第四十四話 帆立とほうれん草のグラタン

 毎年のように、年明けの瞬間を大掃除しながら迎える。そんな私だが、今年は違う。大晦日まで、まだ五日もあるというのに、すでに大掃除を始めていた。


 年末進行で大わらわのタイミングだっていうのに、暇なのは仕事がないからだって? そういうことは言わないでほしい。こっちだって、いつまでこの仕事ができるのか、ビクビクしているんだ。


 まずは、やたらと散乱している本の山から片付けることにしよう。

 この本はシリーズものだから、こっちの本と一緒にする。巻数がごちゃごちゃだな。1巻から順に並べなくては。ん? 9巻だけないぞ。どこにあるんだ?

 この作家の本はこっちにあるから、まとめておこう。


 あっ、この作家は今年亡くなった人だな。このシリーズ、面白かったのに完結しないのかあ。どんどん謎が解けていっていたのに、それも結論がわからず仕舞いになってしまった。もの凄く残念だ。

 おっと、そういえば、この本は読み途中だった。今のうちに読んでおこう。こういうのも、今年のうちに片を付けておかないと。


 気がついたら暗くなっていた。電気をつけて、本の続きを読もう。

 あれ? 私は何をしていたんだっけ?

 そうだ、大掃除をしていたんだった。最初に始めた本の片づけすら、まったく終わっていないというのに、もう夜に近づいている。


 まあ、いいか。年明けまではまだ日がある。

 私は本を読み終えると、出かけることにした。お腹が減ったので、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂でご飯でも買ってこよう。


        ◇


 ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。もう外はすっかり寒い。コートを着ていたものの、ルリエーマートに入ると、その暖かい空気がありがたかった。

「あらぁ、麓郎ちゃん、いっらっしゃい。もう年末ねぇ。

 今年は大変お世話になりました。来年もよろしくお願いします」

 気が早いのか、クトゥルフお母さんは大晦日のような挨拶をしてくる。

「クトゥルフお母さん、まだ年明けには早いよ。明日も明後日も来るつもりだし」


 私がそう言うと、クトゥルフお母さんはキョトンとした顔をした。そして、すぐにハッとした表情をする。

「あらぁ、そうよねぇ。なんだか、今、挨拶しておかないと、もう年が明けるような気がして……」

 クトゥルフお母さんはそう言って目を伏せた。

 クトゥルフお母さんの瞼にかかったアイシャドーは緑がかっていて、その鱗と合わさるとキラキラと輝いているようだった。


「今日は寒いから、温まるようなものないかなあ」

 私はそう呟きながら、クトゥルフお母さん食堂のお惣菜を眺める。いいものがあった。グラタンだ。

 とはいえ、グラタンにもいくつか種類がある。チキンとトマトのグラタン、海老グラタン。グラタンではないが、ドリアやラザニアもあり、ついつい目移りしてしまう。

 そうして、帆立とほうれん草のグラタンを手に取る。


「そのグラタンも美味しくできているのよぉ。その食材は最近豊作でよく採れるの。調理担当のおじさんが頑張ってくれているのもあるけどねぇ」

 どうやら、帆立やほうれん草は最近豊作らしい。つまり、旬の食材ということかな。

 私は当たりを引いたことを確信しつつ、グラタンを手にレジへと並んでいった。


        ◇


 そういえば、買っておいたビールがあった。

 読者の方から紹介してもらったもので、サミクラウスだ。

 下面発酵ラガービールの中でもアルコール度数が最も高いらしい。


 私の心の中の老師、いや、サンタクロースが語り掛けてくる。

「サミクラウスはサンタクロースのことだ。毎年12月6日のサンタクロースの誕生日に発売されるぞ」

 つまり、その日に飲めってことかな。もう、その誕生日もクリスマスも過ぎているけど。


 グラスにサミクラウスを注ぐ。褐色が美しい透明感を演出しているが、意外なほどに泡立ちが少ない。

 ゴクゴクと口に入れると、黒ビール(アルト)のような麦の苦みが感じられ、そして深いコクに味わいの高さを感じる。だが、次の言葉にその感想はすべて塗り替えられる。

「甘っ!」

 サミクラウスは甘かった。すべての印象が甘さによって上書きされていた。

 そういえば、アルコール度数の最も高いラガーらしいが、実感は全然ない。


 チーン


 温まったので、グラタンをレンジから取り出した。そして、ふたを開ける。

 チーズの匂いが漂ってくる。目に入ってくるのは焦げ目のついたチーズとほうれん草の美しい色合いだ。

 よし、食べよう。


 グラタンを掬って口元に運ぶ。はふはふっと息を送って冷ますと、一気に口の中に放り込んだ。ホワイトソースはまだまだ熱く口の中が火傷しそうだ。どうにか冷まそうと口の中で必死で動かすが、同時に、ホワイトソースのまろやかな味わいが伝わってくる。魚介系のエキスも入っているようで、まるで遠い宇宙の未知な食べ物であるかのような、新鮮な美味しさだ。焦げ付いてさえいるチーズの香ばしさと合わさって、得も言われぬ旨味が演出されている。

 なんだかんだ、この熱さも、寒い季節にはありがたいものだ。


 もう一口食べると、ほうれん草とペンネが口の中に入ってきた。これも、どうにか冷ましつつ、味わっていく。

 ペンネはソースとよく絡んでおり、歯ごたえもちょうどよく、いい味だ。ペンネ本来の小麦粉の香りも味わい深い。

 それに、ほうれん草が絡んでくる。緑を感じる風味、鉄分を感じる味の濃さ、シャキシャキした食感も楽しい。ほうれん草の持つ豊富な栄養がそのまま美味しさに転化されている。そんな印象だった。


 さらに一口。エリンギとベーコンが交ざっている。エリンギのコリコリした食感と香りが、ベーコンの燻製の香りと肉の旨味と合わさって、素晴らしいコンビネーションを示している。もちろん、ホワイトソースとチーズの味わいともマッチしたものだ。


 そして、今回の主役の帆立だ。

 口の中に入れた瞬間から、帆立の重厚な香りが私の頭の中を支配していくようだった。肉厚なその身は食べ答えがあり、噛みしめることでぎっしりと詰まった旨味が解放されていく。

 これにチーズとホワイトソース、それにほうれん草の味わいが重なっていくのだ。こんなの美味しいに決まっている。


 具材の組み合わせをいろいろ変えながら、グラタンを食べていく。帆立とエリンギの組み合わせもいいし、ほうれん草とベーコンを一緒に食べるのもいい。

 タバスコもかける。酸味のある辛さが、チーズとホワイトソースによく合う。これもまた美味しい。


        ◇


 グラタンで大分暖まった。

 そう思っていたら、急に寒空の下に晒されることになる。巨人が私の家を持ち上げていた。その巨人はのっぺらぼうのように顔がなく、目があるべき窪みは毛で覆われていた。

 同じようことが最近あったんじゃないか。なぜか、そんな気がしてくる。


 上空からブーンと羽音のようなものが聞こえてきた。昆虫の大群が飛んでいるようだ。

 そうかと思うと、今度は足元からカサカサという音が聞こえる。大量の昆虫が私の足からはい上がってきていた。

 いや違う。昆虫じゃない。昆虫は頭部、胸部、腹部の三構造になっており、足が六本だ。小学校で習う内容だ。だが、私の足から這い上がってきているのは、足が十本あるではないか。さらに口が三つあり、それぞれの口から触手が房のように生えている。これは昆虫じゃないぞ!


 私が這い上がってくる昆虫が昆虫ではないと喝破している間に、昆虫はどんどん這い上がってきていた。私の足を越え、胴体を越え、頭部にまで至り、やがて耳や鼻や口、それに目の中に入り込んでくる。

 そうして侵入してきた昆虫は私の脳と溶け合い、私の脳は次第に昆虫によって支配されていった。


 私の脳の中に、昆虫の記憶が再生される。

 この昆虫はシャンと呼ばれる種族だ。あるいは、シャッガイからの昆虫とも呼ばれる。惑星シャッガイは数百年前に外宇宙から現れた脅威によって破壊され、シャッガイからの昆虫はいくつもの惑星を流浪していた。やがて、天王星ルギハクスで金属生命体と共存することになるが、その際に金属生命体の信仰が流入したせいで宗教闘争が起きる。古くからの信仰を守る者たちは少数派になり下がり、地球に逃れ、地球人を支配することで、自分たちの勢力を盛り返そうとしているのだ。


 シャッガイからの昆虫には精神波により奴隷を操る能力があり、のっぺらぼうの巨人も別の惑星で配下に加えた奴隷種族である。さらに、脳と融合することで寄生することもでき、今まさに私は寄生され、支配下に置かれてしまった。

 しかし、支配下に置かれているといっても、ある程度の自由意思はある、ような気がする。


 そして、問題なのはシャッガイからの昆虫が信仰している神だ。

 彼らは円錐状の金属でできた神殿でアザトースを崇拝しているのだ。その神殿にはアザトースの化身であるザーダ=ホーグラの姿が祭られており、その化身像が多次元の門となり、アザトースの宮殿へと続く道となっているという。


 アザトースへの謁見は、かつて私の父の悲願であった。そのことを知ってからというもの、私の精神には高揚してくるものがあった。

 以前の私はアザトースの存在が恐ろしくてしょうがなかった。だが、なぜだろうか。今はアザトースに謁見しなくてはと心が逸っている。


 シャッガイの昆虫が地球上にいくつも建設した円錐状の施設により、テレポートした私はイギリスのゴーツウッドに訪れていた。ここに、シャッガイからの昆虫の本拠地であり、アザトースの神殿が鎮座しているのだ。

 私は金属の扉を越え、多次元の門であるザーダ=ホーグラの前に立つ。それは、二枚貝のような殻を持っており、そこから長い肢がいくつも延びいる。その二枚貝の奥はびっしりと毛で覆われており、さらにその奥にザーダ=ホーグラの顔が――。


 何も考えないようにしよう。何も思わないようにしよう。私は何も見なかった。何かを見たと認めてしまったら、私の心は崩壊してしまう。

 しかし、もう無理だった。私はここまでだ。


 私は自分の精神が崩れ去っていくのを感じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る