クトゥルフお母さん食堂
ニャルさま
第一話 イカ焼き(一味添え)
ルリエーマートの一角に設けられたクトゥルフお母さん食堂はすでに有名だろう。全国各地でフランチャイズしているコンビニエンスストアだが、クトゥルフお母さんはどの支店にも遍在して出迎えてくれる。これほどの贅沢が味わえるのはルリエーマートならではと言っていいだろう。
私は今日もクトゥルフお母さん食堂にやって来た。
今日も、と言ったが、今日は、いや今日からはその意味合いが少し変わる。なぜなら、今日からクトゥルフお母さん食堂のレビューを書く仕事を請け負うことになったからだ。
ルリエーマートの扉が開いた。
おなじみのフレーズが聞こえる。私は少し緊張しながらも、クトゥルフお母さん食堂に向けて歩き出した。
「あら、麓郎ちゃんじゃないの」
私より先にクトゥルフお母さんが気づいてくれた。
「今日もお惣菜なの、しょうがない子ねぇ」
クトゥルフお母さんは頭から生えたピンク色の触手をクネクネさせる。
白状するようで申し訳ないが、私は日常的にクトゥルフお母さん食堂のお惣菜を食べている。
安くて量が多いし、何より美味しい。コストパフォーマンスを地で行くようなこのコーナーを利用しない独身男性がいるだろうか。
まるでルリエーマートと癒着しているかのように見えてしまったら申し訳ないが、これもまた現実の一コマと捉えていただけるとありがたい。
「クトゥルフお母さん、実は今日は取材なんです。録音もしてるんですよ」
「あらぁ、そうだったのー。なんか、お母さん、察してあげられられなくて、ごめんなさいねぇ」
「いやいや、いいんですよ。ただ、ちょっと仕切りなおしますね」
クトゥルフお母さん食堂までやって来ました。どのルリエーマートにもある名物コーナーです。
「いらっしゃいませぇ。どれもお薦めですからねぇ、よく見てってねぇ」
クトゥルフお母さんが声をかけてくれる。クトゥルフお母さんはどのルリエーマートにも遍在して出迎えてくれる。
遍在という言葉が耳慣れない方のために説明すると、クトゥルーお母さんはどのルリエーマートにも同時に存在している、そんな理解をしていれば十分だと思う。
「今日はこのイカ焼きをもらおうかな」
私は陳列棚の中から一つの商品を手に持って口に出した。
「あらぁ」
すると突然、クトゥルフお母さんが大きな声を出した。同時に頭からひた垂れている触手をクネクネとうねらせる。どうやら照れているらしかった。
「どうしたの、クトゥルフお母さん? これって手作りだったりする?」
少し驚いた私は疑問を口にする。
それに対して、クトゥルフお母さんは照れたように頬に数百本もの触手で私の肩を叩きながら、返事する。
「調理したのは調理担当のおじさんよ。でもねぇ……」
なおも、照れているかのようにウネウネしている。
私は彼女に愛想笑いしつつ、レジで買い物を済ませ帰路についた。
◇
さあ、今日のメニューは「イカ焼き(一味添え)」だ。
パックされたイカを見る。焼かれて調理済みなのにもかかわらず、ピチピチと動いている。
どれだけ新鮮なイカを使用しているのだろう。
さらに付属品の一味唐辛子であるが、これも袋詰めにの中からパチパチと刺激的な音を立てている。
クトゥルフお母さん食堂が食材の新鮮さにどれだけこだわっているか、これだけでもおわかりいただけると思う。
私は意を決してイカ焼きのパックを開ける。こんがりと焼けたイカの切り身が数十本ほどが並んでいた。私はその艶やかな色合いに目を奪われる。
実に新鮮なイカだった。磯の香りが部屋中に充満し、私の食欲を刺激する。
パッケージを空けた瞬間に、イカはピチピチとした動きをさらに激しくさせる。
これはまさに生きた食材だ。料理人の多くは生きた食材を得ようとして半生を費やし、結局得られないままその料理人として人生を終えるという。
だというのにだ! 私はコンビニでこの料理と出会い、この料理を食す機会を得ている。ただコンビニで買い物をするだけで、あらゆる料理人の羨望と嫉妬、挫折を一身に受けるのだ。
ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂、行かないのは人生の損だと思いませんか?
これだけ魅力的な料理だ。ただ食べるだけなんて、もったいない。
これには相応しいお酒を当てたいと思う。
今回用意したのは、下町のナポレオン「いいちこ」だ。リーズナブルで美味しい酒なので、親しまれている方は多いだろう。
用意しておいた氷をグラスにゴロンゴロンと入れる。そしていいちこを注ぐ。カラカラと音が鳴る。
いいちこが少しずつ冷えていくのを感じ、グラスを揺らして氷を少し泳がせると、グイッと一口飲む。
口中にその優しい刺激が広がる。ほんのりとした味わい、という言葉が瞬時に頭に浮かんだ。そして、アルコールが全身に回り始めるのを感じる。徐々に、喉が、手が、足が、腹が、頭が火照り始める。この感覚もお酒を飲む楽しみだ。
米焼酎や芋焼酎も好きだが、いいちこに代表される麦焼酎も出しゃばらない味なのが嬉しい。あらゆる料理に合わせることができる。
お酒の美味しさを全身で感じながら、イカ焼きのパッケージに目を向けた。付属品の一味唐辛子が目に入る。
私は意を決して一味唐辛子の袋を開ける。
パチッパチッ
袋から弾ける音が鳴る。それと同時に、袋の中に封じられていた炎の精(クトゥグァの炎のクリーチャー)が解放された。炎の精はそれぞれに思い思いの方向に飛び交う。その余波で私の家の壁という壁、天井という天井、床という床は燃え上がる。
ほとんどの炎の精は飛び去ってしまったが、残っていた炎の精をイカ焼きにふりかける。少し焦げたような香ばしいにおいが漂ってきた。
七味唐辛子のにぎやかな味わいはもちろん魅力的だが、一味唐辛子は七味にはない良さがある。一味唐辛子はシンプルに辛さだけを引き立てる。和食であれば七味に活躍の場があるだろう。あるいは中華でも七味はいい仕事をする。
だが、余計な味を加えずにただ辛さだけが欲しいという局面は意外と多い。フレンチやイタリアンにかけてもいいし、エスクニック料理のような独特な風味の邪魔もしない。
七味にはないシンプルさ、柔軟性、包容力、それこそが一味の魅力だろう。
そして、今、一味は私の家を焼き尽くしている。
この炎、熱、酸素が薄くなっていく空気、大切なものが焼けていくという焦燥感、焼けて失わていく住居、焦げつつある私の肉。まだイカ焼きを味わっていないにもかかわらず、いくつもの風味を私に与えてくれている。
ついに、というほどに焦らしてしまった。とうとうイカ焼きを味わう時だ。
私は箸でウネウネと動き続けているイカ焼きをつまむと口まで運ぶ。
磯の臭い、海の臭いなんて言うが、それはとどのつまりイカの臭いなのである。
私の口中に広がるのは海そのものだった。
むにゅっとした歯触りが私の筋肉を刺激する。シャクシャクと噛み砕いていく。ちょうどよい噛み応えだ。
磯の香りに相応しい、ほどよい塩味が満足感をもたらしてくる。
わずかに散りばめられた一味は私の舌にピリリとした辛みを与え、その感覚で自分が空腹であることを思い知らされる。
私は無心になってイカ焼きをむさぼり始める。パックの中に敷き詰められた肉片を私のエネルギーにしたい。原始的な欲望が私の脳を支配した。
ガツガツガツガツガツガツ
無我夢中で食べる。食べたイカ焼きが血となり肉となる。身体の内側に蒸気機関があってそこにひたすら石炭を投げ続ける、そんな感覚だった。
気づいたらイカ焼きはすでに半分ほどに減っていた。夢中で食べすぎた。少しもったいないことをしたような気になってくる。
カランカランといいちこの氷を鳴らすと、グイッと一口飲む。一口と言ったがイカ焼きで喉が涸れてしまったせいか、思ったよりも一口が大きくなった。ツンとした刺激といいちこの優しい香り。思ったよりも大量のアルコールが入ってきたのでクラっとしてくる。
イカ焼きにマヨネーズをかけてみる。マヨネーズとイカ焼きは見事な調和を見せ、シャキッとした食感にまろやかなうまみが加わる。イカにマヨネーズ、合わないわけがない。合いすぎるのでコメントが思い浮かばないくらいだ。
そして交互にいいちこを飲む。
イカ焼きはすぐになくなった。一食分の分量ではなかったと後悔する。
腹八分目ともいうし、こういう日があってもいいだろう。私はいいちこをちびちびとやり、まったりとする。
◇
ふと、腹の中でイカ焼きが動いたような感覚があった。その脈打つような微かな動きに奇妙な悦楽を感じる。
咀嚼されてなお楽しませてくれる。それこそが本当においしい料理というものなのだろう。
イカ焼きはなおも鳴動を続け、腹の中で伸び縮みをしているようだった。クトゥルフお母さん食堂ならではの神秘的な事象だ。
ゴボッ
私の食道を通り、腹の中からイカ焼きが伸び出てきた。口から溢れてくる。
なんということだろう! 食べきったものが口内から出て来るなんて、どれだけ満足感を演出してくれるのだろう。イカ焼きは口に入れた時よりも酸味が加えられ、独特の風味が感じられる。なによりその体積は比較にならないほどに大きくなっていて、私の喉を圧迫して呼吸困難にさせた。
咀嚼することなど到底できず、口をパクパクと振るわせることしかできない。それもまた満足感の演出のためなのだ。心憎いというほかない。
胃の中のイカ焼きから何本もの触手が発生し、両目から触手が溢れ出てくる。同時に、鼻腔から、両耳から、肛門から、尿道から触手が漏れ出て体内でウネウネと蠢く。
本当の料理は五感全てを楽しませると聞いたことがある。だが、本当の意味で五感を楽しませる料理なんて実際には存在しなかったのではないだろうか。
それがどうだ、私の五感はウネウネとした触手に満ちている。これぞ至福というほかない。
やがて、極細の触手が私の毛穴という毛穴を通りながら膨張していく音を聞いた。
心地よい調べだ。私の毛細血管は侵入するイカ焼きの触手によってズタズタにされるだろう。
私はこの期に及んでイカ焼きがクトゥルフお母さんの触手そのものだったんだ、と理解してきた。触角は愛のある動きで私の神経を一本一本ちぎっているのがわかったからだ。
こうして彼女と一体化することこそが、この料理の完成形なのだろう。
ブチッ
すべての毛穴から触手が生え出て、私の肉体だったものを粉々に分解した。私の体は残骸すら残らず、ジュースのような染みが地面に残った。
やがて、パチパチと燃える火事が染みとして残った私さえも焼き尽くしていく。
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