第三十八話 長崎ちゃんぽん
長崎に来ていた。駅名でいうと東長崎だ。
長崎に来てやることといえば、いくつかあるのかもしれないが、私としては一つだけだ。ちゃんぽんを食べる。それしかない。
が、しかしだ。しばらく町をぶらぶらと散策したものの、ちゃんぽん屋がまったく見当たらない。リンガーハットですらないというありさまだ。
これはいったい、どうしたことか。長崎からちゃんぽんという珠玉の文化が失われてしまったのだろうか。
なんてね。
私が来ていたのは豊島区の長崎町だった。この町にちゃんぽん屋なんてあるわけがない。もしかしたらあるかもって、ほんの少しだけは期待していたけれども。
ただ、滋賀の長浜に行ったときには本気で長浜ラーメンのお店を探し回ったものだ。
なんとなく電車で旅をしていた私は「長浜」という駅名に驚き、即座に電車を降りていた。てっきり九州のものだと思っていた長浜が滋賀にあるとは! 驚きとともに、血眼になってラーメン屋を探しながら歩いたが、結局見つかったのは、一見さんに入れるとは思えない居酒屋が数軒のみだった。
まさか、長浜に長浜ラーメンがないとは。この事実に失望した者は私だけではないであろう。
それはそうと、せっかく長崎に来たのだ。ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂に長崎ちゃんぽんがないか見に行ってみよう。
◇
ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。東長崎店には初めて来る。
「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい。こちらのお店は初めてよねぇ。お仕事だったのかしらぁ」
クトゥルフお母さんが出迎えてくれた。
「今日は長崎ちゃんぽんが食べたい気分だったんだ。せっかくだから長崎で買った方がいいかなと思って……」
私が東長崎店を訪れた理由を述べると、急にクトゥルフお母さんは大声で笑いだした。大きく口を開けているせいか、口元を隠す青白く細長い艶めかしい指が鮮烈に目に焼き付けられる。
「あはははははは! そんな理由でこのお店に来た人は初めてよ。麓郎ちゃんって
なぜかはよくわからないが、私の言葉がクトゥルフお母さんを笑わせたらしい。なんにせよ、クトゥルフお母さんが面白がってくれているのなら嬉しいことだ。
「ごめんなさい、長崎ちゃんぽんよね」
そう言うと、クトゥルフお母さんは麺料理のコーナーに案内してくれた。
◇
東長崎から帰ってきた。
さて、酒を飲もう。今日はホッピーにしよう。安酒の代名詞のような酒だが、なぜだか不思議な魅力がある。
このお酒はビールが高級品扱いだった大正時代に生まれている。今でもそんな印象は残っているが、ビールの代用品だったのだ。
しかし、ビールが安定して販売されるようになると、自然とホッピーの需要は衰えていった。だが、それでも根強いファンは残っている。ホッピーだけでしか感じられない味わいも確かにある。
また、長期間販売されている間に酒税法が変わり、現在ではホッピーの製法は認められているものではない。ただ、旧時代の免許は引き続き有効なため、限られたメーカーだけは今でも製造可能だ。
ホッピーに合わせるのは、やはりキンミヤ焼酎だろう。
グラスに氷を入れ、焼酎を五分の一ほど注ぐ。それをホッピーで割る。
かき混ぜると一口飲む。アルコールがズドンと来るが、それと同時にホップのような味わいを感じることができる。ビールような炭酸の刺激と香り、だが、どこか爽やかな飲み口である。キンミヤの口当たりのいいまろやかな味わいもしっかりと得られた。
昭和の味、懐かしい味、下町の味などとよくいわれる。もう昭和生まれなんて世の中にはほとんど残っていないのに、それでも昭和は懐かしいもの。そんなイメージだけが残り続けているようだ。
チーン
そうしている間に、長崎ちゃんぽんが出来上がった。レンジから取り出してくる。
蓋を取ると、肉と野菜、それに海産と練り物と、見事なボリュームと豊富なバリエーションの具材が目に入ってくる。これだけでもう圧倒されるようだった。
箸で麵を手繰り寄せると、大量の具がすでに掴まれている。期待感が高まる。
ちゃんぽんの麺は熱い。はふはふと息で冷ましつつ口に入れる。柔らかくモチモチした感触が嬉しい。コシがあるとは言えないが、むしろそれがちゃんぽんの持ち味だ。
スープも飲む。豚骨ベースでありながら優しい味わいだ。刺激的なほかの九州地方のラーメンとは対照的で、お互いに良さがあるが、ちゃんぽんのスープには心を落ち着かせる「静」の魅力がある。
最初に麺とともに口に入ってきたのはキャベツだった。スープを吸ったキャベツの味わいは格別だ。それでいてキャベツ本来の旨味、甘さも残されている。キャベツは本当に美味しい野菜だ。麺料理に入っていてもしっかり仕事をしてくれる。
もやしもたっぷり入っていた。シャキシャキした歯ごたえは、柔らかい麺と食べるのに相性抜群だ。これがあるのとないのでは、このちゃんぽんの印象はまるで違ったものだっただろう。
豚肉も食べてみる。
やはり肉は美味い。少々固い印象はあるものの、豊かな旨味と野性味のある味わいは格別だ。ちゃんぽんの不動のエースといっていい。
海産物ももちろん美味しく、かつバラエティ豊かな具材には感動すら覚える。
エビはひと時の楽しみを与えてくれた。プリプリとした食感が口の中ではじける。同時に薫り高い濃厚な味わいを麺と一緒に味わうのは贅沢な時間だといえるだろう。
貝類、とくにあさりは麺類とも相性がいいだろう。独自の旨味はちゃんぽんにあっても健在で、麺とスープを新たな次元に引っ張り上げていく。
そして、なんといってもイカの存在感が特異だった。香ばしい風味も楽しいものだが、その食感こそが唯一無二だ。噛み応えがありながらも柔らかく、コリっとした感触がクセになる。うねうねと動くほどの鮮度の良さと力強さには象の鼻を思わせるものがあった。
練り物の美味しさもちゃんぽんならではの魅力だ。
細切りにされたカマボコがたくさん入っている。役割としてはほかの具材のつなぎともいえるが、これはこれでちゃんぽんにあっても貴重な存在だ。ちゃんぽんに食べる楽しさがずっとあり続けるのはカマボコがしっかり仕事をしているからだろう。
ちくわの食感と味わいも魅力的だった。鱈の旨味がしっかりと出ており、深い余韻を残していく。
さつま揚げはこのちゃんぽんの中にあっても異質なものがあった。揚げ物であるだけに味がしっかりしており、少し塩辛いとも思える。だが、香ばしく魚の味わいの残ったさつま揚げは、ちゃんぽんの中に、いや、麺料理の具材としても独自の存在感を持っているのだ。
せっかくなので、ご飯も一緒に食べよう。
炭水化物を炭水化物で食べる、そんな揶揄を受けることもあるが、ラーメンライスという食べ方は魅力のあるものだ。麺をすすり、具材の味を楽しみながら、ご飯を口の中に入れる。麺と具の美味さをご飯とともに味わいつつ、さらにスープを口の中に入れていく。この混味一体となった味わいを何と言ったらいいのだろうか。
日本人ならご飯を食べるべきだ。ちゃんぽんと一緒だったとしてもだ。その先鋭的な味わいとともに確かな満足感を得られることだろう。
スープの中にあってまだまだ熱いちゃんぽんに対し、食べ進めるうちにご飯は冷めてくる。しかし、麺とスープの熱さに対し、ご飯の口の中を冷ましてくれるのはありがたいことなのだ。
◇
満足感に浸りながら、ホッピーを飲む。ちゃんぽんで熱くなった体にホッピーの冷たさが心地いい。
グラスが
少し酩酊したのかもしれない。目の前に黒い石像があった。あれはもともとあったものだっただろうか。いつからあったものだろうか。
あまりに自然に存在していたため、最初からあったような印象さえある。しかし、私には石像を集める趣味なんてない。こんな石像がこの場所にあるはずはないのだ。
石像を眺める。その石像はとにかく雑多な印象だった。
長い鼻からは象のような印象を受けるが、その生き生きとくねる鼻からはイカの触手を連想した。鼻の先端はラッパのように大きな円状になっているが、それは同時にちくわを思わせるものでもある。耳も大きく、まるで蜘蛛の巣が張っているようにも思えるが、同時に細切りにされたカマボコのような印象だった。
全身はあさりのように歪な姿にも思えるが、麺が組み合わさったかのような奇妙な整合性も感じるものだ。
この奇妙な石像はなんだろう、と眺めていると、その鼻が伸びた。その鼻は私の首筋に絡みついてくる。
痛みが走る。それと同時に私の血が抜かれたような感覚があった。
石像の鼻から血液が吸い取られたのだ。しかし、吸血する血液よりも体内に吸収する血液は少ないらしく、ゴボォっと鼻から余剰な血液を噴出する。私の身体も石像の身体も血まみれになった。
この石像はチャウグナール=ファウグンだろうか。私はふと思い至った。
チャウグナール=ファウグンは石像の姿を持った超次元生物である。旧支配者の一柱として語られることもあるが、おそらくはそれほどに偉大な存在ではないだろう。
かつてはピレネー山脈に棲んでいたとされるが、ローマ軍に棲み家を知られると、東洋のツァン平原に居を移した。これはローマ軍を恐れたのではなく、自らの聖域を侵されることを好まなかったからだとされる。九州ではなく、敢えて東長崎に赴いた私の行動と重なるものがある。
昼は石像として鎮座し、夜になると周辺の人々の血を貪るという恐ろしい存在だ。
奉仕種族として両生類を進化させミリ・ニグリ人を創ったとされ、ミリ・ニグリ人は人間と混血し、チョー=チョー人になったといわれている。
チャウグナール=ファウグンに血を吸われた私はどうなるのだろうか。出血多量で意識を失いつつある私はそう思った。
私の皮膚はしわくちゃになっていき、まるでさつま揚げのように変化していく。身体が日中に外に出しておいた
私は自分がちゃんぽんになるのか、チャウグナール=ファウグンに似せた姿で死んでいくのか、もはやわからなかった。
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