第十一話 イカの塩辛

 仕事がひと段落ついた!

 データの転送も終わり、晴れて自由の身だ。

 私は椅子から立ち上がり、両腕を上げて体を伸ばす。


「しかも、こんなに早く終わった!」


 一人暮らしの虚空に向かって叫ぶ。

 時計を見ると、まだ午前2時を回ったばかりだった。


 正確に言うと、締め切りは昨日までだった。

 だが、一日というものをよく考えてみてもらいたい。会社人にとって、一日が始まるのは、会社に来てPCを起動して、データを確認する時ではないだろうか。伝書バトを確認する時といったほうが正しいかもしれない。

 つまり、それまでは一日は始まっていないのだ。

 大体の場合、午前9時か午前10時までは昨日といっていい。これまでにデータを送ってさえいれば前日に仕事を終えたと胸を張ることができる。

 だからこそ、午前2時に仕事が終わっているというのは快挙といえるのだ。


 私はウキウキとした気分でルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂へと向かっていった。


          ◇


 ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。

「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。こんな時間になにぃ? まだ起きていたのねぇ」

 クトゥルフお母さんが出迎えてくれた。なんだか眠たそうに長方形の瞳をぼぉーと漂わせている。

「ちょうど仕事が終わったところなんだ。クトゥルフお母さんこそ、こんな時間までお疲れさま。眠いよね」

 私があくびをしながら返事をすると、それがうつったかのようにクトゥルフお母さんもあくびをした。


「それは、それはお疲れさまぁ。はゎあ、眠いわよねぇ。一仕事終わった麓郎ちゃんは何が欲しいのかしら?」

 クトゥルフお母さんの問いに対して、実は考えてきていた。

 陳列棚を見渡して、ひとつの商品を手に取る。

「これに決めていたんです。今日はこれしかないって」

 その様子を眺めていたクトゥルフお母さんは眠そうな気配を飛ばして、急に笑い始める。

「うふふふふふ」

 それは満面の笑みだった。


「どうしたんですか、クトゥルフお母さん?」

 私の問いかけにクトゥルフお母さんは我に返ったようだ。冷静な顔になりながらも、私の顔をまじまじと見る。

「ありがとう。麓郎ちゃんはわかってるわよねぇ」


 私はクトゥルフお母さんの言葉を理解し切れないまま、レジに向かう。

 手に取った商品は、イカの塩辛だった。


          ◇


 食事の準備をしつつ、酒の用意をしよう。


 皆さんはマティーニをご存じだろうか。カクテルの王様とも称されるお酒なのだが、実際に飲んだことのない人も多いのではないかと思う。

 なので、今日はその作り方を伝授したい。


 まず、マティーニに必要なのはジンだ。これを用意してもらいたい。

 なんでもいいと言いたいが、個人的な好みで言えばゴードンを推す。ほかのジンとの違いは、ハーブの香りが強く、加えて安価なことだ。スーパーなどの量販店で売られていたこともあったらしいが、今では一般で販売されていないので通販で頼むのがいい。


 最初に、ジンにベルモットワインを適量入れる。

 そして、ミキシンググラスに入れて氷と一緒にシェイクする。ポイントは氷が解けてジンと混ざらないようにすることだ。この工程は速ければ速いほどいい。

 カクテルグラスに注いで、オリーブを飾れば完成だ。


 だが、この製法は正直まどろっこしい。真の製法を伝えよう。

 まず、ジンを冷凍庫に入れる。アルコール度数が高いので凍ることはない。何日でも何カ月でも入れっぱなしでいい。

 そうして冷えたジンをグラスに注ぐ。冷えたジンはとろとろになっている。注ぐ時点でそれを実感できるだろう。

 そして、グラスのジンを飲めばいい。

 ベルモットだのオリーブだのは飾りに過ぎない。これだけでマティーニの美味しさを感じ取れる。嘘だと思うなら、やってみるといい。


 お酒は用意したので、次はつまみだ。

 実はジャガイモをふかしておいた。ふかしたジャガイモを皿に盛りつけ、バターを乗せる。バターはジャガイモの熱さで溶けていった。そこに塩を振りかけよう。

 仕上げに、イカの塩辛をジャガイモに乗せた。

 これぞじゃがバターの完成形といっていいだろう。


 まずはイカの塩辛に手を付ける。クトゥルフお母さん食堂の塩辛だ、当然のようにピチピチと動いている。新鮮なイカを塩辛にすると、こうなるものだ。

 そのピチピチしたイカを箸で挟む、そしてピチピチしたままのそれを口までは運ぶ。イカが口の中で跳ねるのを感じる。そして、その塩辛い、旨味の詰まったわたが喜んでいるかのように口の中に、そして喉の奥へと入っていく。


 これだけで美味いのだ。私は塩辛さを感じつつジャガイモを口に入れた。


「――うん。これは!」


 悦びを言葉にしようとしたが、適切な言葉が口からは出ない。軽はずみに言葉にすることさえ憚られる。それぐらい美味いのだ。


 塩辛さがジャガイモの淡白な旨味と絡み合い、完成された料理へと昇華されている。

 バターと塩をかけただけでもジャガイモは趣のある食べ物だが、塩辛を乗せるという、それだけの工程でジャガイモが別次元の美味しさになっている。

 これは、イカの塩辛に神秘的な味わいがあるからにほかならない。


 私はガツガツとジャガイモを食べ、ジンを飲む。それは完成された作業ルーティーンのようでもあった。


          ◇


 ジンは濃いお酒だ。そして美味しい。気づいたらへべれけに酔っぱらっている。

 私は食堂で寝てしまっていたことに気づいた。そして、もう一つのことにも気づいた。

 私の腹から触手が這い出ており、その場で蠢いているのだ。


「――――――!!」


 私は声にならない悲鳴を上げた。

 そんな私を窘めるように触手は動き、私の口元を優しくぬぐった。

 その後、触手は急激に膨張を始める。そして、その勢いのままに、長く、太く、膨らみ切った触手は、私の体に巻き付いた。

 それは、まるでイカの塩辛に抱き締められているかのようだった。


 いや、抱き締められているようではない、抱き着かれているのだ。

 そう思いたいのは私の自意識過剰だろうか。

 この触手はクトゥルフお母さんのもので、私は彼女に抱きしめられている。

 そう思いたくて仕方がないのだ。


 少し前にハストゥールやヴルトゥームと会ったような気がする。

 そのものたちはクトゥルフお母さんの異母弟・異母妹であるという俗説もある。

 だから、クトゥルフお母さんはオススメしてきたのだろうか。

 触手に締め付けられながら、そんなことを思った。


 私を締め上げる触手の力が強くなってくる。

 触手が私を抱きしめる箇所もどんどん広がっている。最初は胸の辺りだけだったのが、今では首も、頭も、腹も、下腹部も、ふとももも、すねも、足も、すべてが触手で覆われていた。

 そのすべてにクトゥルフお母さんの愛情を感じる。私はクトゥルフお母さんの愛情によって締め付けられ、やがて砕け散るのだ。


 すべての力が強くなる。痛みで苦痛の叫びをあげる。それは耐え切れないがゆえの叫びだ。

 痛くて、痛くて、痛くて、もう耐えることができない。しかし、耐えられないということが嬉しいのだ。耐えられず絶望することが悦びなのだ。

 私は聞くに堪えない叫びをあげ、苦痛にあえぎ、それに絶望する。


 やがて、心臓は、脳は、触手によって押しつぶされるのだった。

 私は断末魔の悲鳴を上げていることだろう。

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