第三十四話 台風コロッケ
季節外れの台風が来ていた。いや、毎年、このくらいの時期に来るものだったっけ。一、二年前のことだが、いまいち判然としない。
人間の記憶というのはあやふやなものだ。……これは私だけの問題だろうか。
朝から空が暗かったが、夕方になる頃には雨が降り始めていた。風はガタガタと窓を揺らす。しかし、心配する必要はない。
コロッケを買ってある。台風が来たときはコロッケを食べるべし。これは古来より伝わる風習である。
なぜコロッケなのかは判然としないが、やはりその保存性、食べやすさ、栄養バランス、エネルギーになるスピードなどを考慮して、コロッケが選ばれているのだろう。先人の知恵とは侮れないものがある。
我々はただ、この叡智を
安心して今日の仕事をしよう。
そして数時間。私はひとつのことに気づいた。コロッケを買ってきていると言ったが、買ってこようと思っていただけで買った記憶がない。何を言っているのかわからないかもしれないが、これからコロッケを買ってこなければならないのだ。
家のドアを開けると、風の音が一層はっきりと聞こえてくる。雨の音も激しい。何よりも降りかかってくる雨の量が半端ない。
私は傘を差し、風に翻弄されながらも、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に向かうことにした。
◇
ルリエーマートまでの道のりが遠い。
傘を差してはいるが、風が強いのであまり意味のない行為である。横風にさらされてもうびしょ濡れだ。さらに悪いことに特に何も考えずサンダル履きで来てしまった。水溜まりに入るたびに直に足に水が入ってくる。すでに足もふやけているようだ。何より、強風で煽られて満足に歩くことができない。
「あらぁ、麓郎ちゃん、ずぶ濡れじゃない! もう、こんな日にも来るなんて!
ちょっとタオル取ってくるから待っててねぇ」
いつになくクトゥルフお母さんが慌てて出迎えてくれた。そして、指先で印を結ぶと奇怪な図形を描き、それが糸のような形状を取ったかと思うと、たちまちに縫い合わせるようにタオルとなっていた。私はそのタオルで濡れた全身を拭いていく。
「台風だからさ、コロッケを買いに来たんだよ」
私がそう言うと、クトゥルフお母さんは少し呆れたような顔をしたが、すぐにいつもの笑顔になる。この
「コロッケなら、ホットスナックコーナーにあるのよぉ。ゆっくり見ていってねぇ」
そうしてクトゥルフお母さんに案内される。
「結構種類多いんだなぁ」
思わず呟くと、クトゥルフお母さんがいつものニコニコした笑顔を返してくれた。
「このコーナーも、調理担当のおじさんががんばってるからねぇ」
私は少し悩みながらも、コロッケを選び、レジを後にする。
そして、再びルリエーマートから家までの長い道のりへと進んだ。
◇
ずぶ濡れになり、帰ってきたばかりだが、とりあえず酒を飲もう。
今日はスパークリングワインを飲みたいと思う。これまで、ワインを取り上げることはなかったが、別に嫌いというわけではない。
ただ、ワインは奥が深くて複雑な(ような気がする)ため、取り上げるのに躊躇していたのだ。名前もやたら長いので覚えられない。
だが、こんな私でもいいワインの見分け方はわかっている。蓋を開けて、グラスに注ぎ、飲んでみて、美味しかったら、それがいいワインなのだ。
なぜスパークリングワインかというと、うちにほかの酒がなかったからだ。これを買った時の私は祝杯でも上げたい気分だったのだろうか。しかし、結局飲まないで放置している。昔の自分のやることはよくわからない。
これはMVSA(ムッサ・カヴァ・ブリュットNV・ヴァルフォルモサ)とかいうやつだ。やはり、無駄に名前が長い(無駄かどうかは知らんけど)。これがいいワインなのかどうなのか、わからない。だが、本当にいいワインかは飲むまでわからないものなので、それでも問題ない。
まずは蓋を開ける。これがなかなか難しい。
紙の包みを剥がすと、コルクを締めている針金がある。布巾で抑えつつ針金を緩めるのが正しいのかもしれないが、面倒なので指で押さえるだけにした。しかし、完全に緩めたにも関わらず栓が開かない。
こんなものだっけ? と思いつつ、さすがに怖いので布巾を取ってきて、抑えながらコルクを引っぱる。スポンと栓が抜けた。
グラスにスパークリングワインを注ぐ。シュパシュパと泡立ち、やがて泡が消える。淡い黄色に輝くいい色だ。
そのまま、一口飲む。味わいはいいように思えるが、雑味というか、酸っぱさの中に邪魔な香りがあるような印象があった。炭酸なのでのど越しが良く、疲れが癒されるようだ。
どうだろうなあ、そんなに良くないワインかなあ。
さあ、そろそろコロッケを食べよう。
今日買ってきたのは、肉入りコロッケ、野菜入りコロッケ、カレーコロッケの三種類だ。しかし、三つが同じ紙袋に入っているので、どれがどれだかわからなくなってしまった。
まあ、いい。適当に食べていこう。
コロッケを手づかみにし、豪快にかぶりつく。サクサクした衣の歯ごたえが心地いい。その中からはジャガイモのふっくらとした温かさ、甘さを伴う優しい味わいがある。牛肉の重厚な旨味もあり、食べ応えがあった。
これは肉入りコロッケだったようだ。衣についた油の味もいい。さすがルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂だ。いい食材を使っている。
そして、ジャガイモの高揚感もすごい。クリームコロッケも美味しいが、台風の轟音を聞きながら食べるコロッケはジャガイモメインであってほしいののが人情だろう。
ここでスパークリングワインも飲む。コロッケの油を洗い流すようにアルコールを流し込んだ。
炭酸の爽やかさと酸味のあるワインの味わいに気分が良くなってくる。慣れてくると飲みやすいワインだとわかった。まあ、普通のワインかな。
一つ食べ終えたのでもう一つのコロッケに手を出す。噛みしめた瞬間に、シャキシャキっとした独特な歯ごたえを感じる。これは
これは野菜入りコロッケだ。やはりジャガイモの甘さ、食べ応えもあり、ジャガイモと牛蒡だけなのに十分に美味しい。
ここでスパークリングワインを飲んで、気分をリフレッシュ。
そして、窓がガタガタと揺れる音を聞く。台風が本格的になってきていた。不謹慎かもしれないが、台風が来るとワクワクしてしまう。
さて、最後の一つ。口に入れた瞬間に、馴染み深いカレー味がガツンと入ってくる。これは美味い。
スパイシーな今風のカレーというよりは、甘く、柔らかい味わいの、昔懐かしいカレーといった印象だ。コロッケにはこういうカレーの味わいがよく似合う。ジャガイモだけでなく、ニンジンも入っていて、その甘さもよりまろやかなものになっている。野菜の甘さって優しいよなあ、と実感させてくれた。
◇
私はその様子に奇妙な心地よさを感じつつ、スパークリングワインの残りを飲み干していた。だが、突如、胃の中に空気のようなものが発生し、ゴオォォっという轟音とともに口の中から吐き出される。
その一瞬、巨大な人間のようなものを目撃した。目は赤く、その手足は水かきのように見える。まるで歩くかのように、私の吐き出した空気の渦を進んでいた。歩くような所作であるにも関わらず、そのスピードは異様なほどに速かった。
ブフゥゥ
気づいたら、私の家の天井が、いや、上の階も含めたすべてが吹き飛んでいた。この台風の最中で風雨にさらされてしまう。そう思ったのだが、雨も風もすでに止んでいた。
いつの間にか過ぎ去ったのだろうか、それとも、台風の目に入ったのだろうか。ただ、不思議なのは、夜だというのに空は赤々と光り輝いているのだ。
ヒュウゥゥゥゥ
突如、風が吹いた。
私はその風に巻き込まれ、空中を舞い、いずこかに飛ばされる。
ここに来て、私はこの存在が何者なのか理解し始めていた。
イタクァ。風に乗りて歩むもの。歩む死。
地面を踏みしめるように大気を歩き、世界中を瞬時に移動する風の神だ。そのものの巻き起こす風は人々を攫い、見知らぬ土地に連れ去るという。失踪事件の多くはイタクァが関わっているといわれるくらいだ。
私が食べたコロッケがイタクァだったのか。それとも調理担当者がイタクァだったのか。それはわからないが、私はイタクァによって、どこか知らない土地に連れ去られるのだろう。
ズサッ
私はどこか知らない場所に振り落とされた。
真っ暗やみでここがどこなのかわからない。息苦しく、ただ寒い。
だが、少しして、自分がどこにいるのか、私は理解することができた。
砂と土とクレーターで構成された大地が果てしなく広がっている。そして、空を見上げると、青く美しい星が光り輝いていた。
ここは月だ。それを把握すると、酸欠と寒さにぐったりして倒れ込んだ。
仰向けになりながらも青い星を見上げる。あれが私の故郷だったのだ。哀愁を感じながらも、私の意識は薄くなっていった。
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