第十二話 ハンバーグ

「麓郎くん!」

 私を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、待っていた彼女がいた。

 少し茶色に染めた長い髪。美人と呼ぶには少しあっさりした顔立ちだが、私にとっては馴染み深く愛らしい顔だった。

 背は低い。そのことを気にして積極的に牛乳を飲んだり、ひじきを食べたりしていたことは覚えているが、彼女の両親の遺伝らしく、結局あまり伸びなかった。


奈菜なな、久しぶりだな」

 そう声をかけたのとほぼ同じタイミングで、奈菜が来た方角に止まっていた自動車が発進してその場から去っていった。


 彼女――奈菜は妹だった。妹といっても血のつながりはない。

 私の両親が養護施設から里子として預かり、やがて養子にしたのだ。

 養護施設はかつて孤児院と呼ばれていたが、そんな呼び方が廃れて久しい。この日本に孤児と呼ばれるような子供はもう一世紀以上前からほとんどいなくなっていた。その代わりに養護施設に預けられるのは、何らかの理由で保護者から育児を放棄された子供たちだ。


 私は奈菜にも、ほかの子たちにも、どういう経緯で施設に預けられ、うちに来たのか尋ねたことはない。そんなの聞いてもつらくなるだけだからだ。

 いや、そうではないかもしれない。ただ単に怖いのだ。自分が彼女たちの不幸を抱え込むことが……。

 私と彼女たちにはそんな壁があった。しかし、そんな壁があるからこそ、奈菜や妹たちと付き合っていられることもまた事実なのである。


「麓郎くん」

 奈菜の呼びかけが聞こえた。

 私は彼女が家に来るまで一人っ子だった。そのため、年齢が少し離れた奈菜と一緒に暮らすようになっても、兄という自覚はあまりなかった。奈菜としても同じだったのだろう。私を「兄」と呼ばず、「お兄ちゃん」とも「お兄さん」とも呼ばなかった。

「ロク」や「ロッくん」と呼ばれたこともあるが長続きしなかった。結局、当たり障りのない「麓郎くん」の呼び方が続いている。


「麓郎くん、腕が疲れてきちゃったよ。抱いてくれない?」

 私が子供のころの思い出に浸っている間に、奈菜が腕を差し出していた。彼女の腕の先、彼女が抱えているもの、それは彼女の赤ん坊だった。

 私は奈菜から赤ちゃんを受け取る。まだ首もすわっていない赤ん坊だ。何かあっては大変だと思いながら、首周りに気を使いながら抱き締める。

 まだ、男か女かもわかならない。赤ら顔の子供。でも、その重さ、その熱が、それだけで愛おしい。

 笑みがこぼれるのを隠し切れずに、赤ちゃんを抱っこしていた。


「この子、名前は何だったっけ?」

 名前をきけば、男か女かわかるかもしれない。そんな期待を込めた質問だった。

かおるよ、ねぇー、かぉちゃん」

 名前を聞いても性別はわからなかった。


          ◇


 ルリエーマートのお母さん食堂にやって来た。

「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。あらあらぁ、今日は彼女と一緒なのかしら?

 あら、赤ちゃんも一緒なのぉ?」

 クトゥルフお母さんはいつになくテンションが高いようで、いつになく声が上ずっている。翼もハタハタと羽ばたいており、少し宙に浮いていた。

「い、いや、違いますよ。妹の奈菜ななです。

 先日、結婚して子供も生まれたばかりなんです」

 私は慌てて説明する。


「こんばんは。いつも兄がお世話になってます」

 奈菜も頭を下げた。

「いえいえー、お世話になっているのはこちらの方なんですよぉ。

 うふふ、赤ちゃん、可愛いわねぇ」


「それで、今日はどうするのかしら?

 赤ちゃん、離乳食には早いわよねぇ」

 クトゥルフお母さんの質問を受けて陳列棚を見渡す。そして、考えていたメニューのための商品を手に取った。

 ビーフ100%のハンバーグだった。

「あ、あぁー。そういえば、そんなのもあったわねー」

 クトゥルフお母さんはそれを見て、なにか忘れていたことを思い出したようだった。

 よくはわからないが、ハンバーグを買いにレジに向かう。


          ◇


 買ってきたハンバーグを使ってハンバーガーを作る。

 ハンバーグは電子レンジで温めてもいいし、湯煎してもいい。こういう場合、湯煎したほうが美味しくなるような気がする。鍋に湯を沸騰させ、温めはじめる。


 その間にバンズと野菜の用意をする。

 バンズにバターを塗り、オーブントースターで温める。レンジと違ってオーブンは火力が高いので焦げないように注意しておく。

 レタスは一口サイズに千切っておく。トマトは薄切りにする。

 そして、ピクルス。これも薄切りだ。マクドナルドのピクルスが好きだ。いくつか似た味のピクルスを探し、強い酸味と爽やかな風味をあわせ持った再現度の高いピクルスを見つけることができた。今回はこれを使いたい。


 バンズが適度に焼けたのでオーブンの火を止め、バンズの下側にチェダーチーズを乗せる。チーズは余熱で十分に溶ける。

 その上から温まったパティ(ハンバーグ)を乗せ、ケチャップとマスタードをかける。マスタードは酸味だけで辛さのないものだ。

 さらに、ピクルス、レタス、トマトを乗せていき、バンズで挟み込む。

 いまいち安定性が悪いがそのまま皿に乗せた。


 奈菜ななは酒を飲めないので、今回はアメリカ料理らしく飲み物はコーラにした。

 グラスに注ぐ。黒く透き通った色合い。香りを確認すると、コカの芳香がよく出ている。良質のコーラである証拠だ。

 口に含むと、炭酸が弾け、甘い味わいが心地よい。薬のような独特の風味がコーラをコーラたらしめている。

 うん、いつものコーラだ。


「できたよ」

 テーブルを整えると、かおるの世話をしていた奈菜を呼ぶ。薫は今のところおとなしくしているので、奈菜もテーブルについた。

「ありがとう。でも、麓郎くん、いつもあのコンビニに行ってるの?

 たまには、ちゃんとしたものを食べた方がいいよ」

「いや、別にコンビニだけじゃないし、今回も野菜を足しているし、栄養バランスもとれているよ。

 それにすごく美味しいんだよ。食べてみればわかるさ」


 私はハンバーガーを手に取る。バンズをギュッと挟んで食べやすいサイズに縮める。パティの動きが絶妙で、他の具材を飲み込むかのよう自在に伸縮してくれる。

 思いっきりハンバーガーにかじりついた。何より、まず来るのは肉の旨みだ。ジュワっと肉汁が口中に広がっていき、香ばしい味わいと野性みのある歯ごたえが伝わってくる。次いでレタスのシャキシャキした食感、トマトの甘酸っぱく瑞々みずみずしいフレッシュさ、ピクルスの酸味と爽やかな風味、チーズの濃厚さがレイヤーごとに違った美味しさを感じさせた。


 もう一口食べる。

 やはりルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂だ。ハンバーグもただのハンバーグではない。

 肉がいいものだというのは当然だが、肉厚でありながら焼きむらがなく、ふっくらとジューシーに仕上がっている。肉の旨さを最大限に引き立てながらも、玉ねぎの甘さもしっかり感じられ、絶妙なアクセントになっている。

 そのおかげで、私の行ったケチャップとマスタードという簡素な調味料だけで、ハンバーガーとして絶品といえるものに仕上がっているのである。


「どうだ、美味しいだろう?」

 ハンバーガーの出来に気を良くした私は満面の笑みとなり、奈菜に尋ねた。

「うん、美味しい」

 彼女の言葉はシンプルなものであったが、うっとりとした、少し眠そうにも見える、いい笑顔をしていた。その表情こそが、ルリエーマートのお母さん食堂のハンバーグが最高のものであると証明していただろう。


          ◇


――ぉぎゃぁ……ぉぎゃぁ……


 赤ん坊の泣き声が聞こえた。奈菜ななはまだ食べている途中だ。

 私は急いで手を拭く。


かおる、泣いてるね。俺が見てくるよ」

「えっ?」

 私は立ち上がり、薫のいる場所に向かう。そんな私を奈菜は意外そうな表情で見る。

「薫は泣いてなんかいないよ。どうしたの?」

「えっ? だって、今、現に……」


――ぉぎゃぁ……ぉぎゃぁ……


 やはり赤ん坊の泣き声のような音が聞こえる。

 だが、聞こえてくる場所は薫からではなかった。鳴り響いているのは私の身体の内側だった。


 ガボっ


 突如、私の身体が裏返った。


 ここでひとつ説明させてほしい。裏返ったなんて言っても、それだけでは意味がわからないだろう。

 人間の身体は筒状である。そう考えることもできる。

 口や目、鼻、耳がその入り口であるとするなら、筒の内側は食道、胃、小腸、大腸に当たり、出口は肛門ということになろう。

 そう考えれば人間は筒なのである。


 シンプルに筒が裏返ったといえば、どういう状況かは想定できると思う。

 今回は、私自身が裏返った。

 顔や頭、手や足、腹や胸や背中、そういったものがすべて内側にひっくり返り、食道、胃、小腸、大腸がのっぺりと外側に出ていた。

 私はそういう肉の塊のような、モツの塊のような、そんなものになっていた。


 普段、内側にしまわれているものが外側に出てきたのだ。

 デリケートな箇所がさらされている。外気に触れたことで強烈な痛みが走ってきた。地面に触れている部分は、少しでも動こうものなら地獄の痛みが響く。また、急激に熱が奪われていくのも感じる。寒くて仕方がなかった。

 視界は真っ暗だが、奈菜の恐怖でひきつった叫び声と薫の泣き声、そして何か巨大なものがうごめいている気配のようなものは感じられる。


 やがて、異形と化した私の肉体は何者かによって捕らえられた。

 ねばねばとした粘着性の長いそれは私の全身をまるまると包み込んだ。


 これは舌だろうか。

 その舌は私をそのものの奥へと運んでいく。弾力があり、粘着質で、やわらかい。そして何か分泌液のようなものがその場所に満ちていく。

 私は怪物の胃の中にいるのだろうか。じわじわと私の身体が溶けていっているかのようだった。


「あぁ、困ったな。まだ生物が二匹もいたのか。残念ながら、私は小食でなあ。

 すまないが、今回は見逃させてくれ。すまんね」


 私を食べたものの声が聞こえた。その言葉から私はピンとくる。

 クトゥルフお母さんの異母弟・異母妹とされる神性はハストゥール、ヴルトゥームだけでなく、まだ残されていたのだ。クトゥルフお母さんが忘れていたのはこのことだったのか。


 そのものは旧支配者の中では穏便で、供物を敢えて見逃すこともあるという。

 無定形の身体を持ち、眠たそうな目でにやにやとした笑みを浮かべた、柔毛に覆われたカエルに似た巨体……。

 私は今日ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂で買ったのがツァトゥグァで良かったと心底思った。

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