第十六話 中華丼

 校正というものをご存じだろうか。


 印刷の工程として、実際の印刷物と同じ状態に組版したゲラ刷りを確認して、文章に間違いがないかチェックするために行う。場合によっては文章だけでなく、写真の配置や大きさ、文字の並びなどが正しいか、あるいは見た目として問題ないかなどの確認もする。

 これは初校から始まり、二校、三校と続く。場合によっては四校、五校もあるのだろうが、刷るたびに経費がかかるものなので、大抵は二校か三校で終わる。


 次いで、青校や色校という、ほぼ印刷物に近い状態のものが刷り出される。

 青校はフィルム製版して感光紙に焼き付けたもので、写真や文字の濃度や台割(ページ構成)のチェックに用いられるのが本来の意義だが、だいたいミスを見つけるので、ここでも赤字は入る。

 色校は文字通り色のチェックをするものだが、印刷物というのは意外なことに職人の感性が色濃く反映されるらしく、イメージと違う色になることも多いようだ。私にはよくわからないので、そのやり取りの時は、編集者というのはやたら色にこだわるなあと思いながら見ている。

 この工程の際には、ゴミが入っていると思しき箇所にみんなチェックを入れる。私も真似して入れているが、本当にゴミがあるのかも、あったとしてちゃんと除いてくれるのも知らない。たぶん、みんな仕事した感の演出のためにチェックを入れているのだろう。


 私はライターなので、これらの工程には本来的には関わらないものかもしれないが、これらを込みで依頼されることも多い。

 クリエイターとしての感覚の強い人だと、こんな作業みたいなことはあまりやりたくないと思ったりするようだが、私は単純作業がわりと好きだ。なので、むしろ校正もできますよと売り込むことが多い。本物の校正マンみたいなことは当然できないけれど。


 これらの工程のたびに考えるのは、似ているようで違う原稿が点在しているということだ。

 そのことを考えると不思議な感覚がある。実際に世に出回った印刷物とて、完璧なものなど存在しないと言っていいだろう。いくらでも誤植が見つかる。

 これは電子書籍でも同じだ。推敲を続けるうちに少しずつ変わった原稿、アップロードしたものの誤字や間違いが見つかって訂正されたデータ。

 そうして、いくつもの少しだけ違う、似た文章が発生し続けるのだ。


 それはさておき、お腹が減ってきたので、どうでもいいことを考えるのはやめて、ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂でご飯でも買ってこようかな。


          ◇


 ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂にやって来た。

「あらぁ、麓郎ちゃん、いらっしゃい」

 いつものようにクトゥルフお母さんが出迎えてくれる。ただ、今日のクトゥルフお母さんはいつもより輝いて見える。具体的には、クトゥルフお母さんの全身にびっしりと生えた鱗のひとつひとつが光を放っている。黄金色のような重厚で煌びやかな輝きだった。


「クトゥルフお母さん、今日はなんだか輝いて見えるよ。何かあったの?」

 私は思わず質問してしまった。

「うふふ。あらぁ、そうぉ。うーん、今日はねぇ、お父さんが来てくれたのよ。だから、かしらぁ」

 クトゥルフお母さんの微笑みが可愛らしい。だからだろうか、私は少し彼女のお父さんに嫉妬にも似た感情を抱いた。クトゥルフお母さんに愛想笑いを返すと、商品の陳列棚に目をやる。


 商品棚を眺めながら、少し長考していた。しばらくして、意を決したようにその商品を手に取る。

 それは中華丼だった。

 なぜ、中華丼なのか。直感で選んだ、の一言で終わらせたいところだが、少し言葉を費やそう。まず、中華丼には宇宙がある。肉もあれば海産物もあり、野菜も、キノコもある。中華丼にはこの世界のすべてが込められているのだ。そうは思わないだろうか。私は世界を味わいたくなったのだ。


「うふふ。麓郎ちゃん、よろしくねぇ」

 今日のクトゥルフお母さんは右手を大きく振って送り出してくれた。

 そのこと自体は嬉しいが、それが彼女のお父さんの影響かと思うと、素直に喜べなかった。


          ◇


 中華丼にした本当の理由を話そう。

 実は、熟成20年物の紹興酒をもらっていたのだ。このお酒に相応しい料理はないかと考えていたのだが、ピタリと当てはまったのが中華丼だった。


 紹興酒をどう飲むか。これは少し議論されるべきところだろう。ロックだろうか、水割りだろうか、熱燗だろうか、はたまたお茶割りだろうか。私は断然、常温でストレートだ。

 味の強いお酒というのは、冷やしても温めても、どうしても味がぼやけてしまうように思える。なので、常温でそのまま飲むのが正解だ。

 これは、ブランデーでもウィスキーでも同じだ。ん? ブランデーもウィスキーも割って飲んでたじゃないかだって? そんな話は知らん。


 グラスに紹興酒を注ぐ。琥珀色の液体が重なり、美しい透明感を演出していく。

 独特の味わい深い香り。それを感じつつ、一口飲む。舌に酸味が走る。次いで、濃厚な香り、上品で透き通るかのような味わいを感じた。濃厚で、それでいて飲みやすい。

 これは素晴らしいお酒だ。まだ一口だけどちょっと酔ってしまったかな。


 そして、中華丼だ。

 具材は、豚肉、たけのこ、チンゲン菜、人参、白菜がメインで、一口ずつだが、海老、ウズラの卵、キクラゲ、ヤングコーンも入っている。

 一口食べる。白菜のシャキシャキとした爽やかでかつ味わい深い食感。同時に、中華餡の塩味と旨味がそれをサポートする。中華餡は熱く、それでいて旨い。懐の深い、重厚感のある味わいで、具材を包み込んでいく。

 次いで中華餡と交わるかのような白いご飯を味わう。噛みしめるごとに、白菜と肉、ご飯、中華餡、これらの境界線がだんだん曖昧になっていく。

 これは美味しいぞ。中華餡のとろりとした食感はただ美味いだけではない。ご飯に対しても当然だけれど、ほかの食材に対しても徐々に侵食し、その旨味の世界へといざなっていく。豚肉も白菜も、たけのこも、チンゲン菜も、人参も中華餡に支配されつつ、それぞれの旨味、香り、食感は消え去ることはない。中華餡が指揮者でもあるかのように、中華丼としての統一感を築き上げていると言っていいだろう。


 そして、楽しみなのは一口ずつの具材だ。

 ウズラの卵は噛み砕いた瞬間に黄身の旨味が破裂して口いっぱいに広がる。白身は淡白でありながら中華餡をたっぷり吸いこんでいて、これだけでご飯を頬張りたくなる破壊力を秘めている。

 ヤングコーンは食感がいい。シャクシャクと心地いい歯ごたえがあり、それでいて中華餡をたっぷり吸っているので、旨味もしっかりある。

 キクラゲのコリコリとした食感は豚肉とも、人参とも、白菜とも合っている。一緒に味わうのが極上だろう。

 そして、やはり海老だ。噛みしめるとプリプリした食感とともに、旨味が口いっぱいに広がる。濃厚な香りが鼻先を刺激する。

 実に、いい味だった。


 丼ものというのは夢中で食べるのに向いている。

 具材とご飯を一口分に選り分けつつ、必死でかっ込む。見映えなんて気にしてもしょうがない。どんぶりを口につけ、ひたすら箸を動かすのだ。

 そうして生まれる満足感こそ丼ものの醍醐味だろう。

 上品ぶっていても何も生まれない。すべてをかなぐり捨てて、食べることに集中してこそのどんぶりなのだ。


          ◇


 私は無我夢中で中華丼を食べ続けていた。

 あまりに集中していたせいか、自分がどことも知れない空間に放り出されていたなんて気づきもしなかった。

 いつの間にか、私にはどんぶりに付ける口もなければ、箸を動かす手もなくなっていた。

 そこは宇宙空間のような、無限の場所だった。


 ただ無限の空間を漂っていた。

 そんな中で浮かぶのは、かつての私の幼少時代、ただひとりで小学校の入学式に向かう姿だ。同時に、少し成長した私が奈菜なな弥恵やえ小恋乃都ここのつとともに駄菓子屋に向かう姿もあった。そして、大人になった私がルリエーマートでイカ焼きを買おうとしている。

 いくつもの私の姿が何重にも重なりながら、同時に知覚できる。


 そんな何重もの自分自身を感じつつも、目の前に異形のものたちが佇んでいることにも気づいていた。そのものたちは、私の視点ではどうにも焦点が定まらず、輪郭の不安定な状態で映っていた。人間に類似しているようにも思えたが、大きさは半分ほどにも満たず、なによりも人間を超越した不思議な気配をまとっていた。

 そのものたちのひとりが話しかけてくる。


「割り込みし者よ。来てしまったのだな。我はお前を歓迎するつもりはないが、第一の門は開け放たれてしまった。お前は望むと望まざるとにかかわらず、窮極の門へと進むことになろう」


 私には何のことかわからなかった。

 しかし、豪奢な衣装をまとい、荘厳な音色をまとわせる、このものの言葉には従わなければならないようだ。

 ただ、このものが何者なのかを知りたい。言葉にならないままに口をパクパクさせながら質問する。


「私を呼びたいのなら、〈導くもの〉と呼ぶがよかろう」


 その瞬間に私は理解した。

「導くもの」あるいは「古ぶるしきもの」、それは「門を護るもの」とされるウルム・アト=タウィルにほかならない。

 そうであるならば、私が進む先は……。


 私は何もない空間をただひらすら進む。

 そこには何もなかった。空気もなければ、真空もない。私の肉体もなければ、魂もなかった。進んでいるという意識すら意味のあるものかわからない。


 いや、そんなことはなかった。

 なにもない、なんてことはない。

 むしろ、全てがあった。私の矮小な意識では全ても無も区別をつけることができないだけだった。


 私は自分自身を見つけ出した。

 幼く、何も知らず、無邪気な質問をして父を激昂させていた頃の私。

 角度を少し変えれば、あるいは少し位置を変えれば、また違う私になる。初めて奈菜と出会った時の私。けいちゃんを投げ飛ばして泣かせてしまった時の私。


 角度を、位置を、スケールを、もっと変えてみたらどうなるのだろう。

 いたずら心を抱いて試してみると、それは異様な光景を見せた。世界の誕生、世界の破滅、そしてまた世界の誕生。

 それはまるで大きな生物のような、常に動きつつあるものだった。

 それはヨグ=ソトホースであった。「戸口に潜むもの」「門にして鍵」「全にして一、一にして全なるもの」」と呼ばれる外なる神である。

 宇宙に遍在する「原初の混沌の外的な知性」と言われているが、今初めて理解できた。ヨグ=ソトホースは神なんていう生ぬるいものではない。この世界、この宇宙そのものなのだ。

 矮小な人間でしかないと思っていた私もまたこの世界を構成する一つであり、ヨグ=ソトホースの一側面であるのだ。


 これに気づいた時、なにものかが私に話しかけてきた。

「麓郎よ、お前の願うものはなんだ。我は全にして一、一にして全。すべてを叶えることができよう」

 不思議な声だった。そして、私はその声を聴いた瞬間に脳裏に浮かぶものがある。

 ルリエーマートのクトゥルフお母さん食堂。いつも出迎えてくれるクトゥルフお母さんの笑顔。そこにある極上の食品の数々。それをいつか全部食べてみたい。

 それは願いというにはおぼろげなものだったが、私の望みであった。

「そうか。ならば、第二の門を開こう」


 なにものかの声を聴いた瞬間、私の意識が飛んだ。そして……、

 私はルリエーマートでクトゥルフお母さんからイカ焼きを買っていた。

 私は鮭の塩焼きを口いっぱいに頬張っていた。

 私の胎から愛しき我が仔が生み出されようとしていた。


 何重もの私がルリエーマートに通っていた。

 何重もの私がクトゥルフお母さんと会話していた。

 何重もの私がお惣菜を買っていた。

 何重もの私が食事していた。

 そして……。


 私の願いは叶っていた。

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