第七話 猫ラーメン

 ルリエーマートに向かう道すがら、私の前を猫が通り過ぎた。

 通り過ぎたと思ったが、道の端でじっとしている。白い毛並みに黒い縞模様の入った猫だ。可愛い。


「にゃー」

 私は猫の鳴きまねをしながら身をかがませ、猫の頭を撫でようと手を伸ばした。


――シャーッ


 猫は急に眼をカっと見開いたかと思うと、私の手とその前足を交差させる。

 ピッ。私の手の甲が猫の爪で切り裂かれていた。


「いたたたた……」

 血が出ていた。絆創膏は持ち歩いていないので、ティッシュで押さえて血を止めておく。


          ◇


 右手の痛みを抑えつつ、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。

「いらっしゃい、麓郎ちゃん。あらぁ、右手どうしたの」

 クトゥルフお母さんが私の右手に気付く。

「そこの通りで猫に引っかかれちゃって。でも、傷も浅いし大丈夫ですよ」


 それを聞いてクトゥルフお母さんは慌てたように触手を逆立たせる。

「あらあらぁ、それは大変なことよぉ。手はよく洗った? 感染症が怖いから、おかしいなと思ったらお医者さんに行かなきゃダメよ」

 私は笑って頷き、クトゥルフお母さんにお礼を言う。


 それはそうと、今日の晩御飯はどうしよう。

 私は商品の陳列棚を覗いた。「はらちゃんラーメンプロデュース」と書かれたラーメンがある。これは昨日までなかったはずだ。

 どうやら京都の学生に人気のラーメン屋らしい。

 これを買うかどうかは少し迷う。昨日食べたのもラーメンだったからだ。


 どうも一人暮らしを始めてから太ったように思う。

 実家で暮らしていたころは、血のつながらない妹12人との共同生活だったため、毎日がてんやわんやだった。一人暮らしは気ままでいいのだが、妹の世話をしたり遊んだりするのが如何にカロリーを消費する行動だったかを思い知る。

 もはや、昔は腹筋が割れていたのになあ、と腹回りを見るたびにため息をつく日々だ。


 そうは言っても、新製品の魔力には抗うことはできない。

 私はラーメンを手に取った。

「そこのラーメン屋さん、取材拒否で有名なお店で、協力してもらうの大変だったのよぉ」

 クトゥルフお母さんは少し疲れたような表情をする。

「へぇー、そんなお店の許可を取るなんて、さすがクトゥルフお母さん食堂ですね!」

 そう言うと、クトゥルフお母さんは嬉しそうな表情に変わる。

「なんでも、神出鬼没のラーメン屋さんで有名なんですって」

 そう言いながら人差し指を頬に当てる。

「それは期待が持てそうですねー」

 私が頷くと、クトゥルフお母さんは何かに気づいたような表情をする。


「麓郎ちゃんは猫派だものねぇ」


 クトゥルフお母さんがしみじみとつぶやいた。

 何だろう? 道で猫を相手にしたことを言っているのだろうか。


          ◇


 前回はラーメンを食べる時には水を飲むことこそ宇宙の真理だと言ったが、必ずしも酒を飲んじゃいけないワケではない。

 だいいち、昨日も飲んでないのに、今日も飲まないなんて体に悪いに決まっている。

 私はチューハイを作ってみることにした。

 京都の大学生に人気のお店なのだ。貧乏な学生たちはチューハイを飲んでいるに違いない。私もそれに合わせよう。


 焼酎はあったかなーと思いつつ戸棚をあさる。黒霧島があった。有名で安価な本格芋焼酎だ。

 芋焼酎は麦焼酎や米焼酎よりも香りが高い。臭い、ともいう。そのため、芋焼酎は苦手だという人も多い。

 だが、その香りこそが芋焼酎の美味しさでもある。これに慣れたら芋以外飲めなくなってしまう。


 グラスに氷を入れ、黒霧島を注ぐ。1/4くらいでいいか。

 そこに炭酸をいれて、レモン果汁。これがチューハイだ。ビンボーな学生たちの友といっていいだろう。

 ぐびぐび。一口飲んでみた。うん、芋の香りと炭酸のキリっとした刺激がまったくマッチしていない。不味い。

 けど、酔うから、これでもいいだろう。


 チーン


 さて、ラーメンができた。

 電子レンジからラーメンのパックを取り出す。麺と具材が乗っかった部分をスープに落とす。

 これだけでラーメンができあがる。文明の利器は素晴らしいね。


 では、いただくことにする。

 スープは醤油系のようだが、少し白濁とした色味も入っている。豚骨などを使っているのだろうか。さらに、辣油のような赤い油が浮いているのも特徴的だ。

 麺は太麺で食べ応えがありそう。具材としてはチャーシューとネギだけだが、チャーシューがたっぷりなので、贅沢な印象を与えてくれる。


 スープをすすってみる。ずずっ。うん、美味しい。

 醤油タレに動物系の出汁、調和の取れたまったりとした味わいだ。ひょっとすると出汁には魚介の煮干しも加えているのかもしれない。

 辣油のピリッと辛いエッセンスもいい。これにはニンニクの香りも足されていて、香り高く食欲を刺激してくれている。

 油として浮かせることで、常に味わうのでなく、時折感じさせる味わいになっているのが絶妙だ。


 麺をすする。もちもちの麺が豊かな味わいに感じられる。醤油タレと獣の味わいをたっぷり含んだ麺をむしゃむしゃと噛み砕く。こんな幸せはそうはないだろう。

 次いでチャーシューをかじる。さっぱりとした歯触りだが、しっかりと肉の味を感じられる。どこか気品を感じさせる味わいだった。肉でありながら、カツオのような、マグロのような、魚介の旨味も感じられる不思議な風味だ。

 肉の旨さを感じつつ食べる麵がまたいい。このラーメンは、麺とチャーシューを同時に味わうことで完成されると言っていい。だからこそ、チャーシューがたっぷり盛られていたのだな、と思う。

 そして、ネギは口直しとして機能している。油の旨味、辛さ、コッテリ感でいっぱいになった時にネギを麺と一緒に頬張る。これで感覚がリセットされて、また肉と麺の調和を楽しむことができるのだ。


 うーん、ラーメンってなんでこんなに美味しいのだろう。

 毎日食べてもこう感じられるって異常だ。そのせいで私の腹は肉襦袢から脱却できないのだ。


          ◇


――ニャー


 猫の鳴き声が聞こえた。

 どこから聞こえたのだろうか。スマホかパソコンかテレビか。

 探してみたが、該当するものはない。


――ニャーニャー


 また、鳴き声が聞こえる。今度はより近いように思う。

 足元を見ると、猫がいた。茶色の虎猫だった。

 猫は好きなので可愛いとは思うのだが、それ以上に不気味さがあった。いったい、どこから入ってきたのか。


 猫には猫にしかわからない抜け道があるという。

 そんなのはおとぎ話のようなものだと思っていたのだが、考えを改めなければいけないのかもしれない。


――ニャーニャーニャー


 気がつくと猫は増えていた。

 一匹が二匹に、二匹が四匹に、四匹が十六匹に。まばたきをして一瞬注意を外すたびに、どんどん増えている。

 気づくと部屋中が猫で溢れていた。まるで猫の絨毯のようだ。

 大きい猫もいれば、小さい猫もいる。黒い猫もいるし、白い猫もいる。縞が入った猫もいれば、三毛猫もいる。この光景は猫の見本市のようでもあった。


 なんとなく、予感がする。これは今食べたラーメンが原因ではないのか。

 クトゥルフお母さんは私を「猫派」だと言っていたが、「猫を可愛がる」派の意味でなく「猫を食べる」派の意味で言っていたのだと思える。


 ハッとした。

「はらちゃんラーメン」の別名は「猫ラーメン」ではなかったか。美味いと評判なのだが、猫を出汁に使っているという都市伝説がまことしやかに流れていた。

 私の食べたのは猫ラーメンだったのだ。

 まさか、幻の「猫ラーメン」を食べることができたとは! 私はルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に通ってきたことを心底嬉しく思った。


――ズキリ


 右手が焼け付くように痛い。

 見ると、ルリエーマートの手前で猫につけらた傷が膿んでいた。黄色い汁がただれるように湧いてきており、野球ボールくらいの大きさに患部は膨れ上がっていた。

 こんなになるまで、気がつかなかったというのか。


 猫の群れの中から、白い毛並みの黒い縞模様の入った猫を探す。私に傷をつけた猫なら治し方もわかるかもしれない。

 しかし、そんな猫は見当たらなかった。


――ムダダヨ。ソノネコハ オマエガ タベタ ネコダカラ。


 猫の鳴き声が急に意味を伴って頭の中に入ってきた。

 それを教えてくれたのは、最初に入ってきた茶色の虎猫のようだ。この虎猫が猫の群れのリーダーのようだった。


 虎猫がフギャーとけたたましい声を上げた。

 集まっていた猫たちがいっせいに動き始める。彼らは次々に宙返りを始めたかと思うと、床や壁、家具を足場にして急速に飛び回り始める。

 さながら、跳弾として部屋中を飛び回る弾丸のようであった。


 やがて、猫の爪、牙が私をかすめ始める。爪や牙は皮膚を傷つけ、私は次第に血まみれになっていく。

 しかし、これはまだ序の口で合った。

 その爪や牙は皮膚だけに飽き足らず、徐々に私の肉をそぎ落とし始めた。出る血の量も次第に増していく。


 出血で意識が遠くなりながらも、ウルタールの物語を思い出した。猫を惨殺していた意地悪な老夫婦が、きれいさっぱりとした骸骨にされるという物語である。

 ああ、私も骨になるのだな。

 そう思いながら足元を見ると、私の足には肉は残されておらず、ただ白い骨が遺されているだけだった。そして、床にはびっしりと血と肉の破片がまき散らされている。


 これが私が見た最後のものとなった。

 虎猫が私の頭に飛びかかり、その爪を私の眼球めがけて突き刺した。爪はそこで止まらずに、私の頭の奥までを貫いていく。

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