第二十七話 ステーキ重

 夜に散歩をするのが好きだ。夜の落ち着いた空気感が好きだし、静かなのもいい。人とあまりすれ違わないのも楽だ。

 夏場なら特にそうだ。灼熱の太陽を避けて、少しだけひんやりとした気温の中で歩くのは楽しい。

 昼間とはまるで違う町の様子を眺めるのはそれだけで面白いものだ。


 しかし、夜は恐ろしいものでもある。

 夜道で気をつけなければならないのは、暗がりではない。闇はすべてを覆い隠してくれる。どんな恐ろしい存在も闇の中にあるのならば恐れる必要はない。隠れているものなど存在していないも同じだ。それは私の前に立ちはだかることはないだろう。

 恐れるべきは光だ。月の明かりや街灯、それにお店や駅の明かりは隠されたものを露出させる。隠された真実が露わになる瞬間をこそ、人は恐れなくてはならない。


 私の目の前に奇妙なものがあることに気づいた。街灯がそれを照らし出した。

 歩を進めると、それが壁に書かれた落書きであることがわかる。どこぞのバカ者が書いたものなのだろう。

 私は大して気にも留めずに、そのまま歩いていたが、一つのことに気づいて、道を折れることにした。

 その落書きはなんらかの数式だった。私は数式を見るだけで気分が悪くなる。そうなる前に、その落書きから自分自身を遠ざけることにしたのだ。


 しばらく、また暗がりの道が続いた。しかし、ちょっと歩くと、急に視界がパッと開け、明るい場所に出る。それはルリエーマートの明かりだった。

 こんなところに、ルリエーマートがあったんだ。

 新しい発見に胸を躍らせながら、お腹が減ってきていることに気づく。ちょうどいい、ここで買い物していこう。


        ◇


 ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。

「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。もしかして、ここのお店は初めてだったかしら?」

 いつものようにクトゥルフお母さんが出迎えてくれた。でも、このお店に入ったのは初めてのことだ。ルリエーマートならではというべき不思議な感覚だが、新しいお店に入るワクワクと馴染みのお店の安心感が同時に味わうことができる。

「散歩したら見つけたから、入ってみたんだよ」

 私の言葉に対し、クトゥルフお母さんはにこりと笑う。薄くて、さっぱりした彼女の唇が血がしたたるように赤く輝いて見える。


「このお店は最近オープンしたばかりなのよ。でも、品ぞろえは充実しているからね。よく見ていって」

 クトゥルフお母さんの言葉に従い、私は店内を眺めていった。特に目当てのものもなかったが、お弁当コーナーを通りがかったところで、強く心を惹かれる商品があった。

「ステーキ重」だ。最近、ガッツリ肉を食べただろうか。それを思うと、この商品がとても魅力的なものに思えてきた。


「それにするのね。それも、調理のおじさんがこだわって作ったものなのよ」

 クトゥルフお母さんも太鼓判を押してくれたようだ。私はステーキ重を買って帰ることにした。


        ◇


 お肉に合うお酒は何だろう。今日、私はそんなことを考えるつもりがない。

 私の手元には、「29」なる日本酒がある。純米吟醸だが、有名な肉の産地である飛騨で作られた、肉に合う酒なのだという。


 とりあえず一口飲んでみよう。お猪口に一杯。

 まず香りはどうだろう。日本酒らしく透き通ったもので、あまり特徴は感じない。

 口に入れると、辛みと苦みが強く感じられた。こうなると香りも濃厚に感じられ、濃い味わいの酒なのだという事がわかる。

 美味いかどうかと聞かれたら、それに答えるのはやめておこう。


 ステーキ重に目をやる。厚いステーキが整然と並べられており、もはや見た目だけで美味しいとしか言いようがない。ステーキの下にはご飯が敷かれているわけだが、肉汁が滴り落ちて、白飯にかかっている、その有様を見ているだけで、もうご飯が何杯か食べられそうだ。

 つまり、見るだけでお腹が減る。もう腹ペコだ。


 一切れのステーキを箸でつまみ、口元に運ぶ。口の中に入れ、口の中で半分に噛み切る。肉汁がブワッと口の中に降り注いできた。旨味たっぷりの肉汁が舌や口内にかかるだけで、もう幸せな気分になってくる。

 ステーキ肉をむしゃぶり食べる。噛みしめるたびに肉汁が広がり、濃厚な味わいとともに噛み応えのある肉の野性味、赤身の肉らしい旨さ、脂身のジューシーさがどんどん私の脳を占めていく。

 今、私は肉を食べているんだ! 本能的な喜びが私を支配していた。


 しかし、私を支配しているのは本能だけではない。ステーキのスパイシーで甘辛い味付けは私の別の心を刺激する。それは日本人としての心だ。こんな濃い味付けのものを食べてしまったら、白米を求める私の郷土愛がビシビシと刺激されて仕方ないのだ。

 すでにステーキソースと肉汁にまみれたご飯を私は口の中に放り込んでいく。肉とソースによって生まれたエネルギーは白米を咀嚼することでしか休まることはない。少しバターとニンニクの混ざり、ガーリックライスのような体になっているが、それでも求められる役割は白飯なのだ。


 一通り、ステーキとご飯を食べきると、私はひと心地つく。思った以上に、この料理は丼ぶりものといえた。

 そして、「29」なる日本酒を喉元に流し込む。うん、赤ワインの方が肉料理には合うな。


 それでも、私とステーキ、ご飯の戦いは終わらない。丼ぶりとは永遠の戦いである。

 肉を食べる、その勢いのままご飯を食べる。これは永遠に続くとも思える様式美なのだ。

 引き締まった肉の旨味は私に活力を与え、甘味さえ感じさせる脂身は私の身体に跳躍力を与えるかのようだった。西洋的な旨味を凝縮させたソースは牡牛が突進するような突破力を与え、ご飯を食べる時には翼が風を捉えているかのようだった。


        ◇


 そして、まさにその通りのことが起こっていた。いや、少し違う。その通りのものに捕らえられていた。


 私を捕らえているのは真っ黒な奇妙な生物だった。その肌はゴムのよう、というと少し違う。巨大な水棲の生物、そうクジラの肌のようだといった方がいいかもしれない。クジラに触ったことはないけれど。

 その生物は蝙蝠こうもりのような翼を持ち、牛のような角が生えていた。その足は蛙か走り幅跳びの選手のように、太ももが筋肉に覆われ、凄まじい跳躍力を発揮しそうだ。


 真っ黒な生物は私を抱えたまま跳躍し、気づいたら夜の空を滑空していた。その翼によって完全に揚力が捉えられており、安定した飛行に入る。

 しかし、どうも体勢が悪い。私の右腕は肘をついていたせいか、肘が曲がったままの姿勢で掴まれてしまっている。さらに左足のつま先が腰と一緒に掴まれており、なんだかよくわからない姿勢になってしまっている。

 私は体勢を正すために、どうにかならないかと体をごそごそと動かそうとしていた。


 体を動かしながらも、ひとつの疑問が頭をよぎる。

 この生き物は、いったい何だ?


 思い当たるものは夜鬼ナイトゴーントであろうか。

 ドリームランドを主な生息地とするクリーチャーであるが、人類の及ばぬ荒涼とした場所を根城とし、自らの領域に入るものだけを攻撃するという。

 大いなる深淵の大帝ノーデンスに仕えるとされ、ニャルラトホテプに使役されるシャンタク鳥とは敵対的な関係にありながらも、互いに静観し合う関係を崩さないといわれる。

 そして、その主な攻撃方法は――、


「ゲェフェッゲフェッフェッフェッフェッ」


 夜鬼の尻尾が私をまさぐっていた。それは、まさにくすぐりのようなもので、私は堪えきれずに笑いだしてしまう。


 そうだ。夜鬼の主な攻撃はくすぐりなのだ。

 抵抗さえしなければ、いずことも知らぬ場所に連れ去るだけだが、抵抗するものは高所から容赦なくくすぐり落とされてしまう。

 私は体を動かすことをやめ、為すに任せることにした。


 やがて、私はいずことも知れぬ場所に置き去りにされた。

 どこかわからぬが、崖のような高所である。私は肘が曲がった姿勢で、左足のつま先が腰にあるような姿勢のまま、崖の上で放置された。まるで、山羊が断崖絶壁に上って呆けているような、そんな場所にである。

 あまりに高い場所のため、下を見ても空と雲が見えるばかりで、地上らしい場所は目を凝らしても見えることがない。


 ここにいても、何らかの助けが来るとは思えない。しかし、身動き一つ取るだけで真っ逆さまに落ちてしまうことだろう。

 ただ、断崖絶壁に佇みながら、私は自分の握力が尽きるのを待ち続けるだけである。

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