第九話 ドライカレー

 最近、運動不足だ。

 どんな運動がいいか考えるが、結局歩くのが一番という結論になる。走るのは心臓を酷使するし、ボクシングをして長生きをした人は少ない。人間、生きていく上で一番自然な動作をするのがいい、と思ってしまうのだ。あと、球技は苦手。


 そんなわけで、最後に回った会社から歩いて帰ることにした。2時間ほどかかる。なかなか、いい運動になりそうだ。

 決して貧乏だから交通費を節約したいわけでない。……本当ですよ。


 しかし、最近はどうも暑い。歩いているだけで汗だくになる。

 ふと、今日の晩御飯はどうしよう、と考える。暑くて何かを食べたいという気分にならない。

 こういう時は食欲を促進するスパイシーなものを食べるべきだろう。例えばカレーとか。


          ◇


 ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。(※この文面はコピペしてないです。実際に打ち込みました)

「麓郎ちゃん、いらっしゃい。最近、暑くなってきたわねぇ。あらぁ、汗びっしょりじゃないの。運動でもしてきたの?」

 2時間歩いてきました、とも言えないので笑ってごまかす。


「今日は辛いものが食べたい気分なんですが、何かありますか?」

 そうきくと、クトゥルフお母さんは首をかしげる。

「そうねぇ。冷凍だけど、これなんかどうかしら」

 クトゥルフお母さんが案内してくれた冷凍コーナーにあったのはドライカレーだった。デスソース付きと書いてある。

「これ、ソースもかけると結構辛いのよぉ」

 クトゥルフお母さんはそのあおい眼をギュッとつぶって辛さを表現する。


 なんだか、今日の気分にぴったりだと思えた。

 クトゥルフお母さんのオススメに従って、このドライカレーを買うことにする。

 そのことを伝えると、クトゥルフお母さんはにっこりと微笑んだ。

「よかったぁ。よろしくねー」

 少し変な喜び方だが、私は特に気にせずレジに進んだ。


          ◇


 ドライカレーを皿に移しレンジで温める。

 その様子を眺めながらビールを開けた。今日飲むのはハイネケンだ。

 カレーを食べるのでインドの酒がいいと思ったが売ってなかったので、ハイネケンにした。オランダ原産の酒だ。インドもオランダも大して違いはないだろう。


 ハイネケンを瓶のまま一息に飲む。ひたすら歩いて汗をかいたので、ビールの冷えた炭酸が喉を突き抜けていく。言いようのない快感が全身を駆け巡る。美味い!

 落ち着いて、もう一口飲んだ。苦みと酸味が強い味わいだが、その奥にほのかな甘みも感じられる。

 ハーブのような香りも爽やかだ。いいお酒ですね。


 チーン


 さて、ドライカレーができあがった。ドライカレーにはキーマタイプのものとピラフライプのものがあるが、これはピラフのように米にカレーの味付けをして炊き込んだものだ。鮮やかな黄色にニンジンの橙やピーマンの緑色が映える。

 別入りの袋にデスソースなるものが付いている。これは後で入れるとして、まずは素の状態で味わってみよう。


 口に入れる。カレー独特のスパイシーな食欲を掻き立てる。ニンジンやピーマンがいいアクセントになっている。

 もう一口。ゴロンとした肉が入っていた。淡白ながら良質な旨味。鶏肉だろうか、贅沢な味わいだった。翼の生えた獣の肉だからなのか、噛みしめるごとに体が軽くなっていくような感覚がある。風の息吹を感じる、なんていうと柄にもなくロマンチック過ぎるだろうか。

 二口目。今度も肉が口に入るが、これは弾力のある独特なものであった。これはタコだろうか。不思議なことだが、歯ごたえはまるで違うのに、先ほどの鶏肉と同じ良質な旨味を感じられる。こんなタコを食べたのは初めてだった。カレーと絡めてあるため、このような不思議な味わいになっているのだろうか。


 素晴らしく調和の取れた一品であった。

 その完成度の高さはさながら一流のオペラ、ミュージカルを観劇しているかのようだった。

 荘厳で美しく、それでいて陽気な音楽が聞こえてくる。舞台には華麗できらびやかな役者たち。その中央には目も眩むほどに鮮烈な衣装をまとった黄衣のマハラジャ。彼らが一糸乱れずに均整の取れたダンスを踊っている。

 そんな錯覚さえ抱いたほどだった。


 ここで温存していたデスソースをかける。血のような真紅に輝くソースがドライカレーにまぶされる。

 これをかき混ぜて味の偏りをなくす。

 食べる。全身に警告が鳴り響いた。辛い!


 私はかき混ぜてしまったことを後悔した。

 そして、私の全身が訴える。この食べ物は危険である、と。まるで野生動物が火を恐れるがごとく、私はこのドライカレーに畏怖を抱いていた。スプーンに乗ったこの食べ物が怖い。口に運ぶのが怖い。

 だが、それと同時にカレーの旨さ、肉とタコの鮮烈な味わい、そして、抗うことのできない辛さへの飢えも確かに感じている。

 私は恐れながらも、それを口に入れる。


 辛い! しかし美味いのだ。

 私は恐怖と恍惚を同時に感じながら、ドライカレーを貪り食う。それはスポーツのように激しい運動だった。それは戦いのように力を振り絞る行為であった。

 全身が汗だくになる。とくに頭から湧き上がる汗が止まらない。タオルで汗を拭きながら、舌にしびれるような痛みを感じながら、最期の一口を咀嚼した。

 全身から力が抜ける。

 私はドライカレーを完食したのだ。


          ◇


 全身をけだるさが支配していた。辛いものを食べた後はだいたいこうなる。

 まるで大きな仕事を片付けた後かのような、まるで相当な運動量のスポーツを終えた後かのような、とてつもない疲労感があった。


 次第にこの倦怠感は高まっていく。私は何もしたくなくなっていた。

 椅子に座っていることすら億劫だ。私は椅子から降り、そのまま寝そべった。寝床に行くのが正しい行為なのかもしれないが、歩くことすら煩わしい。

 私はフローリングの床に直接うつぶせになり、その冷たさを感じた。

 だが、次第に寝そべっていることすら、かったるくなってくる。


 あまりにもだるいので、私は自分の体に皮があることさえ辛くなっていた。そして、その感情に呼応するかのように、次第に、体中の皮が自然に剥がれ落ちていった。

 ああ、これで少しは楽になる。

 しかし、それもつかの間、筋肉が体を支えていることも鬱陶しく感じる。その気持ちに応じて、私の全身の筋肉はポロポロと崩れていく。同時に贅肉もドロぉーと溶け始めた。


 こうして考えることも面倒くさい。私は考えるのをやめることにした。

 すると、私の眼前に黄衣の王が現れた。黄衣の王は全身にタコのような触手で覆われた蜥蜴のような姿をしているようにも見えた。私の食べた鶏肉もタコも黄衣の王だったのか。そう納得する。

 黄衣の王……その名はハストゥール……。たしか、クトゥルフお母さんの半兄弟で……

 ……退廃……虚無……怠惰……を司る神……

 あ、もうこれ以上考えたくない……

 考えるのが……だるい……

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