第四十話 九州赤鶏の水炊き
日々、仕事をしていて思うのは自分の能力が不足していることだ。
才能がない、センスがない、といつも思っている。とはいえ、「センスなんて誰も持ってやいないのさ」。そんな言葉が救いになる。結局、みんな、自分にできる範囲で出来得る限りのものを作り上げているにすぎないのだ。
それ以上に思うのは知識がないこと。これはもう自分の勉強不足というほかない。努力不足、怠け癖がただ突きつけられる。
仕事を引き受けた時は、面白そうだ、できそうだ、と思うわけだが、進めていくうちに壁にぶち当たる。これはどういう意味なんだ、どういう構造なんだ、どういう背景があるんだ。不足した情報を埋め合わせるべく、資料を読みなおし、インターネットで検索し、関連書籍を斜め読みする。
そうして合っているかどうか不安なままに、精一杯の言葉を並べ、どうにか原稿を仕上げることになる。
今回引き受けた仕事も結局そんな羽目に陥っていた。
古代の文書を現代日本語訳にするというのが仕事の内容だったが、もちろん翻訳自体は専門家がやっている。私が担当するのはその訳文を現代日本語として整理・校正を行うことだった。
だが、あまりにも専門用語が多く、詩的な表現も多用されており、その内容はチンプンカンプンだ。なんとか、それを解読し、言葉を調べ、意味の通る文章に修正していく。まるで両者とも白石で囲碁をしているような、あやふやな気分のまま、正しいと思える箇所に石を打ち込んでいるかのようだった。
どうにか原稿をまとめると、バイオ鳩を呼び出し、メッセージを入れる。
「ご依頼いただいた
もう、後は野となれ山となれだ。この結果を編集者がどう評価するかはわからないが、これ以上、気に病んでも仕方がない。
ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に行き、今日の夕食をどうするか悩むことにしよう。
◇
ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。
「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。今日もお疲れのようねぇ。大変なお仕事をしていたんじゃないの」
クトゥルフお母さんが労いの言葉をかけてくれる。
「いやぁ、どうにか終わったんだよ。今日のところは羽を伸ばして豪遊しちゃおうかなあ」
私の言葉を聞いたクトゥルフお母さんの顔はニパっとした、爽やかな笑顔になる。大海原を連想する、透き通るような、それでいて雄大さを感じさせる笑みであった。
「さっすが、麓郎ちゃんねぇ」
今日は何がいいかなあ、そう心の中で呟きながら見渡していると、鍋のコーナーが目に入った。容器がそのままアルミ製の鍋になっていて、コンロで温めながら食べるタイプのものだ。
「鍋もいいなあ」
思わず口に出した。
「お鍋はどれも美味しいのよぉ。好きなものを選んでねぇ」
クトゥルフお母さんはニコニコしながら、案内してくれる。
「どれどれ」
見渡すとさまざまな鍋料理が置かれていた。
寄せ鍋、ちゃんこ鍋、辛味噌鍋、キムチ鍋、鳥団子鍋、モツ鍋、胡麻豆乳鍋……。どれも美味しそうで目移りしそうだったが、自然とそのうちの一つの商品に引かれていった。そして、その商品を手に取る。
「うふふ、麓郎ちゃんはそれを選ぶと思っていたわぁ」
クトゥルフお母さんの笑い声が心地よく響いていた。
◇
酒を飲もう。
祝杯なので特別なお酒だ。とはいえ、仕事の成果はどうなるかわからないので、あまり思い出したくない。ならば、酔えるお酒だ。
ヘルトック・ヤンというオランダのビールを用意していた。
ビールと言ってもアルコール度数が高く、麦のワイン、あるいはバーレイワインと呼ばれているとか。煮込み料理に合うとあるので、鍋にも合うだろう。
一口飲むと、すっきりとしたまろやかな飲み口だった。アルトビールのような苦みが押し出された味わいだが、それ以上に重厚さがある。
赤ワインのような後を引く旨味があり、ビールよりも強いアルコールの刺激は、なるほど麦のワインだという触れ込みも納得するものがある。
なんというか、普通に美味いな。まあ、普通のビールの5、6倍はするものだから、美味くなくては困る。
テーブルに置いたコンロで水炊きを火にかけていた。出汁が固形になっていて、熱で戻るタイプなので水を入れる必要もない。
水炊きが煮立ち始めた。煮こぼれないように注意して、火加減を調整する。
ビールを飲んでいる間に規定の時間が経過していた。さて、食べ始めよう。
まずは
まずは何はなくとも、肉だろう。赤鶏のもも肉を口に入れ、噛みしめた。ぷよっとした柔軟な歯ごたえがありつつも、口の中で溶けていくように砕けていく。それと同時に旨味がぎっしりと詰まった深い味わいが迫ってきた。肉の旨味が充溢しているが、鶏肉らしいカジュアルさもあって楽しめる美味しさになっている。
もちろん鶏肉だけでも美味しいのだけど、鍋は雑多な味わいが組み合わさってこそだ。一緒に野菜も食べていこう。
ネギのシャキシャキとした食感と際立った香り、それとほんのりとした甘さは、鶏肉と一緒に食べることで一線級となる。ニンジンのまろやかな甘さと先鋭的な香りは鶏肉の魅力を引き立てつつも、単調になりがちな肉の味わいに新たな側面を見せてくれた。
そして、白菜。大抵の鍋は白菜なしでは語れないのではないだろうか。出汁を吸い込み旨味を増したその葉野菜は、独特の香りと爽やかさで鍋の下地を支えている。白菜と一緒に食べる赤鶏もまたいいものだった。
この鍋に入ってる肉は赤鶏のもも肉だけではない。鶏団子も入っている。鶏団子! なんという甘美な響きだろうか。
鶏団子は噛みしめることで、そのボリュームたっぷりさに驚く。中身の濃いその味わいには誰しも驚嘆するのではないだろうか。さまざまな鶏肉の部位が組み合わさり、ネギや生姜などの香味野菜が惜しげもなく混ぜ合わされている。鶏肉の旨味は香味野菜の刺激でより高みへと引き上げられていた。
これはどんな野菜と一緒に食べても合うだろう。
しめじと合わせてみる。鶏団子の複雑な味わいはしめじを受け入れるし、しめじもまた鶏団子にシャキッとした独特な食感をもたらし、キノコらしい香りと旨味があらたな味わいをもたらした。
もちろん白菜やネギともよく合う。
これは美味い。思わず酒が進んでいく。
豆腐も食べよう。柔らかく温かい。豆腐らしい香りも豊かで、出汁とよく合っていた。
これもやはり複合だ。肉と一緒に食べても美味しいし、野菜と一緒に食べても奥深い。鍋は無限の可能性を見せてくれる。それが楽しみだった。
◇
鍋を食べ終え、出汁を飲む。残った出汁でうどんをつくろうかな、そう思った時だ。
頭が重くなった。目の前に鍋とコンロがあるが、それに気づかう余裕はなく、私はガクッとテーブルに額を打ち付け、鍋とコンロはその勢いで散乱した。コンロの火はすでに止めてあったのが不幸中の幸いだ。
持ち上げられない頭の中で様々な言葉が浮かんで、そして、消えないでいた。
情報の多さにパンクしそうだ。
それは呪文だった。あらゆる神々をこの地球に呼び寄せる呪文が響いてくる。
それは歴史だった。宇宙から飛来した生物、そして神々がこの地球をどのように蹂躙していたか。そして、地球本来の神々と生物はどう抗い、消えていったのか。
そは
はかり知れざる永劫のもとに死を超ゆるものなり
頭に詩が響いてくる。これはネクロノミコンの有名な二連句だ。日本語に翻訳したのは大瀧啓裕だったか。
しかし、私の頭には原文が響いてくる。原文ということはアラビア語か? いや、そうとも思えない、ゾッとするような奇怪な言葉だった。これは何語なんだ?
ここに来て、私が何を食べたのか理解し始めていた。
ネクロノミコン。死霊を操る秘法の綴られた本とされるが、実際にはそんな生易しいものではない。地球に起きたおぞましい真実の歴史が綴られ、邪悪な神々をこの地上に呼び出す方法が語られる忌むべき書物なのだ。
この書物はアラビアの狂える詩人、アヴドゥル・アルハズラットによって書かれたといわれる。それが人づてに伝わり、ネクロノミコンとして翻訳され、人々に広まっていったのだ。現在はミスカトニック大学の図書館に所蔵されているはずだが、この赤表紙の書物が水炊きに使われていたのだろう。
今もなお、私にさまざまな知識、知恵、情報が頭の中に入ってくる。
その中で、特に心を揺さぶるものがあった。
――ニャルラトホテプの化身には数式そのものがあり、方程式を解いたものにはニャルラトホテプが顕現するという。
――十二以上の神々を眷属に宿し、ニャルラトホテプを呼び出したものは彼のものの加護を受け、アザトホートの元へ誘われる。
――クルーシュチャ方程式を解いた者は血族にニャルラトホテプを宿らせることができた。
なぜか私の心を、いや魂を奮わせるものであった。
だが、それ以上の呪文、事物、歴史が私の脳を占めていく。次第に何も考えることができなくなっていく。脳が圧迫されていた。
「あ、あ、だから、お……父さんはあんなことを……」
理不尽な感情が理不尽で洗い流されていく感覚があった。
しかし、それが何だったかはもはや思い起こすことができない。
――アザトホートに謁見したものはその存在の根源を歪められるであろう。魂の歪んだものにこそアザトホートは寛大である。
私は死ぬよりも前に気が狂うのだろう。
真実は人間が受容できるようなものではないのだ。そして、それは私の行く末を見通しているようにすら思える。私に降りかかるのは、あまりに恐ろしく、おぞましく、悪魔じみていて、尊厳のすべてを奪われるほどの大いなる災難だ。そんな予感だけがひしひしと近い出来てくる。
さまざまな知識、知恵、情報を受け入れながら、私が真っ当に考えることができたのは、これが最後だった。
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