第三十一話 鹿肉ローストのサンドイッチ
今日は打ち合わせのために外出していた。
クライアントの会社近くで、スーパーが新しく出店していた。買い物をするとマヨネーズ1本をオマケしてくれるらしい。せっかくなので、飲み物だけ買って、マヨネーズをもらっておく。
会社の受付で担当者を呼び出そうとしたとき、背後から声をかけられた。
「麓郎さんじゃないですか」
その会社の編集者さんであった。ちょうどいいので、編集部まで連れて行ってもらった。その編集者さんにドアを開けてもらい、会社内に進んでいく。
「ああ、あそこのマヨネーズもらってきたんですね。私ももらったんですよ」
私が持っているビニール袋に気づくと、編集者さんはニコニコしながら言った。
「えっ? 麓郎さん、マヨネーズ食べるんですか?」
別の編集者さんが声を挟んできた。以前、一緒に仕事した人だ。
「マヨネーズ食べるなんて、それでグルメ記事書けるんですか?」
さらに別の編集者さんだ。
「いやいや、マヨネーズくらい食べるでしょ。いくらあっても足りませんよ」
どうにか反論しようとするが、さらに別の声がかかる。
「えーっ、麓郎さんはグルメだと思ってたのになあ」
もう一人、新たな編集者さんが参戦してきた。
最初に話していた編集者さんは形勢の不利を感じたのか、そそくさと自分の席に戻ってしまっている。おいっ!
「マヨネーズ便利ですよ。サラダ食べる時、どうするんですか?」
「ドレッシングをかけます」
「ゆで卵はどうするんですか?」
「塩で食べます」
「タルタルソースはどう作るんですか?」
「さあ」
「麓郎さん、クレヨンしんちゃんのヒロシも『マヨネーズは美味い。だけど、マヨネーズをかけたものは全部マヨネーズの味しかしない』って言ってるんですよ」
そんな古いアニメは観たことがなかった。
結局、私は敗残の気分のまま、その会社を去ることになる。
今まで生きてきて、理不尽な目には腐るほど遭ってきたが、ここまでの不条理なものは初めてだった。
マヨネーズなんて調味料の選択肢の一つじゃないか。それを持っておくことの何が悪いのか。そんな反論が生まれてくるが、もはや何の意味もない。
私の足はとぼとぼとルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂へと向かっていた。
◇
ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。
「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。疲れた表情してるわよぉ、今日は打ち合わせだったの?」
打ち合わせ前の無為な議論で疲弊してしまったとは言いづらい。私はクトゥルフお母さんにニヘラとした笑みを返した。
「今日は食べながら仕事したいから、サンドイッチみたいなのがいいかなぁ。お薦めある?」
この言葉にクトゥルフお母さんはニコっと笑う。筋が通っているが、先端が少し垂れた彼女の鼻が愛らしい。
「珍しいお肉が入ったので、ローストしてみたのがあるのよぉ」
クトゥルフお母さんに案内されてサンドイッチコーナーにやって来た。コーナーの中に鹿肉ローストと書かれたサンドイッチがある。
「へぇー、鹿肉って珍しいね」
思わず手に取ってしまった。ただ、クトゥルフお母さんは少し複雑な顔をしている。
「ローストベニソンもローストディアも日本語だとしっくりこないのよねぇ。だから鹿肉ローストって商品名にしたの」
ライブマンの
私は鹿肉ローストのサンドイッチを持ってレジに並ぶことにした。
◇
まずはお酒を飲もう。
ラム酒を用意してある。これは読者の方から紹介していただいたお酒で、クラーケンという銘柄だ。クトゥルフお母さん食堂の商品を食べるのに相応しいお酒のように思える。
ただ、あまりラム酒を飲まないので、どう飲むのがいいか、よくわからない。
ラム酒と言えば、海賊の酒だ。つまり、勇敢なる海の男たちの酒なのである。ストレートで飲むべきだろう。
男の酒に、
グラスにクラーケンを注ぐ。黒とこげ茶の混ざったような色が美しい。
一口飲む。コークのような香りが特徴的で、苦みがありながらも、どこか爽やかさを感じる。そして、何よりアルコールが濃い。ガツンと来る。というか、喉が焼けてむせる。それに苦い。
氷を入れてみよう。少しは和らいだが、まだまだ濃い。
炭酸を入れよう。うん、ちょうどよくなってきた。やはりコークのような香りが心地よい。どうでもいいことだが、コークのような、と言えば酒に対する誉め言葉になるが、コーラのようなと言ってしまうと、台無しになってしまう。そもそもコークで例えるのでいいのかもよくはわかっていないけれども。
私が氷や炭酸を入れてラム酒を飲んでいることに、何かモノ申したい読者もいるのかもしれない。だが、よく考えてみてほしい。酒を割ったところで酒の強さが弱くなるわけではない。だとすれば、私が立ち向かっているものも結局は変わらないのだ。
これは敗北でもなければ逃げているわけでもない。立ち向かい続けているのだ。この男の姿勢を感じ取ってほしい。
さて、益体もないことばかり連ねていないで、サンドイッチを食べよう。
サンドイッチとは言っているが、食パンを三角に切ったタイプのものではない。ニューヨーカーがよく食べているイメージの、ブレッドを半分に切って具材を挟み込んでいるタイプのものだ。
包みを開けると、サンドイッチに食らいつく。
パンは柔らかくて、香ばしさはあるものの邪魔にはならず、実に食べやすい形状であった。
そのため、肉の旨さがダイレクトに伝わってくる。鹿肉という期待と不安があったが、シンプルに美味い肉だ。赤みが多くジューシーで、肉厚なため噛み応えがある。そして、噛むごとに肉の旨さが感じられる。
霜降り肉のようなインパクトはないかもしれないが、いくらでも食べられるほど、濃厚な旨味が詰まっていた。
肉の旨味が素晴らしいのももちろんだが、サンドイッチとは総合芸術である。パンや肉の美味しさと同時に、野菜それぞれの瑞々しさと魅力がどんどん伝わってきていた。
トマトは酸味とともに旨味も備えており、濃厚な香りによって格別な存在感がある。たまねぎはシャキシャキした食感が楽しく、辛さと甘さが同時に感じられるものだ。
レタスは歯ごたえがあり、サンドイッチの美味しさを下支えしている。ピーマンはシャキッとした食感もいいが、苦みとともに独特の香りがあり、サンドイッチ全体に深みを与えてくれる。
アクセントのための薬味もあり、ピンポイントで刺激を与えてくれる。
ピクルスは洋風の漬物とはよくいったもので、独特の歯ごたえが心地よく、その酸っぱさにより、サンドイッチにマンネリを与えない強い印象があった。
ハラペーニョはピリッと辛さがあっていいアクセントになっている。辛いものは好きだ。
そして、全体にわさび醤油仕立てのソースがかけられている。このソースは鹿肉ローストの重厚な味わいと馴染んでおり、純粋に肉の美味しさを引き立てていた。
うん、これは素晴らしい。実に美味しいといえる。
私は夢中になって食べ進めていく。
ふと、スーパーのおまけでもらったマヨネーズが目に入った。このサンドイッチにマヨネーズをかけてみよう、一瞬、そんな思考もめぐるが、すぐに否定する。
これほど調和の取れたサンドイッチにマヨネーズなど無用。肉、パン、野菜、ソース、そのすべてが複雑に絡み合い、高度に機能したこの食べ物に何を足すものがあるというのか。邪道の極みでしかない。
マヨネーズなんて、世の中に必要のないものだったのだ。
◇
青白い霧が立ち込めていた。
家の中での霧という異常事態に私は混乱する。とにかく外に出てみよう。そう思ったのだが、扉のあるはずの場所に扉がなく、私はどことも知れぬ場所へ当てもなく歩き続ける羽目になった。
どれだけ歩いたのだろうか。忌まわしく、耳障りな、呪われたような笑い声が響いてきた。そして、その直後に、異様な叫び声を聞く。それはまるで冥界の火の川を渡るかのような、苦悩に満ちた人生の最期の断末魔のような、人々の生涯を一瞬に集約させたかのような、異常とも思える声であった。
そして、感じるのだ。複数の異形とも思える存在が私を見つめていることを。
――蕃神。
そんな言葉が頭に浮かんできた。なぜ、突然そんな言葉が浮かんできたかはわからない。
蕃神とは地球外から飛来した異形の神々を指す言葉ではあるが、実際にはその中でも地球本来の神々を庇護する者たちを指す。彼らは知能を持たず、ただ彼らの目的を阻害するものを排除するのだという。
私は必死で蕃神の気配を探ろうとする。いるのはわかる。だが、それ以外のことはわからなかった。ただ、私を突け狙い、私に危害を与えようとしているということだけは感じられる。
それにしても、なぜ私が狙われなければならないのか。
考えられるのは、私が食べた鹿肉ローストがイホウンデーだったのではないかということだ。
イホウンデーとは地球本来の神である。大鹿の女神とも呼ばれる。彼女はハイパーボリア時代に権勢を極めるも、ツァトゥグアの崇拝者である魔術師エイボンとの抗争に敗北し、力のほとんどを失った。その後、這いよる混沌ナイアーラトテップの庇護に入るが、地球人による
そして、蕃神の首魁にして、その意志となっているのはナイアーラトテップなのだ。
私のもとに蕃神たちが近づいている。根拠もないままにその実感だけがあった。
恐怖に駆られ、正常な判断もできないままに、私はひとつのことに気づいた。先ほど聞いた、異様な叫び、断末魔の声は私自身のものではなかったかと。
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