第五十話 ポテトサラダ

 打ち合わせがあったので、文芸系の編集部に案内されていた。

 担当の編集者さんと和やかにミーティングを進めていたが、近くから電話で話す声が聞こえてくる。次第に穏やかになっていくその声が気になってしまい、私の集中力が乱れてしまった。


「えー、はい、届いてますよ。ええ、目を通させてもらって、またどうするかは編集部で答え出して、お返事するようにします。はい。それじゃあ……」


 ミーティングスペースの裏側にあるデスクから声が聞こえていた。どうも昨今の編集者は機密意識が薄い。

 思えば、この時はまだ穏便に話を終わらせようとしていたようだ。


「え? いやいや。だから、まだわかりませんって。うーん、まあ、検討はしますけど。もういいですか、切りますよ」


 この感じから察するに、相手は作家志望者なのだろうか。編集者は電話を早々に打ち止めにしたいようだが、必死に食らいついているらしい。


「いや、はい。まあ、全然ダメですね。はい。もういいですか」


 ついに明確に拒絶の言葉が出たが、それでも相手は電話を切るつもりはないようだ。編集者には苛立ちが見えていたが、ついに口調も声色も荒いものになっていく。


「どこを直せば? いや、そういう問題じゃないから。うん。全然ダメ。全部ダメ。うん。お話にならないんで。

 うん、うん。そういうこと。それで気が済んだ? うん。それじゃ。はい」


 相手への全否定の言葉が続いた。それでも、食い下がる作家志望者はなかなかガッツがあるようだ。

 だが、ガッツだけで世の中上手くいくわけではない。それを思い知らされるような会話だった。まあ、片側からしか聞いてはいないのだけれども。


 間近で勃発する様を聞くとは、いい経験をしたものだ。そう思うことにしよう。そうでも思わないと、少し気が滅入る。

 今日はルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂でお惣菜でも買って、お酒を飲むことにした。今日ぐらいはいいだろう。


        ◇


 ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。

「あらぁ、麓郎ちゃん。いらっしゃい。今日もお仕事お疲れさまぁ」

 クトゥルフお母さんが労ってくれる。クトゥルフお母さんの笑顔を見ると、一気に疲れが吹き飛ぶようだ。

「もうすぐ健康診断が近いから、ヘルシーなものを買いたいなあ。サラダとかかな」

 私がそう言うと、クトゥルフお母さんは少し困ったような顔をした。


「もうっ、健康には日頃から気をつけてないと意味がないのよ」

 そう言うと、私を窘めるように人差し指を頭の横に立てる。その弾みで指の鱗が飛び出し、壁にぶち当たって突き刺さると、次第に人のような形状を取り始めた。新しいルリエーマートの店員が生まれたようだ。

「いやー。気をつけているつもりなんだけど、どうしても直前になると慌てるというか……」

 私は頭を掻きながら、クトゥルフお母さんに弁明する。

「麓郎ちゃんはお酒でしょ。気をつけてないと大変なことになるんだからね」

 そう言っているうちに、私はサラダのコーナーに案内された。目の前にはサラダの山が広がっている。


「うーん、どれがいいかなあ」

 目の前には多種多様なサラダがある。コールスローもあれば、グリーンサラダもある。シーザーサラダもいいし、ワカメサラダなんかもいい。バーニャ・カウダも魅力的だ。

 そんな中、私の目にポテトサラダが飛び込んできた。

 コンビニのサラダといえば、その基本形はポテトサラダだろう。そう思うと、ポテトサラダを食べるのがいいように思えてくる。

「これにしよう」


 私がポテトサラダを手に取ると、クトゥルフお母さんがニッコリ微笑む。

「そのサラダの材料は遠くまで捕まえに行ったのよぉ」

 どうやら珍しいジャガイモを使っているらしい。

 私は期待に胸を膨らませつつ、レジへと並んでいった。


        ◇


 よし、お酒を飲もうじゃないか。

 今日はクラフトジンでカフェジンとかいうお酒だ。地ビール=クラフトビールなるものの流行りが起きたり廃れたりしているが、ジンにも似たようなものがあり、新しいジンを生み出そうという動きの中で生まれたものらしい。

 カフェジンは有名なニッカウヰスキーの製造したジンだ。


 飲み方であるが、知らないお酒なので、まずは常温ストレートで飲むべきだ。

 そうですよね、老師。

「ふにゃあ」

 ダメだ、出番がなかったせいか認知に歪みが起きている。


 グラスにカフェジンを注ぎ、まずは一口。

 柑橘系の爽やかな飲み口だ。だが、後からハーブの香りがガンガンに追ってくる。このスパイシーな香りは……山椒か? なかなかに美味いとも思えるのだが、この後味の感じはどこかで覚えがあった。

 そうだ、ブラックニッカだ。同じくニッカウヰスキーで生産されるウィスキーの後味とどことなく似ているのだ。まあまあ、値のしたお酒なので、安価なブラックニッカを思わせるというのが腑に落ちない。うーん、これは社風なのだろうか。

 まあまあ、美味しいんだけどさ。そう思い込むことで自分を納得させる。


 全然関係ないが、ジンから山椒の香りがするというのは、「ブレイキングバッド」の冒頭でピンクマンがチリ味のメスを売っていたことを思い出させた。ウォルターはその味付けを全否定するが、果たして、このカフェジンはどうなのだろうか。

 判断に悩むところ。ただ、スタンダードなものは、スタンダードであるだけの理由があるということだろう。


 ポテトサラダを食べよう。

 ジャガイモが均等にマッシュされ、純白のような色合いの中、さまざまな野菜が見え隠れしている。ニンジンの赤、キュウリの緑、紫玉ねぎの紫、レタスの淡いグリーン。それにベーコンのピンク。それぞれが鮮烈な色彩を綾なしており、見ているだけで満たされていくものを感じる。


 それでは一口。ジャガイモの甘さとマヨネーズの豊かな風味が混ざり合う。上品な味わいだ。その奥から酢の酸味が緩やかに感じられる。それらが絶妙なバランスとなり、ポテトサラダの秀逸な美味しさを構成しているのだ。

 ジャガイモは噛みしめるごとに甘く、確かな満足感があった。いいジャガイモなのだろう。クトゥルフお母さんが遠方で手に入れた食材だけはある。


 散りばめられた野菜はどれも素晴らしかった。

 ニンジンの確かな歯応えと静逸な旨味は、ポテトサラダにしっかりとしたメリハリを与えている。

 キュウリのシャキシャキ感は言わずもがな。その清々しい美味しさがあるおかげで、サラダらしい瑞々しさがあるのだ。

 紫玉ねぎの軽快な噛み応えも楽しく、甘さと辛さ、両方のアクセントとなっている。

 レタスもまた食感がいい。そのフレッシュさがポテトサラダに新たな清涼感をもたらしているのだ。


 ベーコンはカリカリに焼かれている。そのカリッとした食べ心地も楽しく、噛みしめることで肉汁が伝わってくるようだ。肉の旨味がポテトサラダの甘さに加わることで、得も言われぬ相乗効果を生じさせていた。


 ポテトサラダは美味しい。そんなことは子供の頃から知っていたはずなのだが、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂のポテトサラダだからだろうか。そのことを深く実感するように、食べる手を止められないでいた。

 胡椒をかけてみよう。スパイシーな味わいが加わり、ポテトサラダは新たな側面を見せる。それぞれの食材が尖った旨味を見せているようで、これもまた食べていて楽しいものだ。


 ポテトサラダにカフェジンを合わせる。山椒の香りがポテトとよく合っているように思えた。


        ◇


 違和感があった。

 もぞもぞと胃の中から食道へと、何かが移動しているような感触があった。

 やがて、その違和感は激痛へと変わる。


「ぐぎいぃぃぃぃぃ」


 私はその痛みに思わず悲鳴を上げる。

 まるで喉や口内を鋭いもので刺されたような、尖ったもので突かれたような、抗いようのない痛みだった。

 私は体を震わせ、身悶えするが、そのたびに痛みは強くなる。私は姿勢を保ったまま、訪れる痛みに耐えるしかなかった。


 やがて、痛みが喉に、そして口内に現れる。その激痛にひたすら耐えていると、口の中から何かが出てきた。

 それはバクのような長い鼻を持ち、全身に皺があり、部分的に鱗が生えている。節くれだった関節は昆虫を思わせるものだった。そして、腕の先端には長く鋭い忌々しい鉤爪が伸びている。

 その得体の知れない生物は周囲を見渡すと、悲嘆にくれたような、絶望に満ちた声を漏らした。聞き覚えのない言語を話しているようだが、私の体内から出てきたせいか、不思議と意味がわかる。


「ここはなんだ? 一体どこなんだ? まるで、ズカウバの語った与太話のような光景じゃあないか。

 均一かつ水平に保たれた忌々しい建築物、円形を基本にした禍々しい調度品の数々、そして何より、ツルツルした肌を持ち、関節の少ない奇怪な生物!

 どれをとっても不気味でしかない。こんな場所が本当にあるとは……。まさか、ヤディスでない惑星に転移させられたなんてことはないだろうが」


 ヤディス! 聞いたことがあった。

 ヤディス星は地球から何百万光年も離れた場所にある、5つの太陽が旋回する惑星である。地球から見るとデネブと同じ方角だっただろうか。

 そこで繁栄した知的生物はヌグ=サスと呼ばれる種族で、ざっくりとヤディス星人とも呼ばれる。確かに、私の口内から現れたこの生物に特徴が似ていた。彼らは高度な文明を築き、星間移動すらできるはずではあるが、本人の自覚なく地球に現れることはないはずだ。


「気味が悪い。頭部以外がほとんどが禿げ上がった哺乳動物が衣服を着て、住居を作るなどありえないことだ。二本足で立ち、前足から伸びた指が不規則に悍ましく動いている。こんな狂気じみた悪夢めいた、冒涜的な光景が許されるというのか。不気味でしかない。恐ろしい、恐ろしい」


 私から出てきたヌグ=サスは脅え切っているようだ。

 せめて、その感情を取り払おう。そう思い、私は両手を上げた。降伏のポーズだ。

 それに対し、ヌグ=サスはいきり立った。


「威嚇してくるか。我を蹂躙するつもりか。ならば、こちらも殺される気はないぞ」


 その発言とともに、鉤爪が私の首を狙って迫ってきた。

 どういうことかわからないが、鉤爪を避けるしかない。近くにあった椅子を掴むと、ヌグ=サスに向けて、椅子で半身を隠すように身構える。

 防戦でいても仕方ないか。そう思い、次のヌグ=サスの攻撃を見計らい、カウンター気味に椅子で殴りつけようとする。

 だが、ヌグ=サスが出現した時につけられた喉の痛みがズキンと走った。それに気を取られて一瞬動きが遅れる。


「遅いよ」


 私が椅子を叩きつけるよりも、ヌグ=サスは速かった。ヌグ=サスの言葉とともに、その鉤爪が私の喉を貫いていた。呼吸困難になる。

 だが、負けてはいられない。私はガッツを振り絞り、どうにか椅子を振り下ろした。だが、その動きは緩慢なものになっていたのだろう。ヌグ=サスは私の攻撃を目視しつつ悠々と避ける。


 私の喉からはドクドクと血が流れ、意識が次第に薄くなっていった。全身の力が抜け、私は倒れた。血はさらに失われていく。視界も真っ白になった。体を動かそうにも、もはや動いてはくれない。


「世の中、ガッツだけじゃどうにもならないなあ」


 それが私の最期の言葉となった。

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