第19話

 それから十分後、よく吠える犬のように怒り狂う彼をなだめすかし、誠心誠意謝罪をして、不条理な張り手の理由を簡潔に説明した私は、鼻にティッシュを詰め込んだ彼と並んでエントランスのベンチに腰掛けていた。


「なるほどな、それで俺を殴ったのか」

「はい」

「それは仕方がないよな……とはならないだろ。いくら何でもいきなり殴りかかるか? しかも掌底で。せめてビンタだろ」

「……本当にゴメンなさい」

 この件に関して過失は100%私にあり、ただただ謝罪する他ない。そして本心から申し訳なく思っていた。

 しかし、申し訳ないと思いながらも、人と出会えた事による安堵感により、私の目には熱いものが込み上げてくる。私は謝罪の言葉を口にしながらも、先程からそれをグッと堪えていた。


「そんな顔されたらあんまり強く言えないだろ……女はずるいよな」

 我慢しているつもりでも、私はどうやら泣きそうな顔をしていたようだ。しかしながら先程から十分過ぎるほどに強く言っていたような気がするが、彼と私では言葉の物差しに差があるらしい。


「で?」

「え?」

「あんたもこの世界の人間じゃない事はわかったけど、まだ名前も聞いてないだろ」


『あんたも』

 恐らくそうではないかと思っていたが、その言葉で彼も私と同じ境遇の人間であるということが理解できた。


「あの、私は雨宮鳴海です。あなたは?」

「俺は鈴木秋斗、コウイチ」

「鈴木君はハーフなの?」

「いや、違うけど。何で?」

「だって、ミドルネームがあるからハーフの人かなって……」

「……ミドルネーム?」


 蛍光灯が点滅する薄暗いエントランスに気まずい沈黙が流れる。

 そして数秒後、私は自分が馬鹿な勘違いをしていることに気が付いた。彼はスズキ・アキト・コウイチと名乗ったのではなく、鈴木秋斗という名前の高校一年生だと言ったのだ。

 これは私が彼の事を中学生だと思い込んでいたのと、彼が単調に喋った事によって起こった勘違いである。

 私がそれを口にすると、彼は怒っているような呆れているような顔で笑った。


「お前、アホだな」

「アホとは何か! ていうか同い年だったんだ……」

「え? 同い年? 中二くらいかと思ってた」

「それはこっちのセリフだよ! 私も鈴木君の事中学生だと思ってたし!」

「いや、それ気にしてるんだから言うなし!」

「でも……ほら、鈴木君って若く見えるし……」

「そういうボカした言い方されたら余計傷付くだろ!? チビで童顔ってハッキリ言えよ! それに、男で若いって言われて喜ぶのはオッサンになってからだからな!」

「ご、ゴメン……」


 普通だ。

 普通の会話だ。

 どこにでもいる初対面の高校生同士が交わすような、なんの変哲もないありふれた会話だ。

 最初は多少緊張していて距離を感じても、ちょっとしたきっかけでそれがグッと近くなり、いつの間にか敬語ではなくなって、少しだけ互いをいじりあったりする仲になる、日常を感じさせるやりとり。

 それが、そんな些細な事が嬉しくて、暖かくて、私は……。


「お、おい、何泣いてんだよ……?」

「え……?」

 いつの間にか私は泣いていたらしい。

 枯れ果てたと思っていたのは悲しみの涙であり、喜びの涙はまだ残って……いや、有り余っていたようだ。涙は拭っても拭っても、次から次へと目の端から零れ落ちてくる。ハンカチを持っておらず、ズビズビと鼻を啜ってしまうのが恥ずかしい。


「ゴメン……あの……だって……ゴメンね」

「いや、謝るなって! なんか俺が泣かしたみたいだろ!? ていうか大丈夫か!? なんか飲み物とかいるか!?」

 泣きじゃくる私を見て鈴木君が目に見えて慌て始めたのが、何だか滑稽で、少しだけ面白かった。


 こうして私はこの世界を訪れて三ヶ月目にして、ようやく自分以外の人間を見つけ出す事ができたのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る