第十四話 タンドリーチキン

 明日のことを考えると憂鬱だ。


 皆さんは憂鬱の「鬱」という漢字を書けるだろうか。覚え方はこうだ。

書いて、かん書いて、また木書いて、ワ書いて、きょう書いて中にチョンチョンチョン、カタカナでヒ書いて、あとはハァーッ! トォーッ! タァー!」

 すこぶるどうでもよかった。しかし、こんなどうでもいいことを考えていなければ、気が滅入ってしょうがないのだ。


 明日は会議がある。

 といっても、会議の内容自体はそれほど苦になるようなものではない。

 私が事前にやっておくことといえば、議題で挙がる内容を把握さえしておけばいいだけで、進行も発表もクライアントである会社の人が行ってくれる。私の仕事はその会議で決定した内容から記事を書くことなのだ。


 ただ、問題なのはその客先に会いたくない人がいることだった。その人はとても性格が……、いや、なんていうか、苦手というか……、えーと、そう、相性が悪い人なのだ。

 その人の機嫌がよければ嫌味や皮肉を冷や水のごとく浴びせかけられるだけで済むだろうが、もしも機嫌が悪ければ直接怒鳴りつけられることだろう。

 しかも、その言葉のひとつひとつが鋭利な刃物のようで、まるで体中を切り裂かれるような、引きちぎられるような、暴力的な苦痛を伴うのだ。


 どこか遠くへいってしまいたい。

 そんな気持ちもあるが、社会人としてはそうはいかない。


 そうだ、酒とつまみでも買ってこよう。

 私はルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に行くことにした。


          ◇


 ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。

「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。なんか、気が重そうねえ。何か嫌なことでもあった? それとも、これからあるのかしら?」

 クトゥルフお母さんが出迎えてくれる。そして、私のこの憂鬱な気分を察しているようだ。どうにも、クトゥルフお母さんには隠し事はできない。

「明日の会議が気が重たいだけなんだ。それより今日は何を食べようかな」

 とりあえず、ごまかしておく。


 陳列棚を覗くと、大きめのパックにタンドリーチキンが入っていた。

 あまり目にしない商品なので、思わず手に取ってしまう。

「麓郎ちゃん、それは今キャンペーン中でね、黄金の蜂蜜酒ネクタールとセットで買えば、30円お買い得になるのよ」

 黄金の蜂蜜酒。なにやら、気分がそそられる商品だ。


 それに、手に取ってしまったものの、どんなお酒が合うか、見当が突いていないところだった。というのも、どうやらインドではあまり酒を飲まないようなのだ。酒を飲む文化が育っていないので、カレー料理に合うお酒というのもあまりないのだ。

 せいぜい、ビールとか、チャイをブランデーで割るとか、ヨーグルト酒とか、その辺くらいしか浮かばない。


「クトゥルフお母さん、それは渡りに船だよ。セットで買うことにするね」

 私はクトゥルフお母さんにお礼を言い、セット商品をカゴに入れる。

「うーん、渡りに船というよりも、船に渡り……かもしれないわねぇ」

 クトゥルフお母さんの妙なこだわりのような言葉を聞きながらレジに向かった。


          ◇


 タンドリーチキンはオーブンで温めてみることにした。


 その前に、黄金の蜂蜜酒に手を付けてみる。

 瓶を開けてグラスに注ぐ。まさに黄金と呼ぶにふさわしい輝きを持った酒であった。

 こういうお酒はストレートでぐびりとるに限る。私はグラスを掲げると、一口分を口に含んだ。


 トローリとした蜂蜜の濃厚な味わいを想像していたが、意外にスッキリとした味わいで飲みやすい。柑橘系のスッキリとした吹き抜けるよう香りがあり、そして糖分を直接感じられるねっとりとした甘さがある。少し落ち着いてから、蜂蜜の風味がじんわりと感じられた。そして、それは次第に強くなっていき、蜂蜜のお酒を飲んだんだという感覚になっていく。

 うん、いいお酒じゃないの。私はほんのりとした酔いを感じていた。


 オーブンの様子を見てみる。チキンの脂がジュワジュワと沸き立っている。十分に温まったようだ。

 持ち手の部分となる紙飾りをはめて、手に持った。もうだいぶ熱くなっているが、我慢して皿に移動させる。

 タンドリーチキンもまた黄金色と呼ぶべきほどにこんがりと焼けており、蜂蜜酒と同様に輝いて見える。


 チキンにかじりつく。まず口の中に広がるのは、まぶされたカレーの味わいだ。これが絶妙な旨さだというほかない。スパイスの配合が神がかっているのだろうか。スパイシーさと旨味が絶妙に混ざり合っており、得も言われぬ美味しさが醸し出されている。

 そして、チキンを噛みしめる。柔らかな肉からはジューシーな肉汁が口の中に溢れてきて、鶏肉らしい旨味が感じられた。ただ、いつも食べている鶏肉とは違い、野性味のあるとがった香りと、チーズのようなまろやかな風味があるように思う。それがカレースパイスと重なることで、カレー料理として完成されたものになっているのだ。


 私は一心不乱で食べ進める。

 皮はパリパリとした食感を堪能できると同時に、脂身の満足感も一緒に味わうことができる。

 つい夢中になって骨までしゃぶりつくそうとしてしまう。すべては無理だが、軟骨部分のコリコリとした歯ごたえは堪らない。ここを残してしまっては損だ。

 その上で味わう肉の柔らかさも素晴らしい。


 一息つくと、私は黄金の蜂蜜酒を一息に流し込んだ。


          ◇


 酔っぱらったからだろうか。なんだか、フワフワした感覚がある。

 あまりにフワフワしているものだから、宙にでも浮いているのではないかと思い、下を見てみた。

 果たして、そこには私自身が椅子に座っているのが見えた。どうやら、私の魂が抜けだして宙に浮かんでいるようだ。


 ぼんやりとしながら、肉体の様子を眺めていた。

 すると、背中から翼が生え始めた。かと思うと、尾骶骨びていこつの辺りからは尻尾がニョロリと顔を出している。

 私の肉体が変身しているのか。そう思ったが、そうではなかった。

 私の胸から首の長い頭が突き出てきていた。


 私が変身しているのではない。先ほど食べた生き物が蘇生し、私の肉体と重なるようにその姿を現したのに過ぎないのだ。

 その生物の頭は、鳥のようであり、昆虫のようであり、モグラのように盲目である。全体的に腐っているかのようにドロドロとしていた。

 これは星間空間を旅するというバイアクヘー(ビヤーキー)ではないだろうか。


 そんなことを考えていると、酔いがさらに回ってきた。

 私の意識が飛ぶかのように加速し、いつの間にか頭上の遥かな先へ飛び出していた。家の外へ出ると、瞬く間に空を越えて宇宙に飛び出し、さらにいずこともわからない宇宙空間を飛び続ける。

 肉体を置いてけぼりにして、こんな場所を飛んでいていいのだろうか。ふと、不安になる。


 すると、私のもとに高速でついてくるものがあった。

 私の肉体と混然一体になっているバイアクヘーだった。


「よかった。ついてきてくれたんだ」


 私は感動して、少し涙ぐんだ。

 これは、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂が、バイアクヘーのタンドリーと黄金の蜂蜜酒をセット販売してくれたからこそ起きた奇跡である。こんな感動的で、素晴らしい組み合わせがいまだかつてあっただろうか。


 黄金の蜂蜜酒を飲んだものは肉体とアストラル体が分離し、星間旅行に誘われる。そして、時としてバイアクヘーはその乗り物として利用されていた。

 しかし、それだけでは肉体と離れ離れになってしまう。ここでルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂による小粋な演出である。

 バイアクヘーの肉を食べているために、肉体はバイアクヘーと一体になり、アストラル体を追いかけることができたのである。


 買い物をする際、タンドリーチキンを渡り、黄金の蜂蜜酒を船と言ってしまったが、それは間違いなのだ。黄金の蜂蜜酒で渡ることができ、バイアクヘーこそが船となるのである。

 クトゥルフお母さんの「船に渡り」とはこのことを示していたのだ。


 やがて、私は巨大な惑星へと降り立った。

 いつの間にか、私は肉体と一体化していた。バイアクヘーとは分離されており、彼はそのまま飛び去った。


 びちゃ


 なにか液体のようなものが降ってきた。私の身体にびしゃびしゃと振りかかる。

 触ってみるとやたら粘々していて、身動きが取れなくなってしまった。

 これは困ったな、と思っていると私の頭上に、白い蛆虫ワームのような生き物の頭が蠢いていた。

 その生き物は私に気づいているのか、いないのか、私のいる場所めがけて降りてくる。私の周囲の地面がどんどんえぐれていく。どうやらミミズのように地面を掘っていく生き物らしい。

 私はその瓦礫と共にその怪物に飲まれ、やがて、意識を失った。

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