第二話 鮭の塩焼き

 太陽が沈みかける夕刻、私は今日もルリエーマートに足を運ぶ。

「麓郎ちゃん、いらっしゃい! いつもありがとねぇ」

 いつものようにクトゥルフお母さんが話しかけてくれる。私は彼女の言葉に会釈で返すと、商品の陳列棚に目を向けた。


 今日は焼き魚を買おうと計画していた。

 焼き魚は何種類かある。どれがいいだろう。私は少し悩んだ後、不思議な光を放つ魚の切り身に目が行く。実際に商品が光るわけないので、私にはそう感じられた、というだけのことである。

「これって鮭の切り身かな?」

 手に取った焼き魚はきらめくようなオレンジ色をしていた。赤系統の色みであるが、赤身魚のような重々しさはなく、どこか淡い爽やかな印象を受ける肉片である。

「それはハイドラの焼き魚ですねぇ。なかなか入荷しないお魚なんです。美味しいですよぉ」

 クトゥルフお母さんはニコニコ笑いながら教えてくれた。


 ハイドラ。水棲種族、深きものどもに信仰されるダゴン秘密教団において、「父なるダゴン」と並んで「母なるハイドラ」と称される主神の一柱である。ダゴンと違い、その全貌はつまびらかにはされていないが、ダゴンと同じく半魚人の姿をしているという。

 そんな食材を使用した料理が売られているとは……。改めてルリエーマートの商品の品ぞろえに驚かされる。


 ハイドラの切り身は、その色合いから鮭にも似たものを感じていた。

 鮭は赤みがかった肉の色をしているが、赤身魚ではなく白身魚に分類される。一般に赤身魚は濃厚な味わい、白身魚は淡白な味わいと言われているが、鮭はその代表例のひとつといえるだろう。

 鮭の肉が赤いのは餌にしている甲殻類の色素を含んでいるからだという。ハイドラも甲殻類を餌にしているのかもしれない。

 私はハイドラに捕食される未知の甲殻生物に思いを馳せる。


「クトゥルフお母さん食堂で買う『母なるハイドラ』だから、『祖母なるハイドラ』ですね」

 私はひとつも面白くない冗談を飛ばし、ハハハと笑う。クトゥルフお母さんも笑ってくれるかと思ったが、少し困ったような顔をしていた。

「ハイドラさんは私のお母さんじゃないから、祖母にはならないわねぇ」

 クトゥルフお母さんは人差し指を頬に当てながら首を傾げ、「それに、このハイドラさんは別の……」と続けるが、すぐにかぶりを振って自分の言葉を否定した。

「いえいえ、なんでもないわぁ。あまり専門的なことを言ってもしょうがないものねぇ」

 私はそれ以上の詮索はやめ、レジに進んだ。


          ◇


 家に帰ると、まずは炊飯に取り掛かった。

 焼き魚には白飯がよく合う。今日はお酒よりもご飯だろうとずっと思っていたのだ。


 自炊をするコツのひとつは、無洗米を買うことだと思っている。

 無洗米は味が落ちるんじゃないのとか、米は研いでこそおいしいはずだとか、そんな考えの人もいるかもしれない。

 しかし、炊飯とは日常だ。手間のかかる作業はできるだけ少なくしたい。米を研ぐのは面倒くさいものだし、冬場は手が冷たくなるので単純につらい。そのせいで炊き立てご飯から遠ざかるのだとしたら、そんな苦労は省くべきだろう。


 続いてお味噌汁つくりに取り掛かる。

 ごぼうの皮をピーラーで剥いて薄切りにする。にんじんはいちょう切り、長ネギはぶつ切りだ。里芋は皮を剥くのが面倒なので、最初から剥けているやつを買っておいた。それを半分か三分の一くらいに切っていく。

 豚肉はこま切れのものを3、4センチぐらいに切る。豚汁用の豚肉も売っていたが、サイズが小さすぎて好みではない。肉はゴロゴロとした食べ応えのある大きさであってほしい。

 あとは油揚げだ。油揚げの入ったお味噌汁の風味が好きだ。これも気持ち大き目くらいに切る。あまり小さくしてもしょうがない。


 出汁を入れた鍋を沸かす。そして、具材を煮えづらいものから順々に鍋に入れよう。厳密にどれが煮えづらいかはよく知らないので適当だ。まあ、それでなんとかなる。

 鍋が煮え立ったら、味噌をとかし入れる。

 味見をしてちょうど良い味なら完成だ。味が薄いと感じたなら味噌を追加しよう。味が濃かったのなら、もうどうにもならない。切腹してほしい。


 私は腹からこぼれた小腸を引きずりながら再度味見をする。いい塩梅だ。血を流して体が塩分を求めているので、濃い味付けが美味しく感じるようになった。


 ご飯とお味噌汁をお椀によそい、レンジで温めたハイドラの塩焼きを皿に盛り立てる。


 これで食事の準備は整った。


          ◇


 お味噌汁がある時、私はお味噌汁から手をつけることにしている。深い意味はない。汁物が好きだからだ。

 豚汁は普通のお味噌汁よりも甘いのが好きだ。肉が入っているからか、野菜が多いからか、理由は知らないが、まあよかろう。


 具材が多いお味噌汁はそれだけでにぎやかだ。

 ごぼうのシャキッとした歯ごたえが楽しいし、里芋のやわらかさが優しい。油揚げはひたすら美味いし、長ネギの食感は必要なものだ。野菜が多いと豚肉の価値が上がる。にんじんは豚汁から現実に戻してくれる大事な存在だ。


 さて本題。

 ハイドラの塩焼きに目をやる。醤油をかける。食べる。白飯をかっこむ。

 淡白な味わいながら、上品な香りが感じられる。肉質はしっかりとしており、歯ごたえが感じられる。そして醤油がよく合う。油の旨味もあってご飯を食べるのに最適だ。

 さらにハイドラを切り分けて頬張り、その塩味で口がいっぱいになる瞬間にご飯をかっこむ。その繰り返しだ。

 そして喉が渇いたら豚汁を飲む。これこそが円環のことわり。食のトライアングル。ルーティーン。これほどに調和のとれた食事があるだろうか。


 焼き魚がすぐになくなってしまうのはなぜだろう。たぶん、美味すぎるからだ。

 骨にこびりついて残った魚肉を食べる。最後に残ったカリカリの皮を食べる。どちらも最後の楽しみだ。

 骨に残った魚肉はそれ以外のものより濃厚な気がする。骨からの出汁を肉が吸っているのだろうか。焼け加減も骨から熱が伝わるからか、よりよく焼けているような印象もある。

 皮も好きだ。魚肉にはない独特の旨味がある。酒があれば、そのあてにしたいものだが、今は白飯だ。ハイドラの皮でかっこむご飯というのも乙なものだ。


 焼き魚を食べ尽くすのと同時に、ご飯もお味噌汁もなくなった。良いバランスで食べ進めることができたものだ。

 私は少し気分が良くなったので、お茶を入れて一服することにした。


          ◇


 急須に茶葉を入れると、電気ケトルが湯を沸かすの待つ。

 満腹感を楽しみながら、しばしボーっとしていると、やがて湯が沸いた。私はケトルを手にして、急須に湯を入れようとした。


 違和感があった。

 ケトルに触れた感覚がおかしい。


 ものに触れる時、意識しないかもしれないが、柔らかな感触があると思う。それは手が皮と肉で覆われているからだ。しかし、なにか硬質なものでケトルに触れたような感覚であった。

 自分の手を見て驚く。

 私の手はポロポロと崩れていっていた。皮も肉も塵に変わって空気の中に溶けていき、ただ白骨だけが残されている。それは手だけではとどまらず、その崩壊は腕まで延びていく。


 何が起こっているのか理解できないが、ひとつだけ腑に落ちるものがあった。

 クトゥルフお母さんは今回買ったハイドラについて何かを言おうとしていた。このハイドラは別の、と言っていたのだろうか? つまり私が言葉にしていた「母なるハイドラ」ではないと言いたかったのか?

 そう考えて思い至ったのはもうひとつのハイドラだった。もうひとつのハイドラは精神アストラル世界サイドに棲んでいて、気まぐれに物質世界に存在するものの魂を抜き去るという。

 私の肉体が白骨化しつつあるのは、このハイドラが魂を抜いているからか。


 私の体は胸までが白骨になっていた。

 椅子に座っていたはずだが、骨がバラバラになってしまったせいで、地べたに私の残った体と頭が転がっている。

 なぜか客観的な描写になってしまった。ハイドラは私の魂を抜き取ってしまったので、私の視点は私の体にはなかったのだ。無理にでも肉体目線になるべきだっただろうか。


 しかし、そんなことを考えられるのも、そろそろ限界のようだ。私の視界にある物質世界は灰色のたゆたう水のようなものに感じられていき、逆に精神世界をはっきりと感じるようになり始めている。


 精神世界と物質世界はまるで違う。

 物質世界にいた時は自分とそれ以外のものの境界をはっきりと感じていたが、精神世界にそれはない。まるで液体か気体になったみたいに自分と他者に区別を感じなかった。


 そして、ハイドラと呼ぶべき虚空の存在が私を飲み込もうとしていた。


 やはり、クトゥルフお母さん食堂のお惣菜は、ほかのコンビニやスーパーのお惣菜と一線を画すべきだろう。

 あなたはお惣菜を食べて精神世界に連れ去られたことはありますか?

 こんなことはルリエーマートならではと言うべきです。あなたもクトゥルフお母さん食堂のお惣菜を食べたいと思うのではないでしょうか。

 それが、ハイドラの体内で溶けつつある、筆者の見解です。

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