第五十一話 イチゴのショートケーキ

 今日は健康診断だ。


 やたらと入り組んだ場所にある病院へ行く。受付で書類と朝方に採っていた検尿を出した。

 そして、奇妙なローブに身を包んで、しばし待つ。


 まずは視覚と聴覚の検査からだった。

 眼鏡を外して裸眼の視力を計る。とても調子が良かった。別に視えているわけではないのだが、山勘がことごとく当たり、眼鏡をかけている時と変わらない視力になった。ふっふっふ、これからは勘だけを頼りに裸眼で歩いてもいいかもしれない。


 次いで、身長と体重を測る。まあ、予想通り、というか以前計った時と変わらない数値が出た。

 だが、検査技師のおばちゃんはどうも納得のいかない様子で、私に下駄を履かせた。

「見た感じ、もうちょっと高いでしょ。これで測り直しましょ」

 下駄を履いた状態で身長を測ると、当然ながら身長が上がる。不服なのは、体重も一緒に上がっていることだ。

「うん、こんなもんなんじゃない」

 検査技師のおばちゃんはなぜか満足そうだった。


 この後、心電図を計り、採血をする。血液を採られるというのは、どうもゾッとしない。鮮烈な赤い血が吸い上げられるのを見ると、気を失いそうになる。血を見るのは苦手なのだ。


 その後、おじいさん(※医者です)と話して、健康診断は終わった。思ったよりも、すぐ終わったなと思う。

 しかし、これで解放されたのだ。これから、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂で豪遊してやろう。そう思いながら、病院を抜け出した。


        ◇


 ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。

「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。なんだかウキウキしているのねぇ。いいことでもあったのぉ」

 クトゥルフお母さんが出迎えてくれる。彼女の言葉に私は少し動揺しながらも答えた。

「今日は健康診断だったから、なんか解放感があって……。今日はちょっと贅沢したいなって思ってるんだ」

 そう言うと、クトゥルフお母さんは例の困ったような表情をした。


「健康診断って、そういうものじゃないのよっ。普段から健康に気をつけるのが大切なんだからぁ」

 そう言うクトゥルフお母さんの全身からはオーラが漏れ出ていた。オーラは天上へ向かって立ち上っていく。

「まあまあ、今日くらいは許してくださいよ」

 私は笑ってごまかすことにした。そして、一つ思いついたので口に出す。

「今日はスイーツコーナーを見たいなって思うんですけど、お薦めありますか?」


 私の問いかけにクトゥルフお母さんが少し思案する。人差し指を頬に突き立てて、考えを巡らしていたようだ。

「うーん、じゃあ、案内するわぁ」

 その言葉とともに、私はスイーツ売り場へと瞬間的に移動した。

 そのスイーツ売り場を見渡しながら、何を食べようか考える。しばしの間、思案していたが、ショートケーキが目に入ってきたので思わず飛びつく。

「これだ!」

 そのケーキを手に取ろうとした。これこそ今日の豪遊に相応しい食べ物だ。


「あっ」

 私の手が触れたのケーキのパッケージではなかった。ショートケーキを新たに売り場に置こうとしたクトゥルフお母さんの手があった。思わず手を引っ込めるが、クトゥルフお母さんも同じように手を引っ込めていた。

 クトゥルフお母さんの手に触れてしまった。その事実が私の頭に血を上らせ、顔が熱くなるのを感じる。

「ごめん、ショートケーキがあまりに美味しそうだったから……」

 私は弁明の言葉を呟いた。驚いていたせいか顔が赤くなっていたクトゥルフお母さんも笑顔に変わる。

「あらあらぁ、こちらこそごめんなさい。つい慌ててしまって……」


 結局、私はそのショートケーキを手に取った。見れば見るほど美味しそうだ。何より、きっちりとカットされた角度がいい。

「うふふ、それもいいものなのよ」

 クトゥルフお母さんも絶賛するほどのもののようだ。

「じゃあ、これにします」

 私はそう言うと、ケーキを手にレジへと進んでいく。

 クトゥルフお母さんはその私の姿を温かく見守ってくれていた。


        ◇


 よし、お酒を飲もう。健康診断が終われば、即座に酒を飲む。これは大原則だ。

 今日はケーキにも合うお酒ということで、アップルブランデーだ。カルバドスという銘柄がうちにはあった。


 ブランデーは常温ストレートで飲むに限る。私は蛇の紋章の描かれたグラスにカルバドスを注いでいった。

 そして、ちびちびと舐めるように味わう。上品で薫り高い味わいの中で、ほのかなリンゴの香りが感じられる。燻製のウッドチップのような香りとアルコールの苦みが後味としてあった。

 ちょっと飲みにくさを感じなくもないが、今日はケーキだ。ケーキとブランデーの相性が悪いわけがない。


 それではイチゴのショートケーキを食べよう。

 見た目からして美しい。純白のクリームに、イチゴの真紅が映える。そして、断面を彩るスポンジの淡いイエロー。この色彩感覚はまさに最高級フランスケーキというべきだろう。ショートケーキがフランスのものかは知らんけど。


 イチゴのショートケーキにフォークを突き立てる。ケーキの先端、その鮮烈な角度を削り取り、口の中に運ぶ。

 生クリームの控えめな甘さが、スポンジの甘さと苺の甘酸っぱさを引き立てる。この混然一体となった味わいこそがケーキの魅力だ。クリームは滑らかで、スポンジは柔らかく、イチゴはフレッシュだ。


 二口目。敢えてここで、イチゴの本丸を狙う。イチゴの瑞々しい酸っぱさ、そして甘さが直に感じられた。さらに追撃で生クリームとスポンジを口に運ぶ。イチゴだけで食べても美味しいが、合わせて食べることで、ケーキとしてのバランスの良さが実感された。


 三口目。今度はバランスよい組み合わせで食べる。これが美味い! 本来のケーキの美味さを味わった気分だ。

 もはやイチゴは残っていなかったが、クリームとスポンジだけで十分にいい味だ。優しい甘さを堪能しているうちに、ケーキはなくなっていた。


 さて、読者からの声が聞こえる。麓郎さん、これで終わりじゃないんだろ!

 その通りだ。健康診断を終えて、ケーキが一つだなんて、そんなわけないじゃないか。


 イチゴのショコラショートケーキも買っていた。

 生クリームをチョコムースに、スポンジをチョコレートスポンジに置き換えながらも、イチゴは健在という逸品だ。


 まずはその先鋭というべき角度の部分を一口。カカオの香りが感じられ、チョコレートの風味を持ったクリームとスポンジを味わう。その苦みと甘さが心地よい。チョコレートケーキとしてなら、満点というべき味わいだろう。

 それにイチゴが加わるとどうなるか。食べてみよう。


 ケーキに乗ったイチゴを捉えつつ、スポンジの中にあるイチゴもまた捉えた。ほぼイチゴで気持ちケーキがあるという配分で食する。うん、酸っぱい。でも、合わなくはない。

 チョコレートケーキ部分だけで食べても、断然品質がいい。イチゴと絡めると、それはそれで美味しい。イチゴチョコレートが美味しいように、イチゴのショコラショートケーキもまた美味しいのだ。


 ガツガツと食べ進める。甘いは美味いだ。夢中になって食べているうちにケーキはなくなってしまった。

 寂しさを感じつつ、カルバドスを飲む。そのほろ苦さが、甘くなった口に合っているように思う。


        ◇


 なんだか耳鳴りがした。耳鳴りというか、どこからか犬の咆哮のような響きが聞こえてくるのだ。

 それは私の腹の中から聞こえてくるような気もするし、なんとなく過去から時間を超越するように聞こえてきているようにも思えた。


 急激に左足に痛みが走る。同時に、ワォーンという鳴き声が聞こえたかと思うと、足が螺旋のようにねじれていく。骨がバキバキと粉微塵に折れ、足が真っ青に腫れあがった。あまりの痛みにのたうち回り、思わず椅子から転げ落ちる。

 落下の衝撃で折れた骨が膝や脛の肉と皮を貫き、激痛とともに血が噴き出してくる。だが、おかしかった。血の色が青いのだ。

 私の身体にどのような異変が起きているというのだろうか。


 この現象、そして犬の鳴き声から思いつくのは、ティンダロスの猟犬だ。

 太古の時代、あるいは別次元に存在する、ティンダロスという都市から現れるというクリーチャーで、緑色、または黒色の四つ足の獣のような姿をしているとされる。猟犬と呼ばれるのは、執念深く獲物を追い回すことが由来であり、その姿は犬とは似ても似つかない。ティンダロスの猟犬は不浄な存在であり、人間の持つ何かを渇望して襲いかかるらしい。そして、その何かを奪われた人間の血液からはその色素が抜け落ち、青く変色するのだ。

 人間とティンダロスの猟犬の歴史的な関りは深い。「木と蛇と林檎」に漠然と象徴されるというが、楽園追放の神話もまた人の得た知恵とティンダロスの猟犬の存在が関係しているのだ。


 普通の生命は「湾曲した(丸まった)」時間に存在するのに対し、ティンダロスの猟犬は「角ばった」時間を通って移動するという。ティンダロスの猟犬は角度を通してでなければ、人間の暮らす時間には到達できない。

 つまり、私の部屋に角度のあるものをすべてなくしてしまえば、ティンダロスの猟犬が私を襲うことはないのだ。


 私は痛みを訴える左足を引き摺りながら、動き始める。

 角度をなくすにはどうするか。わかりやすいのは粘土で部屋中の角ばったものを覆ってしまうことだろう。しかし、粘土なんて置いてない。

 ならば、ほかにはないか。小麦粉だ。小麦粉をったもので部屋を覆えば、どうにかなるのではないだろうか。


 そこまで大量の小麦粉があるのか。この足で天井をどう塞ぐのか、

 懸念点はあるが、考える前に動かなくては。私は這いつくばりながらも、台所へ進んでいく。


 だが、世の中がそんなに甘く進んでくれるはずもない。

 アォーンという音が響いてきた。間に合わなかったのだ。

 私の全身にねじれが起こり、私の身体は雑巾のように搾られる。骨という骨がへし折れ、血液も真っ青になり、そして私の考える力も……。

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