第18話
エレベーターのドアが開き、中の照明に照らされた事により、薄暗いエレベーターホールに立つその姿が私の目にはっきりと映し出される。
男の子だ。
高校生……いや、中学生だろうか。
男子にしては背が低く、私よりも幾分幼く見えるボサボサ髪の彼は、上下に汚れたジャージを着て、背中に大きなリュックを背負っている。
顔立ちは割と整っており、ハンサムというよりかは可愛らしい部類であろうか。どことなく柴犬を連想させる顔をしている。
そんな彼は、唖然とした表情を浮かべながら生意気そうな吊り目で、床に跪いた私を見下ろしていた。
「何してんの?」
彼の第一声はそれだった。
無理もない。
マンション内にいきなり飛び込んできた女の子が、ぜいぜいと荒い息を吐きながら床に跪いていたら、私でもそう言うかもしれない。
『私でもそう言うかもしれない』
なるほど、そういう事か……。
私は明子ちゃんを失ったショックで、また幻の友達を作り出してしまったのだ。しかも無意識に。
いよいよ精神がおかしくなってしまったみたいだ。
今度は男の子か。
確かに異性があまり得意でない私にとっては、男の子の方が迂闊に接触をする事がないだろうから良いかもしれない。
無意識とはいえ私にしては良いアイディアだ。
でも、もういい。
もういらない。
「————えて」
「え?」
どうせいつか消えてしまうなら、また失う悲しみを、あの虚しさを味わうくらいなら、幻の友達なんていらない。
「消えてよぉ!!」
私は立ち上がり、男の子に向かって勢いよく突進した。
そしてギョッとして後ずさる彼の顔面に手を伸ばし、相撲の張り手のように正面から叩きつける。
どうせ消えてしまうのなら、心を預けてしまう前に自らの手で消してしまおうと考えたのだ。
掌は彼の顔面をすり抜け、彼は明子ちゃんと同じように、そこにいたという痕跡すら無く消える————はずだった。
「ばぶっ!?」
掌から腕へと重い物を押した衝撃があり、私が勢い余って腕を振り抜いたせいで、彼はその場から軽く一メートルは吹っ飛んだ。そしてリュックをクッションにして仰向けに倒れる。
「……え?」
掌にはジンジンと、何かを強く叩いた痺れのような感触が残っている。
私の想像力はついに触れる事ができる幻すら作れるようになってしまったのだろうか。
だが、もしそうではないとしたら……。
「痛ってぇ! いきなり何すんだバカ! 頭おかしいのか!?」
彼は手で鼻を押さえながら、私を睨み付ける。
明確に意思のある、怒りと敵意を抱いた目だ。
「おい! 自分で殴っておいて何驚いてんだバカ! なんとか言えよ!」
違う……。
幻じゃない。
彼は確かにそこにいる。
幻じゃない人間が、この世界に私以外の人間が、確かにそこに存在している。
「殴ってゴメンなさいとか言えないのかよ!? ていうかお前誰だよ!?」
先程から口うるさく怒鳴っている彼の姿が、私には暗闇の中で差し出された一本の蝋燭の火のように、暖かく、尊い存在のように思えた。
今となっては最早懐かしさすら感じる自分以外の人間の存在が、消えてしまわぬように、幻ではないように、私は祈るような気持ちで彼に向かってゆっくりと足を踏み出す。
「な、なんだお前!? やんのか!? ていうか、怖いから何か喋れよ!!」
彼は怯えたようにズルズルと床を後ずさる。
私はただ彼が幻ではないという確信が得たくて、彼を追い詰めるように歩を進める。
多分彼は怖がっているのだろう。
それはそうだ。たった今いきなり襲い掛かってきた女が、今度は無言でヨロヨロと歩み寄ってくるのだから。
でも、私の口から言葉は出てこなかった。
涙もこの一月で枯れ果てていた。
エレベーターホールの柱に追い込まれた彼に向かって、私は身を屈めて手を伸ばす。すると、彼は目を瞑り右手で顔面を守る。
しかし、私の伸ばした手は彼の右手を乗り越えて、髪の毛が所々跳ねている頭へと触れた。
見た目よりも細く柔らかな感触の髪が、私の指の隙間を通り抜けてゆく。
彼の頭皮から伝わる体温が、暖かくて、懐かしくて、私は何度も何度も彼の頭を撫で回した。
やはり彼は幻ではなかったのだ。
いっそ思いっきり抱きついてしまいたいくらいだったけれど、そこはなんとか理性で抑えた。
「何だよ!?」
ふと、下から聞こえてきた怒鳴り声に、私はようやくハッとする。
「殴ったり撫でたり何なんだよ!? 飴と鞭的なやつか!? あぁ!?」
頭に乗せた手の下から私を睨め上げる彼の目は、怒りのせいか野犬のように鋭いが、童顔のおかげで全然怖くはない。
怒鳴る声もドスを効かせているつもりなのだろうが、どちらかといえば高い声なので、やっぱり怖くない。
しかしながら、私が彼を殴ってしまったのは事実である。
しかもこの世界において何よりも貴重な自分以外の人間を。
それに、冷静に考えて私は初対面の人間にとんでもない事をしでかしてしまった。私は彼に誠心誠意謝らねばならない。よく見たら彼の小さな鼻からは鼻血も出ている。
しかし、私は彼に謝罪の言葉を述べる前に、もう一度だけその頭を撫でた。
「おい!」
彼の怒鳴り声は、やっぱり少しも怖くなかった。
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