第三十二話 ブラックカレーパン

 空を見上げると、暗闇を孕んだ黒雲に覆われている。今にも降り出しそうな曇天だ。

(むしろ、台風になってくれれば、別の日にしたんだけどな)

 そんな考えてもしょうがないことを考えてしまう。


 今日は実家に帰ることになっていた。軽い用事とちょっとした集まりがあるだけだったが、なんとなく足が重い。


 どんよりとした空模様を眺めつつ、駅から出ると、とぼとぼと道を歩いていく。まだ秋に入ったばかりだというのに肌寒かった。

 商店街を抜けると、住宅街と田園が互いを二分するように並んだ通りを進んだ。もう見飽きた風景だと思っていたが、久しぶりに見ると、なぜだか懐かしく感じる。

 実家へと続く坂道の前に公園があった。それを前にして、理由もなく立ち止まった。そして、振り返る。


 帰る前に、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に寄っておこう。そう思ったのだ。


        ◇


 駅まで戻る道には進まず、大通り沿いを歩く。大通りと言ってもこの町の基準で大きいのであって、今見るとたった二車線走行の狭い通りだ。その通りを進むと、次第に大きな看板が見えてくる。


 ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。

「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。でも、こっちに帰ってくるのは久しぶりよねぇ」

 クトゥルフお母さんが出迎えてくれる。

「う、うん」

 なんとなく塞ぎ込んでいた私はそう返すのがやっとだったが、クトゥルフお母さんの微笑みを見てハッとした。屈託のない彼女の笑顔を見ていると、暗い気持ちが嘘のように晴れていく。


「今日はなんか肌寒いからさ、少し温まるようなものでも食べたいと思ってね」

 私がそう言うと、クトゥルフお母さんは少し考え込むように顔が曇った。そして、すぐにニコっと笑う。

「じゃあねぇ、こういうのはどうかしら?」


 ごく最近のことだったが、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂ではカレーパンが売り出されていた。カレーパンなんて、どこのコンビニエンスストアでもあるだろうと思うかもしれないが、このカレーパンはお店で揚げており、それを直接売っているのだ。

 それと同時に飲み物も買う。カレーパンに合う、そして今の季節に合う飲み物。ぴったりなものがあった。


        ◇


 ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂でお惣菜を買った私は実家の近くの公園までやって来た。その片隅にあるベンチに腰を掛ける。

 これから帰ることを考えると、やはり気が重いが、今はそんなことは考えないようにしよう。


 ホットミルクを買っていた。

 コンビニエンスストアにこんなメニューがあるなんて、意外なのではないだろうか。コーヒーは有名だし、紅茶があることを知っている人も多いだろうが、ホットミルクを買っている人はあまり見たことがない。


 フタについた飲み口をぺっと開けると、口の中にホットミルクを流し入れる。温かな、そしてまろやかな味わいが入ってくる。それが喉を通り、胃の中へ入っていくと、全身が温まっていくのを感じた。

 ルリエーマートの専用の機械で温めているからだろうか。レンジで温めたり、鍋で温めたホットミルクとは飲み口が違う。どこかサラリとしつつも、牛乳らしい風味が残されている。


 一息つくと、ガサゴソとカレーパンを取り出す。

 包みを開けて、カレーパンをむき出しにすると、一息にかじりついた。


 カラっと揚げられた衣はサクサクしており、その心地よさが歯触りを通して伝わってくる。その先にあるパンは柔らかくも温かい。そして重要なのはこのパンの餡に相当するカレーである。

 カレーパンのカレーには旨味が凝縮される。スパイシーでありながらも、その奥に甘さを感じた。やはり、カレーパンに合うのは甘いカレーなのだ。


 ふと、齧りつつあるカレーパンを見る。餡のカレーは真っ黒だった。白いパン生地とのコントラストが奇妙に美しかった。

 この黒さは見た目上の演出という意味あいもあるだろうが、それだけではない。上質な牛脂、小麦粉、スパイスを炒め、香ばしさを美味さに封じ込めるという過程の上に表れたものなのだ。


 もう一口カレーパンを食べる。確かな味わいと旨味、それに甘さが伝わってきた。濃厚に凝縮された香りが理解できる。

 人間とは情報を食べるものだ。黒いカレー餡という情報から、私はその旨さの本質を推察し、そして実際に食べることで、その美味しさを構成するものを理解できた。

 まさに、知的生命体ならではの食事の堪能の仕方といえるだろう。


 まあ、ご託はどうでもいい。

 私はカリカリとした衣、ふわっと膨らんだパン、それに辛さと甘さ、旨さの凝縮されたカレーを同時に味わった。これらが合わさることで、独特のハーモニーが生まれ、カレーパンという贅沢が味わえる。これを幸せといわず、なんというのだろう。

 美味しさは幸せを生み、食べることは満足を呼ぶ。私は夢中でカレーパンを食べていた。


        ◇


 公園のベンチに座っていると、いつの間にか高校生の頃の私に意識が戻っていた。

 記憶は大人になってからのものと、この頃のものとが混じり合い、奇妙な感覚だった。


「こんなところにいたんだね。お父さんが呼んでいる。さあ、帰ろう」


 声をかけてきたのは黒づくめの男だった。

 黒い山高帽、黒いジャケット、黒いワイシャツ、黒いスラックス、黒い靴。ただ、ネクタイの代わりに締めているであろう、ループタイに嵌められた瑪瑙メノウ石だけは赤く輝いている。

 肩まで伸びた髪は白髪と黒髪が混ざり、銀髪のように見えた。肌は不健康に浅黒く、冷ややかな視線を送るその目はループタイに嵌まっている瑪瑙石と同様に輝く赤い瞳孔をしている。

 ただ、その声だけは優しいものだった。


 だからだろうか。私は何の違和感も抱かぬままに、その黒い男に付いていく。

 男は坂道を越えると、正面にある寺に入っていった。私の実家である。そして、微塵の迷いもないままに本堂に進んでいった。


 本堂に入ると、私は声を失った。

 何から説明したらいいかもわからない。本尊には顔の切り落とされた黒い仏像が置かれており、その前には魔法陣とでも言うべき奇妙な図形が描かれていた。そして、魔法陣によって描かれる先端部分には妹たちが立っていた。妹たちは皆うつろな表情をしており、心ここにあらずに見える。

 そして、その中央では、父が一心不乱になにやら数式を書き連ねていた。


 父も妹たちも大人になった私の知っている姿ではなく、高校生の頃の記憶にある姿に近い。


 やがて、父は数式を書き終えると、こちらに向く。血走った狂気に満ちた目をしていた。だが、その表情はいつもの温和なものに戻る。


「愚息のためにお手間をいただいてしまい、申し訳ない」


 それは黒い男に向けたものであって、私に向けたものではなかった。

 そして、すぐに私に向くと、怒りと憎悪に満ちた表情に戻る。


「お前は何様のつもりだ。このお方に労力を割かせるなど……」


 聞き取れたのはそれくらいで、その後もゴニョゴニョと聞き取れないような悪態をつき続けていた。

 そして、自らの書き連ねた数式に目をやり、くっくっくと笑い出した。


「ついに、ついに、私の……、いや、人類の念願が叶うのだ!

 生命というつまらないくびきを捨て、より高次元の存在となれるのだ! さあ! さあ! さあ!」


 父の言葉に反応したのか、妹たちの足元にある図形から奇妙なものが現れる。それは、それぞれ独立した存在であり、各々はその姿を連想すらしないようなものだった。

 ある地点では海洋生物の触手のようなものが妹を締め上げ、ある地点では燃え上がるような稲妻が妹を焼け焦がしていた。また、ある地点では植物が生えて妹を養分にしている。そのどれもが、妹たちを殺していた。


 その一連の動きが終わると、父の期待、あるいは興奮は、私に降り注いだ。私がどう変わるか、注目しているようだった。


「でもさ、俺は変わらないよ」


 私は思わずつぶやいてしまった。それを聞き、父は落胆したような、絶望したような、すべてを失ったような表情をし、そしてうなだれるように力を失う。


「私が……生涯を賭けて解いてきた答えが間違っていたというのか。

 娘たちを生贄にしてまで得ようとした十二神の加護も……意味はなかったのか……。

 そして媒介。我が息子を媒介にして、沸騰する混沌の核を呼び出すことも……」


 狂気に満ちていた父の顔は、もう見る影もなく、ただ人生を悔いる老人のものとなっていた。

 それに対し、黒い男はにんまりと笑みを広げる。


「そうさ。お前のすべてが無駄だった。お前にその数式が解けることはないだろう」


 その笑顔に、父は悪夢を見るように絶望し、そのまま、その命を失った。

 黒い男は私の方を向く。


「さあ、今日の楽しみだ。どれくらい歪んでいるか、見せてもらうよ」


 そう言うと、黒い男は私の顎を掴み、私の瞳を覗き込んだ。

 そして、くくくくと含み笑いをし、やがて、はっはっはっと大声で笑い始める。


「ノーデンス! ノーデンスじゃないか!」


 黒い男は腹を抑え込み、それでも笑いを止められないようだ。


「ノーデンスがこんな歪んだ人間を見たら怒り狂うだろうなあ。そして、その怒りによって、さらに歪むわけだ。

 歪みの原因が自分だとも知らず、滑稽なことよ」


 黒い男は涙を流しながら笑っている。


「いや、お前、面白いよ」


 そう言って笑っている。

 しかし、私は知っている。この男は私を見てなどいないのだ。私自身が知る術もない、私の行った何かを間接的に見て笑っているに過ぎない。


 父は何に絶望したのだろうか。もし、その絶望の根幹が同じものならなら、私も絶望して死んでもいいのではないか。

 そう思う私にニャルラトテップの冷ややかな視線が浴びせられる。私はもう生きることはできないのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る