第20話

 遠くから、風の音が聞こえる。

 私はカレーの残り香が香る天空マンションの705号室のダイニングテーブルに顔を伏せて、言い知れぬ虚しさに胸を痛めていた。

 テーブルの対面には鈴木君。

 彼が私を見ながら一体何を考えているのか、私にはそれがわからない。


 ただ……。

 ただ私はどうしようもなく……虚しかった。


 時は昨夜まで遡る。

 あれからしばらくして落ち着いた私は、鈴木君に対して聞きたい事や話したい事がチョモランマの如くあった。


 この世界について何か知っているのか。

 私達の他に人間は存在するのか。

 誰が私たちをここに連れてきたのか。

 どうすればここから帰る事ができるのか。

 これまでどこにいたのか。等、とにかく色々だ。


 しかし鈴木君は

「じゃあ、今日は疲れてるからもう寝る。鼻も痛いし」

 と言って、さっさとエレベーターに乗り込もうとした。

 それを私が必死に引き止めていると、

「あー! 明日明日! 明日話すから! 昼過ぎに705号室に来い!」

 と言って、結局そのままエレベーターに乗って上がっていってしまった。


 その夜、諦めて部屋に戻った私は、ベッドで横になりながら気が気ではなかった。

 久しぶりに人と接する事ができたのは嬉しかった。

 でも、もしかしたら彼はやっぱり幻で、明日部屋に行っても誰もいないんじゃないだろうか。もしくは私が部屋に行く前に、マンションを出てどっかに行ってしまうのではないだろうか。

 そう思うと、不安で中々寝付く事ができなかった。

 いっそ捕まえてロープで縛ってしまえばよかったかもしれない。小柄な彼ならば私にでもできない事もないだろう。


 いやいや、何をアホなことを考えているのだ。

 もし鈴木君に嫌われでもしたら、私はまた一人ぼっちだ。

 しかも脱出の手がかりを持っているかもしれない貴重な第一村人を逃すわけにはいかない。

 いや、もし何も知らなかったとしても、二人で力を合わせればきっと……。


 その日、私の夢の中に明子ちゃんが出てきた。

 明子ちゃんは『そんなに上手くいくかなぁ』と、訝しげな顔をしていた。


 そして翌日の昼過ぎ、私は昨夜の謝罪とお近づきの印という意味を込めて朝から仕込んだカレーの鍋を抱えて、鈴木君の指定した705号室を訪れたのだ。


 この世界に来てから初めての、本当の意味で他人の住居へのお宅訪問。

 インターホンを押してからの数秒間、鈴木君が本当に出てくるか不安ではあったが、彼はあくびをしながらも普通に出てきてくれた。

 玄関先に現れた鈴木君はどうやら寝起きらしく、髪は昨日以上にボサボサで、目は狐のように細かった。そして服装は昨日着ていたジャージではなく、上下共に灰色のだらしなく見えるスウェットだった。


「あのー、カレー作りすぎちゃって。良かったらいかがですか?」

「……入れよ」

 そして残念ながら、私の『ベタなようで中々いない女子大生の隣人』の小ボケには付き合ってくれなかった。


 部屋の中に入ると、そこは私が生活している119号室を左右反転させた間取りの部屋であった。そして物が少なくすっきりと片付いている。彼はこれまでここで生活していたのだろうか。

 いや、そんなまさか。

 私は毎日のようにマンションの見回りをしていたし、同じマンションに三ヶ月も住んでいて、気配すら感じないだなんてあるはずがない。


「座れよ」

 私は鈴木君の言葉に従い、ダイニングテーブルの上に鍋を置き、椅子に腰掛ける。

 鈴木君は台所の水道でジャブジャブと顔を洗い、それを豪快にスウェットの袖で拭ってから、まだ眠そうな目で私と鍋を見比べる。そして鍋の蓋を開けて中を覗き込んだ。


「米は?」

「え?」

「白飯だよ白飯。白飯ないとカレー食えないだろ」

 どうやら鈴木君はカレーを食べたいようだ。

 小ボケのことで頭がいっぱいでご飯を持ってくるのを忘れていた私は、慌てて自分の部屋に戻り、炊飯ジャーごとご飯を持ってきた。

 すると、鈴木君はコンロでカレーを温めつつ、二人分の食器を用意してくれており、それから私達はテーブルで向かい合って無言でカレーを食べた。

 鈴木君はどうやら私のカレーを気に入ってくれたのか、三回もおかわりをした。小柄なくせに意外と大食いだ。


 久しぶりに他人と食事ができたのは嬉しかったけれど、男の子に手料理を食べてもらう事は初めてだったので、何だか緊張した。


「ごちそうさん。全然辛くなかったけど、割と美味かったかもしれない」

「……ども。お粗末様でした」

 辛い物が苦手だったらいけないと配慮したのに、なんか腹が立つ言い方をされた。まぁ、美味しかったなら良しとするか。


「で、何?」


 そして、食事が終わるといよいよ本題である。

 もしかしたらこの世界に存在する唯一の人間かもしれない私達の、二人ぼっちサミットの開催だ。


 しかし、昨日はあれほど聞きたい事があったにも関わらず、一晩置いていざ向かい合ってみると、何から聞けばよいのかわからない。

 わざわざ手土産まで持って押しかけてきておいて黙っているのもなんなので、取り敢えず思いついた事から聞いてみる。


「あのー、鈴木君はこの世界の人じゃなくて、私と同じ世界から来たんだよね?」

「知らん。まずお前が……雨宮だっけ? 雨宮がどこの世界から来たのか知らないし」

 確かに。

 私が鈴木君の事を何も知らないように、彼もまた私の事を何も知らないのだ。


「えーと……私は二〇二〇年の日本から来たんだけど、鈴木君は?」

「俺は二十四世紀のロサンゼルスからだ。とある組織によってこの世界に送り込まれた。侵入者であるお前を消すためにな」

 思わず「はえ?」という声が漏れた。

 すると、鈴木君は鼻で笑う。


「冗談だよ。雨宮と同じだ」

 なんて奴だ。

 人が真面目に話をしようとしているのに……。

 しかし、ここで怒ってはいけない。

 情報を引き出すまでは彼のご機嫌を損ねるわけにはいかないのだ。


「どうやってこの世界にやってきたのか覚えてる?」

「いや、全然。放課後から記憶がない」

 これも私と同じだ。


「えーと、じゃあ……いつからこの世界に?」

「もう二ヶ月……じゃなくて、三ヶ月ちょいかな」

 これも私と同じくらいだ。

 いや、私より少し長いのだろうか。

 それにしても、もっと早く会えていれば、あんな思いはせずに済んだのに……。


「これまでどこにいたの? 目を覚ました時にどこか遠くにいたの?」

「いや、目を覚ましたのはこのマンションの屋上だったぞ。んで、三日くらいここで暮らして、どうせなら色んな所見てみたいと思って旅に出たんだよ。他に人がいるかもしれないしな」

「旅って……これまでずっと!?」

「おう。んで、昨日帰ってきたら、雨宮がいきなり殴り掛かってきたってわけ」


 なるほど、道理で出会わなかったわけだ。

 私は彼と入れ違うようにこのマンションに現れた事になるのだろう。

 それにしても、見知らぬ世界に来て三日で旅に出るとは、なんというアクティブさだ。

 そして旅に出たという事は島と島との移動ができるという事で、鈴木君も私みたいに跳躍能力が使えるという事だろう。


「私達の他に誰か人はいた?」

「いや、いないいない。人どころか他に生き物もいねぇの。だからお前に会った時は結構びっくりしたよ。殴られたし」

 やっぱりそうなんだ。

 つまり私はこの世界で鈴木君と二人きり……。

 もしかして私は、これから鈴木君とこの世界のアダムとイヴにならねばいけないのだろうか。


『あなた、また赤ちゃんが産まれたわ。一姫二太郎よ』

『カレーおかわり』


 そんなの嫌だ!

 いや、それはこの世界から脱出できなかった場合だ。


「じ、じゃあ、この世界から帰る方法とか見つかった?」

 そう、これが今回のサミットで一番重要な質問だ。

 これさえわかれば元の世界に帰る事ができるし、手順が必要だとしても、いずれは元の世界に戻れるはずだ。


 すると、まだ眠そうだった鈴木君は、目をパチクリとさせて私を見た。


「え? なんで?」

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