第二十三話 鍋焼きうどん
「よしっ!」
私は部屋のエアコンが止まったのを確認した。
いや、むしろ暖房を入れた方がいいだろうか。少し逡巡して、パネルを操作してエアコンを暖房にした状態で再起動する。
ゴォーっという轟音とともに部屋がどんどん暖まってくる。
これでいい。
今は夏の真っ盛りだ。
夏といえば我慢大会である。私はこれから我慢大会をするのだ。一人で。
暖房で部屋を暖かくした。ストーブも出してある。熱燗の準備もした。
それに加えて、熱中症対策としてペットボトルの水も用意してある。私は
あとは鍋焼きうどんだけだ。私はルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に出かけることにした。
◇
今日もいい天気だ。今日も暑い。しかし、今日ばかりはこの暑さが嬉しくて仕方がない。
私は意気揚々とルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。
「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。暑いのに元気ねぇ」
クトゥルフお母さんが出迎えてくれた。私のテンションが少し上がっていることに気づかれてしまったらしい。一人我慢大会を開催しようとしているから気分が盛り上がっているとはあまり知られたくなかった。
「今日は鍋焼きうどんが食べたいと思ってたんだけど、夏だからないかな?」
その言葉を受けて、クトゥルフお母さんはニコニコと笑う。目尻が垂れ下がり、鱗が重なり合っているのが、とても可愛らしい。
「冷凍のでよかったら、用意してありますよぉ」
クトゥルフお母さんは笑顔のまま、冷凍コーナーへ案内してくれた。手に取った鍋焼きうどんは冷たく、そして、ずしりと重い。水を足さなくても作れるタイプのようだ。
「これは野菜もたっぷり入っているし、温まるのよ。夏こそ栄養付けて、身体冷やさないようにしないと、すぐ参っちゃうものねぇ」
クトゥルフお母さんはニコニコしたまま説明してくれた。その気遣いが嬉しい。
私は鍋焼きうどんの重量を感じながら、レジへと向かっていった。
◇
部屋に戻ると、もやっと蒸し暑い。普段なら嫌気が差すところだが、今日は望むところだった。
鍋焼きうどんと熱燗を並行して作ることにする。
鍋焼きうどんは蓋になっているシートを外し、そのまま弱火に掛ければいいようだ。
鍋を用意して、湯を沸かす。沸いたところで火を止めて、一合分の特別純米を入れた燗用の容器を湯煎で温める。レトルトのパウチもそうだが、こういうのは湯煎の方が美味しくなると思ってしまう。
熱燗が先にできたので、うどんを茹でている間に飲んでみる。
ほどよい辛さと甘さが心地よい。日本酒ならではのクセも強いが、それも楽しめるものだ。そして熱い。
ついでにストーブを点火する。よし、楽しくなってきた。
鍋焼きうどんを見ると、いい具合に麺や具材が解凍されている。ここで火力アップ、強火にして一気に仕上げよう。
拭き上がる直前を見極めて火を止める。鍋掴みのミトンを両手に付けて、テーブルの上の鍋敷きまで運んだ。
よし、食べよう。私は煮えたぎる鍋の中からうどんを
鍋を直接つかむことはできないので、レンゲで出汁をすする。ほのかな甘さを感じさせる、いい味の出汁だった。優しい美味しさだ。うどんの汁はやはりこうでなくちゃと思う。
もちろん、うどんと出汁だけではない。具材もたっぷり入っており、バラエティ豊富だ。
鶏肉やだし巻き卵、海老、カマボコといった肉、海鮮系もあれば、ネギ、シイタケ、ほうれん草、人参といった野菜、それに油揚げも入っている。
どれから行くかは人それぞれだと思うが、やはりうどんの定番といえば油揚げだ。まずは基本から抑えたい。
うどんと油揚げの組み合わせは
続いて鶏肉だ。噛みしめた瞬間に、焼き鳥のような鶏肉の旨さがダイレクトに感じられた。これは美味い。多少ぱさぱさしているのは好みが分かれるかもしれないが、うどんに含まれる水分を同時に味わうことで互いを補完させることができるので、これはこれで問題がない。
もっとしっとりとした味わいのものかと思っていたので、これはいい意味で裏切られた。
ここで野菜に行こう。ほうれん草を食べた。
苦みがありながらも、鶏肉で濃くなってきた口内をリセットする清涼感がある。そして、何よりうどんと合う。ポパイではないが、ほうれん草を食べると元気が盛り盛りと湧いてくるような、力強い気分になるのは私だけではあるまいあるまい。
だし巻き卵はどうだろう。ふわっふわの卵が実に美味しい。味付けもうどんの出汁と似通っているので、合わないはずがない。
そして、ネギ。シャキシャキとした食感が心地よく、甘さを感じる風味は、薬味としても具材としても非の付けどころがない。
海老も食べよう。香り高い海老の風味を感じられる極上のブラックタイガーだ。海老肉ならではの旨味のおかげで夢中で食べてしまう。
食べるごとにじわっと汗が流れ出てくる。暑い。身体の外からもそうだが、それ以上に内側から熱気が込み上げてくるようだ。
熱燗をクイっと飲み干す。もう限界だ。暑すぎる。
私は冷蔵庫を開けると、缶ビールを取り出した。キンキンに冷えてやがるぜ。
プシュッと缶を開けると、一気に口の中に流し込む。やはりビールは美味い。真夏こそビールの真骨頂だ。
落ち着いたところで、次の具材だ。人参を食べる。
ホクホクとした食感がたまらない。暑いが。出汁を吸い込んでいて、ただの人参とはまた違う旨味がある。暑いが。うどんともよく合う。暑いが。
ビールでもう一度体を落ち着かせ、続いてはカマボコ。鍋焼きうどんに欲しい具材ナンバーワンともいえるものだ。この魚肉の旨さとあっさりした食感がうどんとよく合うのだ。鍋焼きうどんの名サポーターといえよう。
そして、シイタケ。肉でも野菜でもなく、菌ともいえない。そんな独特の存在感のある食材だ。噛みしめると、柔らかいとも言い切れない、独特の歯ごたえがあり、独特の旨味たっぷりの味わいと奥深い香りが口の中を支配していく。もちろん、うどんとの相性もバッチリで食がどんどん進んでいく。
具材は一通り味わったので、一味唐辛子をまぶして、もう一周だ。
優しい味わいの出汁は、一味で辛くしても、また美味しい。むしろ、少し尖った部分ができたことで、バランスのいい味わいが如実に表れてくるようだ。
それぞれの具材をもう一度味わい、うどんを平らげ、残った出汁を飲む。この瞬間が鍋焼きうどんで最も幸せな時かもしれない。
◇
身体が最高潮に熱い。これ以上は我慢の限界だ。
私はエアコンを冷房に切り替え、ストーブを停止した。そして服を脱ぐと、風呂場に一直線した。
風呂桶に最大出力で水を流し込むとともに、冷水のシャワーを浴びる。
しかし、身体は全然冷えなかった。シャワーから降り注ぐ冷水は、私の身体に当たると、その瞬間に沸騰し、蒸発しているようだった。
では、冷水風呂ならどうか。たっぷりと溜まったのを確認すると水を止めて、水風呂に体を沈めた。その瞬間、ぬるくなったつけ麵のスープに焼石を放り込んだかのように、水風呂は沸騰し、あっという間に水は消えてなくなった。
これはどうしたことか。思案していると、風呂桶のプラスチックもどんどん溶けていっているようだった。
風呂桶だけではない、部屋中がどんどん溶けていく。それどころではない。家中が瞬く間に溶け、私は空き地で全裸のまま座り込んでいるような状態になってしまった。
これでは変質者として通報されてしまう。服を着ようにも溶けてしまったばかりだ。
そんなことを考えていたら、もう気にする必要もなくなっていた。
地面がめきめきと溶け始め、マントルも蒸発し、地球の外核も内核もあっという間に消失した。
私は宇宙空間の中でポツンと佇んでいた。全裸で。
いつの間に、私はここまでの熱量になったのだろう。
思い当たるのはルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂で買った鍋焼きうどんだ。あの熱量たっぷりの鍋焼きうどんはクトゥグァだったのではないだろうか。
クトゥグァはフォーマルハウトの恒星を根城とする炎の精霊の
というか、地球を簡単に溶かしているのだ。私にはその力のほどがよくわかる。
周囲の星々を眺めていると、明るい星がいくつか消えていくのがわかった。あれは火星だろうか。それとも金星だろうか。天体には詳しくないのでよくわからない。
だが、ひとつはよくわかった。あれは太陽だ。太陽が燃え尽きていく。
私はどうなるのだろう。
もう少し冷えれば、周囲の星の燃え滓が集まり、星を形成することになるだろう。その星は私の熱量によって燃え上がる。燃える星屑やガスが多ければ太陽になる。そして、その太陽に引かれた惑星によって、新しい太陽系を形成するのではないだろうか。私は第二の太陽系となるのだ。
だが、私自身の命はそこまでは持たない。空気がないのだ。呼吸ができていない。すでに息苦しくなっている。
私の肉体の壮大な行く末に反し、私自身はただ窒息死した。
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