお薦めに従って、冷やし中華を買って帰ることにした。

 始まったばかりの冷やし中華はなぜこんなにも魅力的なのだろう。真夏に食べることよりも、今みたいな初夏に入るか入らないかぐらいのタイミングで食べることが多い気がする。


          ◇


 二日酔いだ。頭が痛い。こういう時は迎え酒が一番いいだろう。

 迎え酒は二日酔いの苦しみを和らげることができるが、実際には脳を麻痺させているだけで症状自体はむしろ長く続き、体に悪いばかりだという意見もある。しかし、そんなことはどうでもいい。飲みたいんだから飲めばいいだろう。


 ドラゴンハイボールを作ることにした。この前飲んだ紹興酒が残っていたし、冷やし中華には打ってつけのお酒だろう。

 グラスに氷を入れ紹興酒を注ぐ。さらにレモン果汁入りの炭酸をついだ。これで完成である。


 一口飲むと、強い炭酸とレモンの爽やかな味わいが気持ちいい。紹興酒の味わい深い香りも微かに感じることができ、わりと奥深いお酒だと言えるだろう。

 悪ふざけで適当に作ってみたのだが、意外とイケている。うん、美味しい。また、まずい酒を作ってしまったとレビューするつもりだったので、ある意味失敗である。


 さて、本題である冷やし中華。

 パックを開けると、具材の入ったプラスチック皿と、麺の入っているボールとに分けられる。麺を袋から開けて、その上からスープをかけ、麺が固まったままなので、スープと混ぜながらほぐしてやった。

 そして、具材の皿からひとつひとつ食材を麺の上に乗せていく。きゅうり、錦糸卵、細切りのチャーシュー、もやしとキクラゲを炒め合わせたもの、ゴマのかかったワカメ、紅ショウガ。それに脇にからしをちょこんとひねり出した。


 麺をすする。冷たい麵が実に爽やかで、暑さと二日酔いでうだっている体に涼しさが巡っていく。醤油だれのスープもあっさりしているのが心地よく、酢の酸っぱさが私の倦怠感を吹き飛ばしていく。

 ここまで一気に涼の取れる食べ物というのはそうはない。まさしく、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂ならではの一品といえるだろう。


 ドラゴンハイボールでひと心地つきつつ、食べる具材の順番を考える。


 まずはきゅうりだ。冷たい麺にシャキシャキとした食感が加わり、私の身体が潤いと涼しさで満たされていくようだ。

 一昔前、「きゅうりは世界一栄養がない野菜」としてギネスに乗っていると噂が広まったらしい。これはある意味事実ではあるものの、栄養があるないなんて一概にいえるものなのだろうか、というのが疑問である。

 この「世界一栄養がない」の翻訳前の言葉は「Least calorific」であり、つまり「最も低カロリー」というのが正確な訳語になるだろう。とにかく満腹になればいいという大昔の感覚がカロリーを栄養と翻訳させたのだと考えられる。

 ダイエットしている人は積極的にきゅうりを食べた方がいいだろう。水分が豊富なので、二日酔いや猛暑でぐだった身体への水分補給にもいいのだ。

 つまり、今の私はきゅうりを欲している。


 次いで錦糸卵。ふわっふわっの食感と少しの甘さを感じつつ、麺をすする。卵と麺の相性というのはいいものだ。冷たい麺は引き締まった感覚があるが、卵の温かく、膨らみのある味わいでお互いが補完されているかのようだ。


 細切りのチャーシューも美味しい。美味しくて当たり前だ。肉は常にうまい。この世の真理である。

 冷たくもほのかな温かさを感じさせる不思議な嚙み心地があった。肉の旨味とともにすする麺の美味いこと美味いこと。ちょっとカラシを付けてみてピリリとした刺激を加えてみても、また食が進む。


 少し変わり種だが、もやしとキクラゲの炒め物のきゅうりとはまた一味違った食感はいいアクセントだ。言葉にすると同じシャキシャキだが、食べてみると三者三様の違いがある。

 ゴマのかかったワカメも面白い。ムニュっとした食感はほかの具材にはない感覚で、また新鮮な気持ちで冷やし中華を味わうことができる。ゴマの風味もいい仕事している。

 紅しょうがは言わずもがなだろう。刺激的な生姜のツーンとした味わいとより攻撃的な酸味。これと一緒に麺をすすることで、冷やし中華という料理はまた別の顔を見せるのだ。


 私の感覚にはないことだが、地方によっては冷やし中華にマヨネーズを入れることがあるらしい。

 どんな味になるんだろう。興味があるので、最後に一口だけ残しておいて、マヨネーズをかけてみることにした。

 うん。冷やし中華にマヨネーズをかけたような味だ。


          ◇


 冷やし中華のおかげで十分に涼が取れたし、二日酔いも楽になった。シャワーでも浴びて寝ようかな。

 そう思った時、テーブルに置いたはずの箸が指に引っ付ていることに気づいた。

 なんだろう、と思いつつも指から引っぺがそうとする。


 べりり


 外れた。箸ではなく指が。


 私の右手は脆くも崩れていた。左手には今度はこちらに引っ付いた箸と、これまた箸に引っ付いている指の残骸があった。

 まるで凍りついているかのようだ。

 しかし、私には寒いという感覚など一切なかった。むしろ暖かいとさえ思える。


 熱い。腕が燃え上がるように熱い。

 そんな感覚が伝わってきて、少ししたら消えた。


 ふと思うことがあり、テーブルを腕で叩いてみた。


 カツンカツン


 固い音がした。

 そして、しばらくして腕がバリバリに砕け散る。

 砕けた後には、灰色の炎が揺らめいていた。


 これは、アフーム=ザーだろうか。

 炎の神性、クトゥグァに生み出された、触れたものすべてを凍りつかせる炎をまとった、冷たき邪神。かつて北極海に存在した伝説の大陸ハイパーボリアを寒波だけで破壊しつくしたといわれる旧支配者の一柱である。


 私の身体は徐々に燃え上がるかのように凍てついていく。

 あまりにも熱く身を焼いていく、その冷たさによって、私の身体は氷の塊となり、音を立てて砕けていくのだった。

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