第六話 豚骨ラーメン

「あなたは猫派? それとも食屍鬼グール派?」

 私はクトゥルフお母さんの質問にドキリとした。


          ◇


 今日の、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂は少し閑散としていた。人が少ないということもあったが、それ以上に商品が少ない。

「麓郎ちゃん、いらっしゃい」

 クトゥルフお母さんのあいさつもいつもより素っ気ない。

 というより、少し怒っているような、ピリピリした空気を感じた。


「クトゥルフお母さん、どうかしたの?」

 私が声をかけるとクトゥルフお母さんは少し嬉しそうな表情をした後、すぐにプンプンといった雰囲気に戻る。

 彼女のこめかみから伸びた角が心なしかいつもより長く、いつもよりクネクネとひねりが強くなっているように見えた。


「聞いてくれる、麓郎ちゃん。調理担当のおじさんたちが喧嘩しちゃって、大変だったのよぉ。調理室は血まみれだわ、商品も全然そろわないし、やってられないのよぉ」


 思った以上に大事になっていたようだ。

「大変だったんだね。なんだって、そんなことになっちゃったの?」

 私が質問をすると、クトゥルフお母さんは深々とため息をつく。

「ほんと、くだらないことなのよぉ。たけのこが好きか、きのこが好きか、みたいなねー」


 そして、冒頭の質問が出てくることになる。

「どっちがいいかで喧嘩しちゃったのよ。いいおじさんたちなのに」

 プリプリと怒っているクトゥルフお母さんに苦笑いを返しながら、いくつかの疑問を喉元で飲み込む。犬じゃなくて食屍鬼グールってどういうこと、なんて質問しないように。


 さて、選べる食べ物は多くはないが、どれを食べることにしよう。

 私は陳列棚を眺めた。

 豚骨ラーメンが残っていた。レンジで温めて固形スープを液体に戻すタイプのやつだ。これ好きなんだよなあ、と思い、手に取る。

 そのタイミングでクトゥルフお母さんが声をかけてくる。


「麓郎ちゃんは猫派? 食屍鬼グール派? どっちかしら?」


 そんな質問されても、食屍鬼グールなんて見たことがない。

 私には選択肢はないといえる。


「僕は猫派ですかねぇ。実家で猫飼ってたもので」


 そう答えるしかない。猫は可愛いし。


「あらぁ、猫派なのぉ? 実家で飼っていたのに猫派なのねぇ」


 クトゥルフお母さんは少し疑問を持ったように首を傾げた。

――ははは。

 いまいちよくわからないが、愛想笑いをしておく。


「猫は気をつけた方がいいわよぉ。骨だけにされたりするからぁ。でも、食屍鬼グールはそこまでじゃないのよ」


 何を言っているのか、いまいちわからない。私は引き続き、笑顔をキープしておく。

 そして愛想笑いのままレジにラーメンを持っていった。


          ◇


 ここで宇宙の真理について話したいと思う。

 私は今までこのコーナーで幾度となく酒の美味い飲み方を提示してきた。だが、今回は酒を飲まないことにしたい。

 ラーメンに合うのは酒ではなくて、水だ。それもラーメンを一心不乱に食し、食べ終わったタイミングで一気に水を飲み干す。

 これこそが最も美味いラーメンの味わい方であり、最も美味い水の飲み方なのだ。

 これが宇宙の真理である。


 チーン


 豚骨ラーメンをレンジで温め始めてから5分が経過した。レンジの警報とともにラーメンが出来上がったことがわかる。

 レンジから取り出し、ふたを取る。麺と具材の入ったトレーを傾け、スープに滑り落とす。これでラーメンは完成だ。

 豚骨スープの臭いが周囲に漂ってくる。博多の屋台に並ばなければ味わうことのできなかったこの感覚をご家庭で、しかもレンチンするだけでお手軽に味わえるのだ。ルリエーマートの素晴らしい技術力といえよう。


「いただきます」


 一人暮らしの虚空に言葉を発しつつ、割り箸を割る。そして、一礼をするとラーメンに向かう。


 まずは麺だ。汁物大好きなので本当はスープから行きたいが、スープから行くのは意識が高い、みたいな風潮があるため、逆にスープから行くのが躊躇とまどわれる。なので麺からだ。

 きくらげがたっぷり入っているため、麺を掬っただけできくらげが絡まってくる。最初の一口として贅沢だと思うが、「ええい、ままよ!」とそのまま口にする。

 麵のツルツルとした食感とともにきくらげのシコシコした舌ざわりが同時に入ってくる。頬張ると、まずコリコリしたきくらげの感触が口いっぱいに広がる。固めに茹でられた麺もしっかりコシがあり、食べ応え十分だ。


 麺を一口すすっただけで、もう幸せな気分になっている。ラーメンはなんて罪作りな食べ物なのだろう。

 その人生をラーメンのために費やし死んでいく者も少なくないだろうが、決して馬鹿にできない魅力を持っている。

 この一杯のために生きている、という言葉は酒のために作られた言葉だが、むしろラーメンに向かって唱えられたことのほうが多いのではないだろうか。


 続いてスープを飲む。

 熱気の伝わってくる熱々のスープから、豚骨の旨味が口いっぱいに広がる。そのクリーミィな味わいに恍惚とした気分になる。

 はたから見ていれば臭いとも思えるだろう、濃厚に熟成されたチーズのような芳香を鼻腔から存分に取り入れる。

 調和の取れた美味さ、それでいて刺激的。これこそ豚骨スープだ。


 麺を食べる。もう、自分がバキュームカーにでもなった気分で、とにかく吸い上げる。

 きくらげも美味いが、もやしのシャキシャキも素晴らしい。ネギの香りも脂でもたれかかった味覚をリフレッシュしてくれる貴重なものだ。

 そして、チャーシューだ。コンビニのラーメンに入ってるとは思えないほど肉厚。噛み締めると肉汁の旨味が口中に広がってくる。豚肉にはとろけるような美味さがあるが、この肉は格別で、大地の恵みをたっぷり吸い込んだトウモロコシのような甘さすら感じる。

 備え付けの胡椒をかける。ホワイトペッパーだ。まろやかでスパイシーな香りがさらなる食欲を引き寄せる。

 無我夢中でラーメンを吸い続ける。


 もはや麵も残り少なくなってしまったが、紅しょうがを入れることにした。

 豚骨ラーメンといえばやはりこれだ。

 強い酸味としょうがの我を忘れる独特の風味。これが豚骨スープに新風をもたらしてくれる。


 気がつくと麺はなくなり、私は残ったスープを飲み干すところだった。

 しまった。最近、太り気味だったのでスープは残すつもりだったのだ。

 そんな自意識が白濁とした旨味を凝縮したスープの前で続くはずもない。私はスープの虜となり、そのまま、完食してしまった。


 私はサイドテーブルに置いてあったコップを手にする。

 そして中の水をごくごくと飲んだ。食べている時は夢中で気がつかなかったが、塩分の濃いラーメンを食べたことで、のどがカラカラになっていた。

 純粋な水分が全身に渡っていくのを感じる。


 満足感で全身がいっぱいになった。


          ◇

 ガンガンガン


 玄関の扉を叩く音があった。私はビクッと体を震わせると、外の様子を警戒する。

 なにやら獣じみた咆哮が聞こえてくる。


 いったい、何が起きているのだろう。

 ふと思い起こすのは、クトゥルフお母さんとの意味のよくわからない問答だった。


 クトゥルフお母さんは私が猫派だと答えたことに疑問を覚えたようだった。

 また、食屍鬼グールは猫ほど過激じゃないと言っていた。これは猫ほどでないにしても、食屍鬼もまた危険であるという意味に捉えられないだろうか。

 そして、調理担当のおじさんたちが喧嘩した理由。これはどっちがペットとして可愛いかでなく、どっちが食材として優れているか、そんな争いだったのでは。


 私はバッとゴミ箱に飛びつき、今日食べたラーメンの成分表を見る。やんぬるかな、豚骨だと思っていたラーメンは食屍鬼グール骨ラーメンだった。

 今の今まで気づかないとは、なんという粗忽ものなのだ、私は。


 ガンガンガン


 獣の唸り声が前にも増して大きく聞こえ始めた。

 私の食べた食屍鬼グールの仇を討つために食屍鬼たちが攻めてきたのだろうか。

 そんな中、焦る私に対して、腹の中から囁いてくるものがあった。


「私はピックマン。リチャード・アプトン・ピックマン。ボストンで画家をしていたものだ。食屍鬼グールの愛好が過ぎて、私も食屍鬼になってしまったのだが、今は君の胃の中にいる身の上だよ」


 どうやら私の腹にいるのは元アメリカ人の食屍鬼グールらしい。喜ばしいことに彼は日本語に堪能なようだ。


「でも、食屍鬼グールって?」


 クトゥルフお母さんも食屍鬼グールがどうのと言ってたっけ? 私にはまったく知らない生き物だった。


「地下に住んでいる犬に似た種族だよ。主に死肉を好んで食べるのが特徴かなあ」


「死肉だって⁉︎」


 思わず声を荒げてしまう。その言葉からおぞましい姿を想像してしまう。


「そう、人間と同じ」


 あ、それもそうか。


「聞きなれない言語を聞いて不安に思っているかもしれないから教えてあげる。彼らは食屍鬼グールだよ。『よくも同胞を食べやがったな。カチコミに来てやったぞ。コラァ』と言っている」


 正体不明の存在に襲われるかもしれないという私の不安と恐怖は、彼の言葉によって食屍鬼グールからカチコミを受けているという具体的な不安と恐怖に変わった。

 さすが、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂だ。退屈と停滞という日常の危機に、こうして不安と恐怖というスパイスを与えて味わい深いものにしてくれる。私はクトゥルフお母さんの美しい横顔を思い浮かべて感謝する。


 とはいえ、このまま彼らに捕まるわけではない。ここは私の家なのだ。誰よりも地理を熟知している。裏から抜け出てしまえば、簡単に撒けるというものだろう。

 私は玄関に置いてある靴をそっと持ち出すと、反対側の窓に向かった。そして、窓を開ける。ここから逃げ出す算段だった。


 窓の桟に靴を置き、そのまま足をかけて靴を履く。そうして、そのまま外に出る。とっとと遠くへ歩いていく、つもりだった。

 だが、窓の周りにはすでに食屍鬼グールたちがずらりと並んでいた。

 犬のように飛び出た鼻、とがった耳、ゴムのような皮膚、ひづめのある足。手にはこん棒のような鈍器や棒切れを携えている。あたりにはカビのにおいが漂っていた。これが食屍鬼なのか。

 彼らは一様に私を睨みつけ、猛々しい雄たけびを上げた。


「『いい覚悟じゃねぇか。このまま八つ裂きにされるんだな』と言っているよ」


 ピックマンが翻訳してくれた。


「ピックマンさん、彼らをなだめてはくれないかな」

 ダメもとでお願いしてみる。

「えぇー、私を食べた君に義理立てする理由はないよ」

 当たり前の話だった。もう覚悟するしかないようだ。


 食屍鬼グールのリーダー格と思われるものがこん棒を振り上げる。

 それが振り落とされた時、私の人生は終わった。

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