第二十一話 冷や汁

 いつの間にか梅雨も終わり、快晴だった。

 私は梅雨がそれほど嫌いではないので、晴れたことを少し寂しく思う。なによりギンギラに照りつける太陽と、蒸し蒸しとしたうだるような暑さに辟易とした。

 歩いているだけで汗がだらだらと流れてくる。


 ブーンという嫌な羽音が聞こえた。

 蚊か。そう思うと身構え、音を集中して聞き分け、どこにいるのかサーチする。


 パチっ


 腕を叩いた。蚊が逃げていく。最近、蚊が多いように思える。

 すでにいくつか虫刺されが腕にあった。


 いやだなあ、と思いつつ、腕をさする。痒み止めの薬があればいいのだが、あいにく出先なので持ち合わせがない。

 患部を掻くのは、いたずらに皮膚を傷つけるだけなので、やめておく。


 いつの間にか夏になっていたのだ。

 夏の暑さを感じながら、夏の生命に気分を害しながら、私はルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に向かっていた。


          ◇


 ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。店内に入ると、その涼しさに癒される。

「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。今日は暑いよねぇ。お疲れさまぁ」

 クトゥルフお母さんが出迎えてくれた。彼女の微笑みからも涼し気なものを感じる。外の暑さがウソのように綺麗さっぱり消え去っていた。

「ルリエーマートに入ったおかげで、だいぶ涼しくなったよ。でも、今日は何かさっぱりした、冷たいものが食べたいなあ。そういうの、ないかな?」


 私の言葉に、クトゥルフお母さんはピコピンと何かを思いついたような、あるいはその言葉を待っていたかのような表情をする。クトゥルフお母さんは嬉しそうにしゃべり始めた。

「それなら、いいものが入荷したのよ。今日から冷や汁を新商品として発売し始めたの」

 冷や汁? そんなものがコンビニエンスストアの商品としてあるのか。意外なものを感じた。

 宮崎の名物として有名なものだが、正直あまり印象はよくない。汁物は好きだが、冷やしてしまっては、その良さが失われてしまうのではないだろうか。冷たい味噌汁なんて不味そうとしか思えない。


 そんなことを考えていたが、ニコニコと冷や汁をお薦めしてくるクトゥルフお母さんの笑顔を見ていたら、何も言えなくなってしまう。

 気がついたら、私は冷や汁を買って、ルリエーマートの外の灼熱の空間を歩き始めていた。


          ◇


 お酒を用意しよう。

 冷や汁はあじの味わいの強いお味噌汁なので、日本酒がいいだろう。

 超辛口の純米酒がうちにあった。これを飲むことにする。本来なら冷やしていただきたいところだが、時間がないので常温でいいだろう。

 お猪口にチョロチョロと注ぎいれる。


 まずは一口。むわんとした熱気を感じた。ぬるい。

 夏の暑さに当てられて常温がだいぶ高温になってしまっていた。これは、まずい。このまずいはよろしくないという意味であるが、同時に不味いというのも事実である。


 今からでも冷蔵庫に入れるか。

 ビンが大きいので入るか不安だったが、冷蔵庫の中身を外に出して、どうにか詰め込んだ。


 冷や汁の用意をする。ご飯はレンジで温めるらしい。

 お味噌汁の部分は、味噌汁本体と具材、氷に分かれている。味噌汁に具材を入れ、氷を入れて冷やす。

 具材は紫蘇しそ茗荷みょうが、きゅうり、鰺の切り身、それに何かの海産物のような不思議なものもあった。イソギンチャクだろうか。モツのようにも見えるがヒダというか触手のようなブツブツがある。これは美味しいのだろうか。不安が大きくなる。

 それらの具材の上には胡麻ごまがまぶされている。一般的な胡麻よりは少し細長いのが特徴だろうか。


 チーン


 ご飯が温まった。それでは食べ始めよう。

 スプーンでご飯をすくい、味噌汁に浸たらせる。塊がほぐれたところで、再びすくい上げた。スプーンにはご飯と味噌汁とともに紫蘇が入っている。

 口に近づけると、紫蘇の爽やかな風味が感じられた。梅干しの匂いにも似ている。というか、梅干しの食欲を掻き立てる香りは紫蘇のものなのだとハッキリわかった。

 紫蘇の特徴的ながら爽やかな味わい、胡麻の香ばしさ、味噌のしょっぱさと風味、そしてご飯の満足感が複合的に感じれる。なにより、味噌汁の冷たさとご飯の温かさが混ざり合い、独特の温度感覚による美味しさが生まれていた。

 うん、美味しいじゃないの。購入前に抱いていた不安が一気に吹き飛んでいた。


 それぞれの具材を味わってみよう。

 茗荷のツーンとした爽快感は薬味として素晴らしい。子供の時は存在価値レゾンデートルのわからないものの最たるものだったが、大人になるとこれほど嬉しい存在はない。

 今では認知に問題のあるおばあちゃんの意識がハッキリしていたころは、茗荷を旅人に食べさせる小話をよくしていた。それも面白いものではなかったが、大人になって思い起こしてみると、やはり別に面白いものではなかった。


 きゅうりのシャキシャキした食感もよろしい。きゅうりは普通お味噌汁と合う野菜ではないが、冷や汁とはよく合う。お味噌汁の冷たさと水分たっぷりでしゃっきりしたきゅうりは実に爽やかだ。冷や汁は爽やかさに特化している。暑い日にはピッタリだ。


 鯵の切り身はこの冷や汁の全体に影響している。冷や汁は紫蘇の風味とともに、鰺の魚介の香りによって支えられているといっていいだろう。

 鰺とご飯の相性は素晴らしい。お味噌汁ともいい。

 猫まんまと呼ばれる食べ物があるが、ご飯に焼き魚を乗せ、お味噌汁をぶっかけるというものだ。下品な食べ物とされているが、実際問題、めちゃくちゃ美味い。冷や汁のコンセプトはこれに近く、焼き魚とご飯、味噌汁の相性を利用したものなのだ。


 そして、問題の食材である。イソギンチャクのような魚介。これは果たして美味いのか。冷や汁と合うのだろうか。

 恐る恐る口の中に入れる。うん、不味くはない。ナマコのようなコリコリした食感。イカの刺身を食べる感覚にも似ているかもしれない。それでいて口の中で早くほどけるので、冷や汁の中にあって邪魔にならない。磯の香りが感じられる風味は趣があり、意外にもご飯とも味噌汁とも合う。


 胡麻の風味が強いので、辣油も合うだろうと思い入れてみる。

 ピリッとした辛さが加わり、より食が進む。これは良い。残りのご飯を入れて一気にかっ込んだ。

 こうした冷たさと温かさを混ぜ合わせる食べ物の常として、だんだんとぬるくなってしまっているが、魚介系の出汁と味噌の旨味が強いので、最後まで美味しくいただくことができた。


          ◇


 ブーン


 嫌な羽音が聞こえた。

 どこから聞こえるのだろう。神経を集中させる。どうも、私の近くには蚊はいない。

 いや、そんなわけはない。羽音は依然聞こえてくる。それは私の身体の内部から聞こえてきた。


 私の胃が猛烈にかゆくなってくる。まさか胃の中に入っていたのか。


 ブーンブーンブーン


 身体の内部からの羽音が増えてきた。堪らずに音がする場所を叩くが、体が痛くなるばかりで何の効果もない。次第に、胃が、腸が、喉が、あらゆる場所がかゆくなってくる。


 ブーンブーンブーン


 私の口から、鼻から、耳から、そして目から、蚊のような昆虫が大量に湧いてくる。私が胡麻だと思って食べていたのは、もしや蚊の卵だったのだろうか。

 湧いてきた蚊は一斉に私の身体にまとわりついてくる。必死で追い払おうと体のあちこちを叩いた。いくつかを追い落とすが、それでも蚊は大量にいる。気がつくと大量に刺されており、身体のあちこちが赤く腫れあがっていた。


 腫れあがっているのは体の表面ばかりではない。胃の、腸の虫刺されが大きくなり、重くなり、痒さと痛みを感じるとともに、内臓の苦しみが襲ってくる。喉の虫刺されは呼吸を圧迫する。

 皮膚の腫れも大きくなり、自分自身の腕や足、腹周りを見ると、もはや人間のていを表してはいなかった。身体中のあちこちが膨らみ、まるでマタンゴのような奇怪な姿になっている。


 あまりの痒さに耐えきれず、身体中を掻き始めてしまった。私の皮膚は想像よりも柔らかく、ダラダラと血が流れ始める。それでも、搔くのを止めることはできず、全身が血だらけになっていった。

 やがて、口の中に手を入れて、口内や喉を掻き始める。手が喉に入ることで吐き気を催すが、それでも痒くて堪らない。嗚咽しながらも掻き続けていると、喉からの出血が胃の中に流れていくのがわかった。


 呼吸することさえ難しくなり、体内の血液もなくなっているのを感じる。意識が薄れていった。

 そんな中、大量の蚊が集まり、ひとつの生命体になっていく。イソギンチャクのような、ポリプのような、触手とヒダを持ちながら飛行する奇怪な生物だ。


 これはもしや「盲目のもの」だろうか。

 飛来するポリプ、先住種族とも呼ばれる太古の地球に飛来した生物だ。太古の地球の制空権を握り、古のものやイスの大いなる種族に対して大きな優位を取っていた。やがて、イスの大いなる種族の反撃を受け、一進一退の攻防の末、イスの大いなる種族を破ったものの、自身も滅亡したという。滅亡の原因はわからないものの、のちの吸血鬼や蚊に進化を遂げたという説もある。


 私は全身のかゆみと痛みをごまかそうと、そんなことを考えようとする。だが、呼吸の困難と血液の不足、そして皮膚と臓器の違和感により、集中力が途切れてしまう。意識を失うことすらままならないまま、私の苦しみは続いていった。

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