第三十話 チョコレートフォンデュ
今日も印刷所へと向かう。今日も、と書いたが、別に昨日も行っていたわけではない。まるで、いつも通りと思うほどに、今月もこの日がやって来ていた。
月刊誌に携わっていると、毎月同じサイクルで仕事をしていると思うことがある。月の初めに原稿を書き、中盤で確認をしつつ校正、そして月の終わりに地獄のような最終チェックと印刷所での校了。そんなループがいつも行われる。
とはいえ、私の関わっている箇所はそう多くはない。とっとと終わらせて、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に行こう。そう思っていた。
しかし、トラブルが何度も続き(私のミスが続いて、とは言わない!)、時間ばかりが過ぎてしまう。
結局、缶詰になり、夕飯時になっても仕事は終わらなかった。出版社の人たちに混ざって、印刷所指定の店屋物を頼むことになってしまう。
何を頼むか迷っていると、「どれを頼んでも全部不味いぜ。この中だったら、チャーハンがマシかなあ」と言われた。仕方なく、チャーハンを頼むことにする。
確かに、そのチャーハンは不味かった。米はパサパサしているし芯が残っているので固い。味付けはどこか塩味が濃くて尖がっており、それ以外の香りも味わいもほとんどなかった。具材のどれもがぐにょぐにょで歯ごたえも何もない。しかも、このチャーハンには店員のものと思しき髪の毛が混ざっている。
私はうぇーと思い、結局、そのほとんどを残してしまった。
「麓郎君、きみはそんなキャラじゃないでしょ」
その様子を見ていた、なよっとした印象の編集者さんが声をかけてくる。私を一体なんだと思っているのか。こんな汚物のようなチャーハンを前にして豪快に食らいつけるわけがない。
気がつくと朝になっていた。始発を待ち、ようやく帰途に就く。お腹はすいているのだが、どうにも食欲がわかない。
それでも、ただ帰るというつもりは起きなかった。私はルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に寄っていくことにする。
◇
ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。
「あらぁ、麓郎ちゃん、おはよう。今日は朝早いのねぇ。あ、もしかして徹夜だった?」
クトゥルフお母さんが出迎えてくれる。よっぽど眠そうだったのだろうか。私が徹夜で仕事をしていたことがバレてしまう。
「印刷所でカンヅメだったんだ。眠いし、お腹減ったし。何か甘いものでも買って帰ろうかなと思ってるんだ」
私は眠い目をこすりながら、そう答えた。
「あらあらぁ、大変だったのねぇ」
クトゥルフお母さんはそう言いながらも、何かを思いついたように右手の人差し指をピコンと頭上に上げる。触手の何本かが同じように天井に向かって跳ね上がった。
「面白いものが発売されたんだけど、ちょっと見てみない?」
クトゥルフお母さんは悪戯っぽい微笑みを浮かべていた。
クトゥルフお母さんが紹介してくれたのはチョコレートフォンデュだった。その説明を受けて、思わず購入を決めてしまう。
甘いものを買ったので、ついでにコーヒーも買っていくことにした。
◇
これから寝ようという時にチョコレートやコーヒーというのはどうなのだろう。
家に帰ってくると、少し冷静になった。いや、あの不味いチャーハンの味を忘れるためにも、今はチョコレートフォンデュを楽しまなくてはいけない。そう思い直す。
ひとまず一息入れようと、コーヒーを飲む。温かいコーヒーが喉を潤していく。香ばしい苦みが身体の疲れを和らげてくれるようだ。
一口でくつろいだ気分にさせてくれる。コーヒーというのは偉いやつだ。
まずはプラスチックの容器を組み立てる。組み立てるといっても、コンビニエンスストアの商品だけあって、意外なほどに簡単に出来上がる。何段かに分かれている傘を持ち上げて、パキっと固定させればいいだけだ。
下皿にレンジで温めたチョコレートのソースを入れる。保温材が入っているので、しばらくは温かいままのはずだ。
空気圧を利用してどうたらこうたらし、チョコレートが傘の上段に上がっていく。そして、傘に幕が張るようにチョコレートが覆われていき、降り注いだチョコレートは再びどうたらこうたらして、上段へと循環する。理屈はよくわからないが、面白いものだ。
眺めていると、まるで永久機関のようにすら思える。実際には10分ほどしか保たないそうなので、早々にいただくことにする。
具材はベビーカステラ、マシュマロ、イチゴ、キウイが入っている。
こういうのは、どういう順番で食べるか、考えるだけで楽しい。
まずはベビーカステラを食べてみよう。フォークでカステラを刺し、チョコレートの膜でカステラをコーティングしていく。
十分にチョコレートがかかったのを見計らい、口の中にゴロリと放り込む。一口サイズのカステラなので一息に行ける。
温かなチョコレートはすでに冷えてきており、優しい甘さが口の中に広がってくる。どこかビターな味わいがチョコレートの奥深い美味しさを物語っている。そして、カステラはサクサクっとした小気味のいい食感で、ほのかな甘さがチョコレートと相まって、極上のスイーツとなった。
これはもう、チョコレートケーキをその場で作って、その場で食べているようなものだ。
続いてイチゴ。これにもチョコレートをかけて一口。
少し冷たいイチゴにチョコレートをかけることで、すでに冷えてパリっとした歯ごたえを感じた。それと同時にチョコレートの甘さとイチゴの甘酸っぱさが合わさり、噛みしめるごとに混ざり合い、独特な旨味が生まれている。
フルーツとフルーツが続かないように、今度はマシュマロにしよう。これにもチョコレートをたっぷりかける。
ふんわりした食感とチョコレートの甘くてビターな味わいというのも面白い。マシュマロが甘いので、ほかの食材よりも甘味たっぷりだ。
美味いの語源は甘いにあるといわれる。甘さたっぷりのお菓子というのは当然のように美味いものなのだ。
それではキウイを。キウイにもチョコレートソースをコーティングする。
これも甘い。つまり美味い。イチゴ以上に酸味が強く、歯ごたえもプツプツと特徴的なものだ。これがチョコレートと合わさることで不思議な味わいを演出している。これは良い。気づけば、キウイをさらにもう一つ口の中に入れていた。ヤミツキになってしまう不思議な魅力がある。
一通り味わったので、またそれぞれの具材を食べていく。家にある別のお菓子をかけてみてもよさそうだが、残念ながらチョコレートソースはすべての具材を食べ終わったタイミングでなくなってしまった。計算しつくされた設計のようだ。
最後の一口は切ない。私は口の中にチョコレートのかかったイチゴを放り込む。
◇
私の身体中からドロドロとした粘性の強い液体が流れ出ていた。その液体はとめどなく流れ続けており、私の身体はどうなるのかと不安でいっぱいになる。
液体は地面に落ちると、一つの物体としてまとまり、異様な姿に形作られていく。気がつくと、その物体は私の体積など優に超えるほどに巨大になっていた。
それは水溜まりのようだった。灰色のような澱んだ色をしており、異様な臭気が充満している。
そして、その水溜まりは沸騰するように何かが絶え間なく生まれている。ほとんどのものは生まれた瞬間に水溜まりに取り込まれて戻っていくが、時たま水溜まりの外へ飛び出していく者がある。その瞬間に水溜まりから触手のようなものが這い出て、水溜まりから離れようとする奇妙な生物を再び飲み込む。
やがて、水溜まりは私に気づいたらしい。這い出た触手が私に近づいてくる。逃げようとするが、家の外に出るドアを開けるのに手間取っているうちに足首を掴まれ、ズルズルと水溜まりの中に飲まれていった。
異様な臭気に飲まれ、私の肉体はドロドロに溶けていく。
これは、アブホートだろうか。そう思った。
宇宙の不浄すべての父にして母。汚物や病気の根源として知られる神である。
アブホートは絶えず子供たちを産み落とし、生まれた子供たちを貪り喰らい続けている、という。子供たちはアブホートの元から離れようと
その姿は沸騰する混沌の核アザトホートに似せて創造されたという説もあり、原初の混沌の劣悪なるコピーといわれることもある。
そのアブホートに肉体を溶解され、私は喰われた。私は死んだのだ。
しかし、次の瞬間に、また私は生まれた。アブホートにより再びこの世界に産み落とされたのだ。
逃げなければ。
本能がそう訴えかけていた。沸騰する水溜まりのような肉体から逃げ出そうと
私は死んだ。そして、また生まれる。そして喰われる。この無限に続くループの中、人間としての思考もままならなくなりながらも、ひたすらアブホートから逃げようと足掻き続けた。
私は水溜まりから抜け出ていた。
遠くへ。遠くへ。
ただそう念じながら這い回り続ける。だが、私の背後には水溜まりから這い出た禍々しい臭気を放つ触手が迫ってきていた。
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