第二十二話 麻婆豆腐

 最近、物忘れが激しい。

 仕事中でも何をやっていたのかわからなくなって、一瞬止まってしまうことがある。

 フリーである以上、複数の取引先からの依頼を受けているが、どこの仕事をしているのか、何の仕事をしていたのか、よくわからなくなってしまう。

 挙句の果てには、数日前に仕上げたと思い込んでいた仕事を今になってやっていたりする。それでいて、仕上げた記憶のない原稿をいつの間にか納品していたりもした。忙しすぎて頭が混乱しているようだ。


 ふと、カレンダーを見る。いつの間にひと月分をめくってしまったのだろう。なぜか8月になっていた。

 いつそんなことをしたか思い出せない。

 海馬が損傷でもしているのだろうか。


 でも、よく考えると、物忘れが激しいのは今に始まったことではないようにも思う。もっと言えば、みんなもこんなものなのではないだろうか。

 深くは考えないことにして、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に行くことにする。


        ◇


 ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやってきた。

 今日も灼熱の陽気である。汗だくになりながらも、どうにか憩いの館であるルリエーマートに辿り着く。今日は何を買いに来たのだろう。思い出そうとするが、夏の暑さにバテてしまい、食欲とともに記憶も失われていた。

「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。今日も暑いよねぇ」

 クトゥルフお母さんが出迎えてくれた。クトゥルフお母さんも夏の暑さには参っているのだろうか。


「今日は何買おうと思ってたか、忘れちゃったんだ。暑いし、食欲ないし。何かいいものないかな」

 我ながら漠然とした質問だった。さすがにクトゥルフお母さんに悪いとも思う。

「そうねぇ」

 クトゥルフお母さんは頬に人差し指を当てて考えると、何か悪戯を思いついたような表情で返事をした。

「これなんかどうかしら。麻婆豆腐なんだけど、ちょっぴり辛いけど、とっても美味しいのよ」

 クトゥルフお母さんは流すような眼差しで、その鱗の入った瞼がその瞳を覆っていた。

「はい」

 なぜだかクトゥルフお母さんの言葉を全面的に受け入れている。私は麻婆豆腐を持って、レジに向かっていた。


        ◇


 さて、お酒を飲もう。暑いのだから、飲まなくてはだめだ。

 しかし、よく考えると、何を飲むかなど何も考えていなかった。

 冷蔵庫を開くと、発泡酒が入っていた。まあ、これでよかろう。


 プシュッ


 缶ビールを空けて、グイッと一息に飲む。暑くて汗をかいた身体に、冷えた発泡酒が染み渡ってくる。この一口目が一番美味い。誰もが言っていることかもしれないが、こんな暑い日にはしみじみ思うものだ。


 チーン


 麻婆豆腐が出来上がった。

 熱々になったパッケージを開け、容器の上部に入っている麻婆豆腐を下部のご飯に流し落とす。

 これで麻婆豆腐丼が出来上がった。


 では、食べてみよう。

 スプーンで麻婆とご飯をすくい、口に入れる。噛みしめる。とろみのついた麻婆が口内にまとわりついており、辛さが伝わってくるのと同時に、その旨味が美味さを伝えてくる。この旨味を言葉で伝えるには不思議な感覚だ。あまりにも美味しい。これは、辛さの裏側に麻婆や味噌の旨味が隠されているからだ。辛さとのギャップで美味しく感じるのだ。

 辛さと同時に旨味もしょっぱさもあり、ご飯とよく合う。豆腐は大きめのものがドロッとしており、熱々になっていて、麻婆の味付けとよく馴染んでいた。肉の旨味も麻婆の旨味と溶け合っており、もはや何も言うことがない。


 これは美味しいぞ。あまりの麻婆豆腐の美味しさに夢中になって食べ進めた。

 添えつけられた紅ショウガを一緒に食べると、酸味と香り、シャキッとした歯ごたえが麻婆豆腐に彩りを添える。


 なんとなく、冷蔵庫に残っていたゆで卵を切って麻婆豆腐に添えてみる。麻婆と一緒にご飯と卵をかっこむ。

 麻婆の辛さがゆで卵で中和されていい感じだ。

 その勢いのまま、麻婆豆腐とご飯を食べきった。


        ◇


 気がつくと、鼻から何かが垂れてきていた。

 白い豆腐のような線状の物体がニューっと出てきたかと思うと、とぐろを巻き始める。そして、4本の触手の突き出た円錐のような形状になった。触手の先端はそれぞれ目のようなもの、鼻のような口のようなもの、はさみのようなもので構成されていた。


 その奇妙な生物は目のような触手を伸ばして私を観察するようにまじまじと眺めると、鼻のような口のような触手を震わして言葉を発した。


「奇妙なことだが私は蘇生したようだ。その原因は君にあるようだな。君の肉体を調べさせてもらいたい。

 無論、無料ただとは言わん。時間を跳躍する能力を授けよう」


 そう言うと、その生物の鋏から、さらに微細な触手がうねうねと生え、私の頭に近づいてくる。その触手は私の目、耳、鼻、口から私の体内に潜っていった。私の脳をいじっているのだろう。そんな感覚があった。


 時間を跳躍するというのはどういうことだろう。

 思い当たるのはイスの大いなる種族だった。イスとはかつて存在した銀河の名前だ。その銀河全域を支配し、永劫ともいえるほどの繫栄を謳歌していたのが、イスの大いなる種族である。彼らは自らの肉体を持たない精神生命体とでもいうべき種族であるが、他の生物の肉体に留まることができ、それを意のままに操ることができた。

 イスが未知の災厄によって滅亡すると、地球に避難し、円錐形の生物の体内に棲むことにしたという。だが、想定外なことに、円錐形の生物には天敵が存在した。盲目のものと呼ばれる飛行するポリプ状の生物である。

 イスの大いなる種族は盲目のものと一進一退の攻防の末に、時間を操る技術を開発し、円錐形の生物が盲目のものに滅ぼされる前に、未来へと飛んだ。彼らは地球最後の知的生命体である甲虫類の肉体を乗っ取ると、時間移動を繰り返して地球の歴史を調査し続けているという。

 円錐形の肉体から察するに、未来へ飛ぶ前に残された個体らしい。


 ニューっと伸びてきた触手が私の脳内に行き渡ったのがわかった。


 次の瞬間、私はPCの前にいた。原稿を書いている。これはどんな原稿だったっけ? どうにか必死で思い出し、どうにか書き上げることができた。これを取引先の会社に送らなければ。その準備を始めた。


 次の瞬間、お盆休みだった。私は特にすることもないので、河川敷で川を眺めながら酒を飲んでいた。どうしてこんなことしてるんだったか? 私は脳内の記憶を必死で探る。


 次の瞬間、私は学生だった。書き上げなくてはいけないレポートがある。そんな意識もあったが、そんなことは関係なく友人たちと酒を飲んでいた。私が考えているのは、面白いことを言って周囲を笑わせなければということと、友人たちが変なことを言ったらすかさずツッコまなければということだった。


 次の瞬間、私は中年になっていた。相も変わらず、取引先の会社でヘコヘコして、どうにか仕事をもらおうとしている。それでも、どうにか暮らしは安定している。そのことに安堵を覚えつつ、こんなはずではなかったという焦燥感もある。

 しかし、焦燥感は時折現れる僅かなものだった。なんだかんだ、安定した楽な道を選んでいるのだ。そのことに哀しいものを感じる。何のために、フリーの道を歩んだのだろうか。


 次の瞬間、私は幼稚園に来ていた。友達の作り方もわからず、クラスの輪にも入れず、ただぼんやりとしている。こんな時間が本当に嫌だったが、なぜか時間の流れは緩やかだった。


 次の瞬間、私は身体の異変を感じていた。ベッドで寝たきりになったままだったが、どうにか看護師を呼ぼうとナースコールのスイッチを押そうと手を伸ばす。しかし、その手が届くことはなかった。


 そして、次の瞬間……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る