第十話 バウムクーヘン
今日は一日中机にしがみつき、集中して作業していた。
これが執筆作業なら、まだ楽なのだけれど、とある作家さんの書いた原稿の校正作業を依頼されていた。
とても有名な作家さんで、報道番組やワイドショーにコメンテーターとして呼ばれることも多い。風の噂では、貴族院議員として政治家にならないか打診されているとか。あるいは、今度の東京国代表国王選に立候補する、なんて話も耳にする。
しかし……。
はぁぁー。
私はため息をつく。何がつらいって、彼の文章、すっごく下手なのだ。
ずっとこんな原稿でジャーナリストだとか作家なんて名乗ってこれたのだろうか。それとも、
これをまともなものにすることも私に依頼された仕事のうちだった。
しかし、どうにも詰まってしまうことがある。そんな時は部屋中を歩き回ったり、お茶を入れてみたりして、アイディアが湧くのを待つのだが、次第にそれも効果がなくなってきていた。
ジャーナリストに必要なのは取材力で、その売り上げは扱う題材がいかに世間に迎合したものかによる。作家に必要なのは作家性――つまり、企画力や演出力、いかに面白くキャッチーなストーリーを組み上げられるかによる。ジャーナリストや作家にとって、文章力なんて優先度の高くない能力なのだ。
裏返せば、それらの能力のない底辺ライターに仕事が来るのは、彼に文章力がないおかげともいえる。
しかし、それでも、目の前の文章を読むたびに、本人を呼んで文句の一つも言いたくなってくる。
何回も読み込んで意味はかろうじてわかる。それでも、文と文とが不必要に絡まり、意味もなく難解になっているのをどう直せばいいのだろう。考えるほどに頭が痛い。
事あるごとに自慢話が挟まるのも邪魔だし、それでいて時折言い訳が入ってきては作者の自信のない箇所が丸わかりだ。こんなところ、まるまる削除するしかないじゃないか。
常体と敬体が交ざり合っていることもあり、こんな基本もわかってないのか、と言いたくなる。
どうにもイライラが収まらなくなっている。
ふと、時計を見ると午後三時に近づいていた。そうだ、糖分が足りないのだ。
私はルリエーマートのお母さん食堂に行くことにした。
◇
「あらぁ。麓郎ちゃん、いらっしゃい。今日は随分早いのねぇ。おやつでも買いにきたの?」
ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に着くと、クトゥルフお母さんが出迎えてくれた。
「ちょっと仕事詰まっちゃってね。脳に糖分めぐらせないと、仕事にならないんだよ」
それを聞くと、クトゥルフお母さんはニッコリ笑った。
「頭を使うお仕事ですもの。甘いもの、食べなきゃね」
クトゥルフお母さんがデザートとお菓子のコーナーに案内してくれた。
シュークリーム、エクレア、ワッフル、クレープといった洋菓子もあれば、どら焼きや大福、たい焼きといった和菓子もある。
種類が多いので、どれを選ぶか迷ってしまう。
「うーん、どうしよう。
クトゥルフお母さん、どれかオススメってある?」
それを聞いたクトゥルフお母さんは少し考えたあと、ふふふと笑った。
「昨日はドライカレーだったから、今日はこれ。バウムクーヘンがいいかな」
そう言うとクトゥルフお母さんは人差し指をピンと立てて悪戯っぽい笑みを見せる。人差し指から伸びた触手がうねうねと蠢く。
ドライカレーの次がバウムクーヘンというのはよくわからない。けれど、クトゥルフお母さんが勧めてくれたものなので、間違いはないだろう。
私はバウムクーヘンを買うことにした。
◇
まずは紅茶を用意する。
紅茶には何を入れるだろうか。ミルク? レモン? 今回はブランデーを入れたい。これは数滴で十分だ。
紅茶の格調高い豊かな香りを味わうと同時にブランデーの芳香も楽しむことができる。これは素晴らしい贅沢だ。三時のおやつとしてこの上ない時間を過ごすことができるだろう。
一口飲んで、なんとなくブランデーが足りない気がするので追加しておく。
バウムクーヘンとは樹木(バウム)のケーキ(クーヘン)という意味で、樹木の年輪のように円形が連なった形が特徴的だ。
ドイツのお菓子として日本ではおなじみだが、実際にはドイツでそこまでメジャーなお菓子ではないらしい。あくまで一地方のお菓子であって、ドイツ人全員が食べているものではないとか。
なので、実はバウムクーヘンは日本で日本人用にカスタマイズされたお菓子という側面が大きい。
買ってきたバウムクーヘンを皿に移した。
木目のような生地が美しい。円の外側にある皮の部分にはザラメ状の砂糖がまぶしてある。そして、特徴的なのは赤い木の実が生地の中に埋め込まれていることだった。木の実は今にも芽吹こうとしているかのように、カタカタとした動きをしているように見える。
まずは砂糖のまぶされた皮を避けて食べてみる。
甘さは控えめだが、バニラのような甘いエッセンスが口の中に充満する。その風味だけで満足できそうだった。重層的な歯ごたえがあり、なるほど、木の目をかたどっているがゆえの特徴的な食感を味あわせてくれる。
そして何より赤い実だ。酸味のきいたほのかな甘さが違和感なく入ってくる。これも甘すぎるようなものではないが、主役のようでもあり、アクセントのようでもあり、このバウムクーヘンになくてはならないものになっている。
ここで一口紅茶を飲む。ブランデーの香りが強くなっており、紅茶に負けないものになっている。そして、バウムクーヘンで甘くなった口をリフレッシュしてくれる。
しかし、もう少しブランデーを入れた方がいいかもしれない。とくとくとブランデーを追加で注ぎ込んだ。
ざらめ砂糖のまぶされた皮部分を食べる。
強い甘さと豊かな風味、そしてカリカリとこんがり焼けた皮の食感。それぞれが合わさって極上の菓子というべき味わいだった。
さらに豊かな生地の味わい深さも追加される。赤い実の爽やかな旨みが清々しい気分を与えてくれる。
おやつというのは何と楽しいものだろう。こんな感覚は久しぶりだった。
甘いものというのは、どうしてもすんなりお腹に入ってしまう。
満足感と、少しの物足りなさを感じつつ、紅茶を飲む。ガツンとしたアルコールが入ってくる。
どうやら紅茶にブランデーを入れ過ぎてしまったらしい。
しかし、ブランデーを入れ過ぎて、紅茶入りのブランデーになってしまうのは世の常。ヤン・ウェンリーだってそう言っている。
◇
気づいたら酩酊していた。
今日はもう仕事できないかもしれない。そう思いつつウトウトしていた。
そんな中、急激な痛みが走る。
何かが胃から食道、喉元を走る。それはそれぞれの位置を直線で進んでおり、胃、食道を傷つけ、それに頓着することはない。私は頭上を見上げながら、それが私の喉元から生えてきているのを見た。
それは植物だった。
私の胃から根が生え、食道を茎が通り、私の喉元から赤いつぼみが顔を出そうとしている。
これはヴルトゥームか。私はそう思った。
宇宙の外側から飛来し、火星にその根を伸ばし、火星の洞窟でひっそりと暮らしながらも、火星のすべてを支配する神。
妖精のような美しい花、強壮なる巨大な幹、そして星中にめぐらされる屈強な根を持ち、時に星を繁栄させ、時に星を滅ぼすという。
胃から生えた根は次第に私の体中を巡る。
小腸を、大腸を、様々な臓器を根がむしばみ、腕を、手を、足を、根が支配していった。
その激痛に悶えながらも、私は自分の中の栄養、活力のすべてが吸い込まれていくのがわかる。
私の養分を吸い上げて赤い花を咲かせようというのだろう。
私の足の先、手の平が次第に干からびていく。私の太ももの肉も失われ、骨もスカスカになる。椅子に座る力も失われ、私は倒れ込んだ。
私の体を支える強度はすでに失われており、私の足が、腕が、胸が、瞬く間に砕け散った。
しかし、私の四肢以外に私を支えるものがあった。
ヴルトゥームの根はしっかりとこの場所に根付いており、さらにまっすぐに伸びた茎は幹と呼ぶのが相応しいほどに成長していた。
幹は私の食道や喉には収まりきらず、やがてそれらを破って巨大な樹木になっていく。
意識を失いそうになりながらも、私は頭上を見上げ続けている。
ヴルトゥームの幹に支えられながら、赤いつぼみが開花しようという瞬間を見つめていた。
花が咲く。赤い、妖精のような花。
美しかった。この花を見るためにバウムクーヘンを食べ、全身の栄養をヴルトゥームに捧げたのだ。私の人生はこの花を見るためにあったのだ。
ふと、妖精の顔が見えたような気がした。
その顔は――、どこかクトゥルフお母さんに似ていた。
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