第二十九話 カツ丼
文章力をどうやって伸ばすか、という話をしたい。
学生時代、好きな作家の小説を書き移したり、益体もない日記を書いたり小説を書いたりしていた。小説は友達に見せたりしていたこともあるが、そう何度もやったわけではなかった。
文章術の本も読み、文章を書く上での注意事項を頭に叩き込んだ。これは今も思い出しながら言葉を綴っている。
こうしたことが役に立たなかった、と斬り捨てることもないが、これによって力がついた、という実感もない。
文章力がついた、そう実感したのは仕事として文章を書くようになってからである。
上司から仕事を振られ、毎日短い記事を何十件も書くことになった。そして、それを私の所属する会社の社長が定期的にチェックする。私の書いた原稿は毎回びっしりと赤字が入って返ってきた。そのたびに私は原稿を直し、場合によっては疑問も書かれているので、表現方法を悩みながら修正する。
人間、繰り返すことが何より重要である。そこには答え合わせが入るべきだ。学校で習うような勉強でもそうだが、解答と正解を照らし合わせることで改善することができる。
プラン(計画)・ドゥ(行動)・シー(評価)、あるいはプラン(計画)・ドゥ(行動)・チェック(評価)・アクト(改善)などと言うこともある。あらゆることの基本のようだが、成長するためには計画・行動に対する正しい答えを受け取り、反省することが必要なのだ。
そういう意味で恵まれていたと思うのは、かつていた会社の社長が正しい答えを私に与えてくれたことだ。人間的に問題ないとは言えない人だったし、そもそも雇用形態がおかしかったりしたが、その点では感謝しているし、尊敬している。まがりなりにも文章を書くことで食べていけているのは彼のお陰だろう。
ただ、社長はそもそもが営業以外の仕事をほとんどしない人だし、経歴的にも理系で遺伝子の組み換えの研究をしてきた人だ。なぜ、文章術の正解を知っていたのか見当もつかない。
生物は子孫を作って自分の能力を受け継がせていくわけだが、人間はそれだけに留まらず、知識の継承によって能力を受け継がせる。自分のコピーを言葉によって受け継がせることができるのだ。
私は社長からそれを受け継いでいるし、この愚にも付かない文章を読んでいる人も、多少なりとも私の何かを受け継いでいくのだと思う。私のコピーは今も生まれ続けているのだ。
さて、しょうもないことを考えるのはやめて、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に夕飯でも買いに行こう。
◇
ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。
「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。今日は何をお求めですかぁ?」
クトゥルフお母さんが微笑みながら出迎えてくれる。彼女の頬がピンク色に紅潮している。血の巡りのいい証拠だろうか。
「今日は……どうしよう……」
しまった。何も考えていなかった。
「うふふ。いいのよ。こういう時のためにお母さんがいるんだからね」
クトゥルフお母さんはそう言うと、人差し指を頬に当てて、首をかしげる。そして、何かを思いついたように人差し指を天上に掲げた。
「カツ丼はどうかしら? 今日はぴったりなお肉が入ったのよ。卵と一緒にね。
だから、今日のカツ丼はすっごい美味しいのよぉ」
クトゥルフお母さんは身振り手振りを駆使してカツ丼の美味しさを表現してくれた。私はその姿に愛らしさとともに、食欲をそそられる。カツ丼を買うことにした。
「今日は随分、一生懸命お薦めしてくれるんだね」
私がそう言うと、
「ずっとがんばってるひとだから」
クトゥルフお母さんはそう答えた。
調理担当の人のことを気遣ってのことだろうか。私はよくわからないと思いながらも、レジに進んだ。
◇
家に帰ってきた。さあ、酒を飲もう。
今日はスイカのお酒だ。リキュールである。
グラスにとくとくと注ぐと、赤く濁った液体が満ちていく。果肉入りなので、スイカの破片が漂っている。
グラスを眺めると、スイカを思わせる透き通ったピンク色だった。
口に入れると、アルコールの苦みはあるが、スイカらしい、というよりスイカ以上の甘さが口いっぱいに広がった。スイカらしい青臭い香りもあり、本当にスイカを食べているような錯覚がある。
子供の時はイチゴとかスイカのジュースがないのが疑問であったが、実際にあったらこんな味なのだろう。美味しいので、実際に作ったらいい。
時折、口の中に果肉が入り、そのたびに噛み砕く。酒を飲みながらスイカを食べる、というのは奇妙な感覚だった。
甘いので、続きはデザート感覚で食後だろうか。
チーン
カツ丼が温め終わった。同時に豚汁も出来上がる。豚汁はインスタントのものにお湯を入れただけだが。
ふと、気づくのは、豚と豚がかぶってしまったということだ。言ってしまえば、このシリーズの第二話とも豚汁でかぶっている。
だが、そんなことは気にする必要はない。こんなことを気にするのは、古典的名作「孤独のグルメ」の影響だろうか。我々の英雄であるところの五郎ちゃんが「ぶたがダブってしまった」と発言する。そのこと自体は素晴らしいし、とても芸術的なシーンなのだが、現実世界で豚がかぶることを気にする必要があるだろうか。
私たちは物語の登場人物ではない。かぶりなんて気にする必要はないのだ。
カツ丼を開ける。
そこに入っているのは、当然カツ丼だ。カツ丼とは豚カツを卵と玉ねぎで閉じ、出汁で味付けしたものだ。今回はタクワンも付いている。
まずはカツを口に入れる。肉の旨味が最初に来た。衣のサクッとした歯ごたえが続き、それにしみ込まれた甘じょっぱい出汁の味付けを感じられる。それにより、ご飯を食べたいという欲求が激しく突きつけられる。
私はその欲求に突き動かされるままにご飯をかっ込んだ。ご飯にも出汁が浸透しており、カツの甘じょっぱさと相まって、ご飯を食べる手が止まることはない。
問題はカツだけではない。
玉ねぎのシャキシャキ感と甘さはカツの尖った美味しさを中和し、心地よさを与えてくれる。
豚カツを覆う卵も、その味付けを邪魔することなく、ふわったした食感とともに、独特の味わいがある。黄身のとろけるような旨味、白身の淡白だが滑らかな美味しさ。何よりも、カツとの相性が良かった。豚は卵を産まないが、もし産むのだったら、これほどの一体感がありそうだ。
副菜であるタクワンも食べる。しょっぱさとともに甘さがあり、その食感とともに、甘じょっぱいご飯を消費するのに一役買ってくれる。
再びカツを食べる。
肉の満足感があるとともに、豚肉らしい奥深い旨味がある。私は肉の中でも豚肉が好きだ。豚肉は柔らかく旨味が豊富で不思議な甘さがある。このカツも同じような旨さと甘さがあり、それでいて魚介のような複雑な香りがあり、鶏肉のようなシンプルな旨味もあった。
これは単純な豚肉ではないのかもしれない。しかし、私はその美味しさの虜になり、ご飯を貪り食う喜びに浸っていた。
◇
スイカのお酒を飲みながらまったりとしていた。
ガチャン
グラスを落としてしまった。酔っぱらっているのだろうか。私は割れたグラスを拾おうと手を伸ばす。しかし、伸びる手などなかった。
私の姿は変わっていた。私の手はほとんど退化しており、存在すら認識できないほどに小さくなっている。代わりに――代わりかどうかはわからないが、全身は鱗に覆われており、足の股の区別はなくなってピチャンピチャンとのたうっていた。
私は蛇になったのだ。そんな実感があった。
蛇神イグと呼ばれる存在がある。地球には長く居ついているようで、かなりがんばっている神といえた。
信仰者には生命力と反映力を与え、反面、彼の者に侮辱を与える者には呪いを与える。その呪いとは、蛇神という二つ名に相応しく、呪ったものを蛇にしてしまうのだという。場合によってはその者の子を蛇に変えるともいわれている。
つまり、蛇神の呪いにより、私の遺伝子が組み替えられ、蛇に変わってしまっているのだ。いうなれば、蛇神の劣悪なコピーにされてしまったのだろう。
私は姿勢が苦しくなったので、首の位置と尻尾の位置を少し変える。頸と尻尾がしなやかに動き、私の家を破壊した。私としては少しの動きと思っていても、想像以上に激しい動きになるらしい。
意識して動きを止める。だが、近隣の人々は私を見つけるたびに奇声を上げ、逃げていった。そして、そのたびに私を見物しようとする野次馬が増える。
何人もの警官が現れ、私を包囲しようとした。しかし、私が少し動くだけで吹き飛ばされてしまう。彼らにできるのは、せいぜい人々を避難させることくらいだ。
少し時間が経つと、何十人もの警官隊が整然とした動きでこちらに向かってきた。紺色の制服に防弾ベスト、ヘルメット、それにシールドと自動小銃を装備している。機動隊だ。
彼らは一斉に発砲し、私を撃ち抜いた。痛い。私の鱗は銃弾などものともしないが、それでも針で刺されたような苦痛が繰り返される。私は痛みに耐えきれずにのたうち回り、そのたびに機動隊員たちが死んでいった。
ついには機動隊は撤退していく。
やがて、航空機が現れ、私に何かを落とした。落ちてきたものは周囲を焼き払うとともに、私に苦痛をもたらした。それに怒り狂い、私は理性を失い、暴れ回った。それが何度か続いた。私の鱗は焼け焦げ、苦痛が長引いた。人類の生活していた拠点の数々も私が暴れることで少なくなっていった。
今までとは毛色の違う航空機が現れた。その者は、私をピンポイントで狙い、爆弾を落とす。その爆弾は今までにない破壊力だった。だが、恐ろしいのは破壊力だけではない。その爆風と光は私の鱗すら剥がすものだったが、それ以上に怖いのは身体を蝕む毒であった。
いや、これは毒と呼ばれるものではない。私の全身を蝕む者の正体、それは――放射能。
私は苦痛に悶え、一国を海に沈め、そして死んだ。
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